犬と鏡とムーンペタ 2.どっちを見ても野良犬だらけ

「覚えててくれたんですね。うれしいな」
「はい、サリューさま。世が世であれば、お目にかかるのももったいないですもの」
女将は若いころサマルトリアに行ったことがあるそうで、サリューの顔も身分も知っていた。
「せいいっぱい、おもてなしさせていただきますね」
こっくり、とうなずいて、サリューは顔をしかめた。
「でも、大丈夫?市場を通ってきたけど、ずいぶん……」
女将はため息をついた。
「市場をご覧になったのなら隠してもだめですわね。そうなんですよ。この間からさっぱり荷が入らなくなってしまって」
「あいつら、なにもんだ」
 突然ロイが言った。
「自警団とか言う」
「まあ、しかたないのでしょうよ、あれは」
女将は、片手をふった。
「誰かがムーンペタを守らないとだめなんでしょうからね。でも、なんだかいけすかないんですの」
「誰が自警団をつくったの?」
「あたしはてっきりムーンペタの商工会が人を集めたのだと思っていましたの。だって自警団のお給料は商工会から出てるんですよ。うちも寄付しましたから」
「でも、商工会じゃなかった?」
「商工会長さんにうかがったら、『自警団はコペルス将軍の組織した団体だと思う』ですって。結局、あいまいなんです」
「なんか品が悪いですよね」
「ええ、でも、王女様が見つかったのですって?王女様がお戻りになれば、将軍もまたムーンペタに腰を据えてくださるでしょうし、そうすれば自警団なんて用なしになりますわ」

 サリューは、ううん、とうなって、両手を腰に当てた。
「わかんないけど、あれじゃない?なんとなく、気品があるよ」
 二人がいるのはムーンペタ市街の中心にある広場だった。地面は黒土のままだが、広場の周りは石造りの大きな建物が取り囲み、なかなか立派だった。見るからに活気があり、市民が絶え間なく出入りしていた。
 その広場の一角に奇妙なものができていた。テント村である。ムーンブルグ地方からの難民が集まっているらしかった。そのあたりは、人々は着のみ着のままで血色も悪い。
 元からの市民と何よりちがうのは、いつも不安そうな表情をしていることと、まるで恐ろしいものが降ってくるのを畏れるかのように、ときおりそっと、空を仰ぐことだった。
 良くも悪くも人の多いこの広場には、また残飯目当ての野良犬も多いのだった。
「おれは、あっちのがそうだって気がする」
視線の先には一匹の野良犬がいた。白地に黒のぶちがあり、大きめの耳が顔にかかっている。きちんとすわってこちらの方を見ているのが、なんとなくレディらしい気がした。
 だがサリューの指差したのは、ノラにしてはつやつやして毛足の長い茶色の犬だった。
「とにかく、試してみようよ」
「ああ」
ロイは、荷物の中から、円形の鏡を取り出した。
 そのとき、鏡がきらっと光った。
「キャン!」
一声鳴いて、ぶちの野良犬は逃げ出した。あっというまに広場を突っ切って路地に入り込み、そのまま見えなくなった。
「あれ、光が反射したのかな?悪いことしちゃったね」
ロイはおちつかない気分で、せきばらいした。
「まあ、いい。別のにしよう」
「じゃ、あれ。あっちの、茶色の」
ロイは両手に鏡を持ち、犬に近づいた。犬は不審そうな顔でロイを見上げた。
「あ~、ええと」
「ロイ、何を緊張してるの?」
「うるさい。気が散る」
ロイは膝をつき、鏡を犬の顔の高さにした。
「失礼ですが、もしや、アマランス王女では?」
茶色の犬はロイを見、鏡の中の自分の顔を見、それからあくびをした。
「王女!」
ロイはなおも詰め寄った。
「よくごらん下さい、この鏡の中にあなたさまの真のお姿が」
茶色の犬はへくしゅ、とくしゃみをして、またエサをあさり続けた。
「ちがうみたいだね」
「そうらしいな」
ロイは立ち上がった。
「本当に、この鏡は呪いに効くんだろうな」
「でしょう?あの人、そう言ったじゃない」
「情報提供者は、幽霊だぞ?」
それが幽霊だったのか、それとも瀕死の兵士だったのか、ロイには今もってわからない。壊滅したムーンブルグ城にいたその男は、四つの橋が見えるところにラーの鏡があることを教えるとすぐに息絶え、なきがらはたちまち人魂と化してしまったのである。
「王女が呪いをかけられて犬になった、っていうのだって、幽霊が教えてくれたんだよ」
ロイはためいきをついた。
「ああ。王女の父君だったな。あの人の恨みは大誓約にかけて絶対に晴らす。王女の変身した犬を早く見つけないとな」
「そうさ。ムーンブルグにはいられないだろうから、このへんにいるよ、きっと。今度、あの犬で試してみようよ」
 サリューは言うなり、広場の反対側へ走っていった。
「ロイ、この子!王女と同じ、金髪だよ?」
「そうか?おれには白いのが薄汚れたみたいに見えるんだが」
「ものはためしだよ。さあ!」
ロイは鏡を持って、その犬の前に膝をついた。
「初めてお目にかかります。私はローレシアの騎士、ロイアル。王女にはご機嫌うるわしく」
犬は突然一声鳴いて猫を追いかけて走っていってしまった。
「あれ、ちがった」
ロイは横目でサリューを見た。
「おまえ、いいかげんに決めるなよ」
「いいかげんじゃないもん。ぼくの勘だよ」
「同じじゃねえか」
「ちがうよ。ぼくは魔力あるんだから。あ、そうだ」
サリューは祭服の隠しから、顔料を取り出した。
「宿の女将さんに借りてきたんだ。もう試した犬には、これでしるしつけておこうよ」
「ああ、そうだな」
「次、あの子」
サリューはまた犬を見つけて走り出した。ロイはしかたなく、駆け回るサリューのあとについていった。
「殿下、お探しいたしました。もはやご安心くださいませ」
「アマランス様でいらっしゃいますか?よくご辛抱なさいましたな」
「姫、おけがはありませんでしたか?」
「遅くなりまして申し訳ございません。今、もとのお姿にお戻しいたします」
「王女様、お迎えにあがりました」
はずればかり十数匹にあたったあと、ロイはぶっきらぼうにサリューに聞いた。
「王女はほんとにこの町にいるのか?」
ロイの手は、ひっかき傷だらけ。足にいたっては何かひっかけられている。が、サリューは後ろを向き、ムーンペタの市民らしい女性たちと何か話しているところだった。