水界の覇者 3.密航者

 つややかな灰色の猫が、意気揚揚と死んだねずみをくわえてきて、愛する主人の足元に置いた。
「よしよし、ミント、おまえは船一番の腕ききハンターだな」
ミントはにゃあと鳴いて足元にまとわりついた。キャプテン・シャークアイは愛猫を抱き上げて膝に乗せ、あごの下をくすぐった。ミントは満足げに目を細めて喉を鳴らした。
「ベルメイユ、もう一度聞くが、本当にいいのか?」
酒場の女主人は、カウンターの向こうから微笑んだ。
「だって、あたしの家族はとっくに死んじゃっていないんですよ。敵討ちはキャプテンがしてくださったから、あたしはもう、マール・デ・ドラゴーンの女です。そのうちお墓参りにでも行きますから、どうかおかまいなく」
キャプテンは目元に笑みを浮かべた。冷たい印象のある高い鼻梁と薄い唇が、とたんに甘さを帯びる。唇のそばに、小さな笑いじわができるのを、ベルメイユがうっとり見守っていた。
「そうか。それならばいい。いや、こいつがさかんに気にするのでな」
そう言って親指で隣に座っていたルドゥブレを指した。ルドゥブレはあわてた。
「うちの隊の者がみ~んな、ですよ、おれだけじゃなくて。酒場のベル姐さんには、故郷にいい人がいるんじゃないかって」
ベルメイユは小粋なしぐさで手を振った。
「いやしませんさ」
「ベルのような美人が独り身だと、船の中の男どもがなにかとやきもきするのはあたりまえだな」
「あたしはねぇ、キャプテン、理想が高いんですよ」
ベルが身を乗り出すと、キャプテンはふふ、と笑った。
「聞いたか、ルドゥブレ?隊の連中には、もっと男を磨けと言っておけ。ベル、邪魔したな」
そう言ってカウンターを離れた。片手でミントをひょいと肩の上に乗せる。
 またのおこしを、と黒髪流れる広い背中に呼びかけて、ベルはためいきをついた。
「もう、にぶいんだから、あの旦那は。でも、奥様をお迎えになってからこっち、いちだんと男くさくなっちゃって、前よりたのもしくなっちゃって」
ルドゥブレがキャプテンのあとについて出て行くのも、夢見ごこちのベルは気づいていないようだった。
「アニエス様には及びもないが、せめてなりたや、ミントちゃん」

 晴天、東北東、微風。
 甲板は静かだった。大砲の列の間で、砲撃隊に所属の少年たちが火薬を量って小分けにしている。
 その向こうでは斬り込み隊が集まって素振りに励んでいた。
 スターボード側の船では水夫長が新人を集めてなにやら説明している。
 甲板の隅の大樽の上では、この船に棲む猫たちが集まってひなたぼっこのさいちゅうだった。
「のどかですね」
思わずルドゥブレは言った。キャプテンは薄く笑って、ミントを甲板の上に放した。
「シナモン、タイム、昼寝ばかりしていないで、少しはミントを見習え」
ミントは、うれしそうにキャプテンの足に擦り寄った。
 そのときだった。少年が一人、小走りにやってきた。
「シャークアイ様!お願いがあります!」
水夫の一人、タンデルのせがれだとルドゥブレは気づいた。
 マール・デ・ドラゴーンの一族は、船の中で生まれ、船で一生を送る。船の下の方に居住区があり、そこに住む子供たちは、一定の年齢まで厨房や商店の手伝いをしたり、教会で読み書きを習ったりするが、あるていどの年になると、適性によって所属が決まる。
 ルドゥブレ自身は、親がもともと斬り込み隊にいたため、小さいころから剣技に興味があり、誘われるとすぐに入隊してがんばってきた。今では2番隊の隊長をつとめている。
 だが、マール・デ・ドラゴーンの子供、特に男の子は、水夫になるのが圧倒的に多かった。
「タンディか。どうした?」
タンディは緊張でふるえていた。
「おれ、水夫に向いてないんです。でもマール・デ・ドラゴーンから降りたくないです。農場でも厨房でもどこでもいいから、新しい親方を見つけてください!」
うしろから水夫長オトゥールがやってきた。
「キャプテンに直訴か?シャークアイ様、タンディのやつ、親父に似ておそろしく遠目がきくんですよ。見張りに立たせれば役に立つ。ちょっと仕込めば、いい水夫になると思ってるんですが」
「水夫長、キャプテン、おれ、ほんとは」
恥ずかしさで真っ赤になってタンディは言った。
「高いとこが、こわいんです!」
水夫の仕事のかなりの部分は、帆柱の上で行われる。見張りともなると、カモメが飛ぶのを見下ろすような高さにいることも多い。
「わかった、わかった。オトゥール、こいつに見張りは無理だ」
「ですが、キャプテン」
まあ待て、と片手で水夫長をおさえ、シャークアイはよく通る声で砲撃隊長を呼んだ。
「ロッシュ、いるか?来てくれ」
「へい……」
ロッシュは、がっちりした体つきの大男だった。そばへ寄るといつも硝薬の臭いがする。顔つきがおっかないうえに怒ると塩辛声でわめきちらすくせがあるので船内の子供はたいていこわがるのだが、同じ砲撃隊にいる女房のラノメにはまったく頭の上がらない恐妻家だった。
「なんですかい?」
やや動作が鈍重だが、先日ラグラーズ第一艦隊を破ったのは、このロッシュ率いる砲撃隊である。海戦となると、見違えるような指導力を発揮する男だった。
「タンデルの息子のタンディを知っているな?こいつを使ってみないか。遠目がきくらしいぞ。狙いをつけるにはいい素質だ」
タンディはおそるおそるロッシュを見上げた。ロッシュはぬっと指を水平線の方へつきだした。
「坊主、あっち、見てみな。何が見える」
タンディはつばを飲みこんだ。
「雲、です。それと、かもめ。その下に、島?」
「なんぼ、ある」
「大きいのがひとつ。その横に、小島が、あ、ふたつ」
ロッシュはにっと笑った。
「旦那、この坊主は、おれのとこへもらうぜ」
タンディの顔がぱっと輝いた。
 水夫長は、こきり、と音を立てて首を回した。
「タンディ、よかったな。ちっと惜しいが、がんばれよ」
「水夫長さん、ごめんなさい、おれ」
「あやまらんでいい。礼なら、キャプテンに言っとけ」
タンディは安心したあまり、涙ぐんでいた。
「シャークアイ様、ありがとうございました」
「気にするな。さあ、持ち場へつけ。おっと、その前に」
 キャプテンは、タンディの両肩をつかんで向きをかえさせた。
「ポートサイドの前甲板をよく見てくれ。どうだ?」
タンディはしばらく目を凝らしていた。
「動いた!シャークアイ様、今、一番奥の樽が動きました!」
「やはりそうか。ルドゥブレ」
「わかっております。おい、みんな来い!密航だ!」
 密航は乗りたい船にしのびこむことだった。最後まで見つからずに隠れ通せば、それなりに船乗りの間では評価される。狭いところに隠れて何日も過ごすのだ。
 だが、中で食べ物などを盗んだり、どじを踏んで見つかったりするのは恥ずかしい事とされていた。
 ルドゥブレは勢いをつけて一番奥の樽を蹴飛ばした。悲鳴がおこって樽がころがった。中から一人の男が這い出してきた。
「何をするんですか、いきなり!」
「お、おまえ」
ルドゥブレは、密航者の顔を見て驚いた。
 斬り込み隊以下、甲板にいた者たちが回りに群がってきた。
「こいつ、竪琴なんか持ってるそ」
「知り合いか、ルドゥブレ?」
「そんなもんじゃない。ターフル島の宿で相宿だった男だ」
「コーラルと申します。旅の吟遊詩人で」
コーラルは屈強な水夫たちに囲まれて、おどおどしていた。
「その、他意あってのことじゃ、ございません。こちらさまが」
と言ってルドゥブレを指した。
「ターフル島から出る方法をご存知のようにお見受けしましたので、ちょっと後をつけて」
「なんだと!」
ルドゥブレは赤くなった。斬り込み隊長ガネルが、渋い声で聞いた。
「ルドゥブレ、おまえとしたことが。尾行に気づかなかったのか?」
「すみません、隊長。責任はとります」
そう言ってルドゥブレは戦闘用の大型ナイフをひきぬいた。
「ま、待ってください」
「密航は死罪だ。第一、われらマール・デ・ドラゴーンはラグラーズと戦闘中だ。おれたちの船はおれたちの城。おまえは知りすぎた」
「そんな、わたしゃただ、ルドゥブレさんのあとにくっついてこの船に忍び込んだら、いきなりラグラーズの艦隊と戦争になっちゃって、出るに出られなかっただけなんです。これが普通の船だったら、ちゃんと船長にお願いして、近くの島へ送ってもらおうと思ってたんで、命ばかりは、ごかんべんを」
「カトラスで首を一気にかっさばくのと、無人島へ置き去りとどっちがいい」
「お待ちくださいっ。ラグラーズのことで、いいネタを知ってます。わたしを殺したら、わかんなくなりますよっ」