犬と鏡とムーンペタ 6.赤犬

 自警団の本部は、商工会議所に置かれていた。というより、我が物顔にふるまうので商人たちがいやがって出て行ったのである。
 ムーンペタの夜を照らす満月が前方に揺れている。このところ歩き回っておなじみになった路地を二人は急いでいた。どこか遠くで、犬の遠吠えが聞こえた。
 あお~ん、と長く響くはずの遠吠えが、そのとき、とぎれ、きゃん、きゃんという鳴き声になった。
「あいつら、まさか!」
「野良犬狩りだよ」
サリューはすぐに、しっとつぶやいた。ロイは近くの家の石壁に背中を貼り付けてようすをうかがった。
 路地はすぐそこで大きな街路と交差している。その街路に落ちる月明かりの中を四、五人の男が通り過ぎていった。通っていく最後の一人が、腕になにか抱えていることにロイは気付いた。その“なにか”は、もがいているようだった。
ロイは路地からとびだした。
「おい、待て!」
やはりそれは、昼間会った自警団の男たちだった。
「またおまえらか」
「その犬を放せ」
「冗談じゃない、赤犬は、高く売れるんだ」
「ロイ、あの子、しるしがついてないよ」
犬は明るい茶色の毛並みだったが、その背中はなめらかで、サリューが使う顔料の跡は見えなかった。
「よっしゃ、決まりだ。おい、おまえら、その犬をこっちへよこせ。そうすれば、命まではとらない」
下品な馬鹿笑いが答えだった。
「ローレシアの坊やがなんかほざいてるぞ」
「虫も殺せないやつが、よく言うよ!」
ロイは体をひねり、両手持ちの大きな剣を背中のさやから抜いた。
「よせよせ、けがしちゃうよ、ボク?」
ロイは、顔が引きつるのを感じた。何日かためこんだストレスが、静かに限界点へ到達しようとしていた。顔の引きつりは、笑いにかわったようだった。
 どうも、不気味だったらしい。自警団の馬鹿笑いがとまった。
「何がおかしい、ガキ」
きっさきを正眼に構え、ロイは踏み込み前の型をとった。
「一つ、教えてやる。おまえらのような外道には、生類憐みの令は適用されないんだ」
「ロイ、なんかすっかり、その気になってない?」
サリューが言い終わるのを待たずに、ロイは大きく踏み込んで大刀を振り下ろした。

 ロイは袋の中からラーの鏡を取りだした。
「王女様、今、お助けいたします」
二人が助け出した赤犬は、サリューの腕の中におさまっている。まだ子犬で、さりげなく確認したところメスだった。
 く~ん、と頼りなげに鳴いて、さかんにサリューの腕を嗅ぎまわっている。
「くすぐったいです、王女様。ロイ、早くしてよ」
「よし、いくぞ」
ロイは鏡を赤犬の前に置いた。
「姫、この鏡をご覧になってください」
 赤犬は目の前の鏡に興味を持ったらしく、じっとのぞきこんだ。黒い湿った鼻と、きょとんとした目が、鏡に映る。
 しかし。
「あれ……?」
「何も起こらないぞ?」
サリューは、犬の顔をのぞきこんだ。
「あのう、もしもし?姫じゃないんですか?」
「わん」
と赤犬は鳴いて、サリューの顔をなめ始めた。

 ぽかぽかした太陽がムーンペタの広場をあたためている。夏が戻ったような日和だった。ロイとサリューは広場の片隅に放置してあった木箱に腰を下ろし、ぼんやりと広場を見つめていた。
「いい天気」
「……おう」
「あのさ」
「ん?」
「どこでまちがえたんだろう、ぼくたち?」
 サリューの足元で赤犬があくびをした。すっかりなついてしまったのである。
あの翌日、コペルス将軍がムーンペタへ戻ってきた。東部では、やはり王女は見つからず、手ぶらで帰ってきたのだった。
 自警団のごろつきどもは、市民全員を人質にして将軍率いる駐留軍をムーンペタに入れまいとしたが、ロイとサリューが内側からつき崩したおかげで、駐留軍は無事に町へ戻ることができた。
 ロイは老コペルスを見ていると、なんとなく、昔かたぎの武人だった教育係を思い出すのだった。顔が似ているのではなく、物の言い方や考え方がそっくりなのだ。
 ロイとサリューがラーの鏡を見せて亡きムーンブルグ王の人魂の言っていたことを伝えると、コペルスは男泣きに泣いてから断言した。
「まさしく、ムーンブルグ王家の重宝、ラーの鏡にまちがいない。祭具室長は機転の利く男だったから、ハーゴンに奪われるよりは、と、毒の沼へ投じたのでしょう」