水界の覇者 5.板を渡せ!

 ダグランドはすぐに甲板へ降りた。甲板は騒然としていた。
「提督、あれです!もしや、あれは」
 遅い午後、海は西日が射していた。他の機会であれば、思わず見とれるような風景だった。紅に染まる水平線の上に、巨大な双胴船が姿を現していたのである。
「こっちへ、来ます!」
「落ち着け!」
ダグランドは唇を舐めた。
「まわりをよく見ろ、今は凪だ。近寄れるわけがない」
帆船は、たとえ逆風が吹いていても望む方向へ走ることができるのだが、まったくの無風では足をもがれたに等しい。水面は油を流したようになり、風はまったく死んでいた。
 おかげで俺も逃げられねえ、とダグランドは胸中ひそかにつぶやいた。ここはやり過ごすに限る、とダグランドは思った。まさか水の民の宝の強奪者がここにいるとは、やつらも知るまい。
 双胴船は、じっと動かなかった。動けないのだとわかってはいたが、まるで何かを待っているようで、ダグランドはきみが悪くて仕方がなかった。
「ん、あれは?」
水平線に小さな影がぽつぽつと現れ、だんだん大きくなってきた。
「軍艦だな?ラグラーズのタイプに似ているが」
まぢかに寄ってきたそれは、どう見てもラグラーズの軍艦だった。海は依然、無風である。どの船も帆はだらりとたれて、まったく風を受けてはいない。
「ラグラーズの旗だ……ずいぶん帆が傷んでいる。おいおい、どてっぱらに穴が開いているぞ……なんだ、まるで幽霊船みたいだな」
「よこせ!」
ぶつぶつ言う艦長から、ダグランドは双眼鏡をひったくった。
「あれは、第一艦隊の!」
凪を無視して第二艦隊に向かってくる軍艦は、第一艦隊所属で、もう沈んだはずの船ばかりだった。まさに幽霊船である。ダグランドはふいに胃のあたりに重さを感じた。
 幽霊艦隊と海賊の双胴船は、もう至近距離に迫っていた。海賊船の片方のへさきに、一人の背の高い男が姿をあらわした。
 双眼鏡の視界の中から、その男はまっすぐにこちらを見つめていた。
 男は片手をあげ、人差し指で第二艦隊を指差した。
 そのとたん、ぐらりと足元が揺れた。船乗りなら誰しも覚えのある感覚、高波である。
「見ろ!」
誰かが悲鳴をあげた。幽霊艦隊がいっせいに火を噴いた。燃え盛る炎の塊となって幽霊船は波に乗り、かなりの速さで第二艦隊に押し寄せてきた。
「火船か!」
ダグランドは我に帰った。
「撃て、砲撃で撃退しろ!」
すでに前列の艦はいっせいに砲撃を開始していた。が、砲弾は火炎の中に飛び込むばかりで、火の船はいっこうに速度を緩めなかった。
「退避しろ!」
艦長の顔は恐怖のあまり、白くなっていた。
「できません、無風です!」
「そんな、ばかな!」
火船隊は、まったく風のないところを、水の流れに押されて向かってきていた。同じ流れが第二艦隊を逃してくれるはずが、こちらはまったく動けない。
「魔法にかかったようで……」
水夫も士官も走り回っているが、「ラグラーズの爪牙」はぴくりともしなかった。
 真っ赤な破滅が目の前に迫っている。気持ちの悪い汗が、わきを伝って流れた。ダグランドはつぶやいた。
「これが、水の民の力か!」
海流を自由に操り、嵐を鎮める。風の精霊を味方につけ、帆船を操作してどこへでも進む。それが、水の精霊が直に仕える民の、その長に与えた力なのだ、と、昔誰かが話していた。
 その話し手は、水上神殿の守り人の老人だったと気づいて、ダグランドはぞくっとした。宝に目がくらんでダグランドが命を奪った者の一人である。

 第二艦隊は、火船隊によってほぼ崩壊していた。艦隊があったあたりは焦熱と黒煙の渦と化している。だがその中央にひとつだけ無事な船が浮いていた。艦隊旗艦「ラグラーズの爪牙」である。
 シャークアイがつぶやいた。
「ダグランド、首を洗って待っていろよ!」
 マール・デ・ドラゴーン号は速度を増した。帆はすべてたたまれている。風がなくては動きようのない帆船がまっしぐらに「ラグラーズの爪牙」へ向かってつっこんでいく。
 コーラルはあわてて柱の一つにすがって体を支えた。直後に衝撃がやってきた。
「うわっ」
マール・デ・ドラゴーン号は、はるかに小さな「ラグラーズの爪牙」に、のしかかるようにぶつかっていた。
「板を渡せーっ」
斬り込み隊長ガネルが間髪いれずに叫んだ。ただちに丈夫な板が2艘の船の間に渡された。ガネル率いる斬り込み隊の猛者たちが、その斜めになった危なっかしい橋を踏み鳴らして渡っていく。
「二番隊、出るぞ!」
別の板をわたって、隊長のルドゥブレを先頭に二番隊が待ちかねたように斬り込みをかけた。
「どいてな、詩人さん、けがするよ!」
ひっと叫んでコーラルが飛びのくと、小太りの中年女が、船の大砲に取りついてぶっぱなした。第二艦隊の生き残りが、半分沈みかかりながら、マール・デ・ドラゴーンに砲口を向けていたのである。
 その女が、砲撃隊長ロッシュの女房、ラノメだった。
「おまえさん、あっちにもいるよ!」
ラノメの亭主、ロッシュが反対側で砲手を叱咤した。
「おまえら、しっかり守れ?そうしないと、おれが母ちゃんにどやされる!」
腹に響くような砲撃が船を揺るがす。
 コーラルは命からがら船尾へ逃げ出すと、懐から小さな白い鳩をつかみ出した。
「さあ、行け」
声をかけると、鳩ははばたき、それから一直線に空へ向かって飛び出した。
「今のは、なんだ?」
ぎょっとしてふりむくと、シャークアイが立っていた。コーラルは唇をなめた。
「……歌の合間の余興に使う鳩ですよ。こんなとこまで連れてきたが、命がいくつあっても足りません。不憫なんで逃がしてやりました」
にや、とシャークアイは笑った。
「そうだな。この戦、負けるかもしれんしな」
「げっ、ご冗談を」
「心配なら、見届けに来い」
そう言ってシャークアイはきびすを返した。そのまま板を渡って、「ラグラーズの爪牙」へ乗り込んだ。
「待ってくださいよ、船長、だんな!」
コーラルはあわててあとを追いかけた。