犬と鏡とムーンペタ 3.そこのお犬様

「あの若い人、なんで犬に敬語で話し掛けてるの?」
「もしかしたら、なにか悪いものでもお飲みになったのかしら」
 ロイは真っ赤になった。よくよくあたりを見回すと、広場中の市民が、ロイとサリューの方を向いて、なにかひそひそと話していた。
「見たか?うちのポチに、“失礼ですが”だってよ」
「まだ若いのに、ものに憑かれてるのかねぇ?」
「あらやだ、こっちを見た」
ロイは鏡を抱え、ぎくしゃくとサリューの方へ近寄った。サリューは二人の女性に向かって、一生懸命説明していた。
「どうか、お気になさらず。彼はぼくの親戚でローレシアから来たんです。ローレシアでは、今、生類憐みの令が出ていまして」
ロイは絶句した。
 女性たちは顔を見合わせた。
「あら、そうだったの!ローレシアも遠いから、ちっとも知りませんでしたわ」
「道理でねえ。ローレシアの人たちはみんな慈愛に満ちているんですわね。うらやましいわ」
サリューはまじめな顔で、調子に乗っていた。
「だから彼は虫も殺せないんです。モンスターだって、道中一匹も殺さずに来たんですよ」
女性たちは、哀れみのこもったまなざしでロイを見上げた。
「すばらしいわ。野良犬にまで愛を注ぐなんて、真似できない」
「お邪魔はしませんからね?どんどんやってちょうだいね」
えっ、とか、あっ、とか、ロイが言っているあいだに、すっかり納得した女性たちはひきあげていく。サリューはにこにこと彼女たちを見送っていた。
「サマ、てめぇ!」
「あ、だって、しょうがないじゃない」
よほど凄い形相だったに違いない。サリューは一歩さがった。
「なんでローレシアなんだ!」
「ムーンペタの人で、サマルトリアを知っている人は多いんだよ。だから、ばれちゃうかなって」
「よりによって!」
「まあ、まあ。これでやりやすくなったじゃない」
「きさま……」
「次、いこ、次!広場はだいたい終わったから、今度はあの通りね」
サリューはたたっと走っていった。

 こめかみが、さきほどからぴくぴくと動いている。ロイは、押し殺した声でムーンペタを呪った。
「何だってこの町は、こう野良犬が多いんだ!」
野良犬ばかり追いかけているうちに、なんだか生ゴミの臭いが服に染みついてしまったような気がする。
「でもほら、あの犬が王女かもしれないよ?」
ロイはうんざりしながら、サリューの指した犬を見た。
「あいつか?あの、定食屋のゴミ壷あさってる茶色の」
「うん」
 ムーンペタ市内の生ゴミは、専門の商人が安く買い付けて、肥料として郊外の農家へ売るのが普通だった。そのため、商人が回ってくるまでは各人の家や店の裏側に貯めてある。ムーンペタの野良犬、野良猫の、かっこうの標的だった。
「王女様が、そんなことするのか?」
「王女だって今はわんこなんだから、おなかすいたらエサあさらなくちゃ。知ってる、ロイ、お姫様って、ちゃんとおなかすくんだよ?」
「あたりまえだ!わかった、試してみる」
ロイは鏡を掲げて近寄った。
「おまえ、もしかしたら、お姫様か?」
言い方も、そろそろぞんざいになってきている。
 野良犬はゴミ壷につっこんだ頭を上げ、うなり声をあげた。
「エサをとりゃしないよ。鏡、鏡と。変化なし。悪いな、犬違いみたいだ」
野良犬はまた、熱心に残飯をあさり始めた。そのすきに、サリューが背中に、ちょんと顔料をつけた。
「ねえ、最近おまえたちの中に、新しく来た野良犬はいない?わりと品のある子だと思うんだけど」
ロイは立ち上がった。
「よせよせ。犬が分かるわけないだろ?」
サリューは残念そうな顔になったが、それでも言い添えた。
「もし、そんな子がいたら、ローレシアのロイアルとサマルトリアのサーリュージュが探してる、と伝えてね。きっとだよ」
そのときだった。定食屋の裏口が乱暴に開いて、何人かの男たちがもつれるようにして出てきた。
「ここならお客には聞こえねえだろう?じっくり話してもらおうじゃないか。なんでてめえは、寄付ができないんだよ」
定食屋の主人らしい前掛けの男は、不安そうな顔だったが、それでもはっきり言った。
「寄付ならとっくにした。うちだって苦しいんだ。あれ以上は出す気はないね」
「なんだと?」
どうやら自警団らしい。ごろつきめいた男たちは、ニヤニヤ笑いをはりつけた顔で主人に詰め寄った。
「てめえがでかい口をきけるのは誰のおかげなんだよ、え?」
「将軍がお帰りになれば……」
自警団の男はいきなり店の主人の両肩をついて店の壁にたたきつけた。
「ふざけんなよ。手間かけさせやがって。きさまは5千ゴールドだ。早く出しな。さもないとこんなちっぽけな店のひとつぐらい、あっという間につぶしてやるぜ」
ひっ、と主人は息をたてた。顔を引きつらせたまま、口もきけないらしい。
 ロイは乱暴をしていた自警団員の肩をつかんだ。
「何をやってる」
ごろつきはぎょっとしてふりむいた。
「なんだ、きさま」
「その人を放せ」
男はためらった。卑しげな目でロイの力量を測っている。ロイは視線をはずさずに男をねめつけた。次第に男は弱気になってきたようだった。ついに乱暴者は、主人を放して、一歩後ずさりした。
「おい、どうする」
が、もう一人の自警団員は、いきなりげらげらと笑い出した。
「なにびびってんだよ、おい。その青い服のガキ、知らないのか?ローレシアから来たんだ。ほら、生類憐みの令の」
「あーっ、そうか。あのお犬様の!」
乱暴な男は腹を抱えて笑い出した。
 ロイは頭に血が上りそうだった。
「きさまらっ」
「ロイ、だめだよ」
後ろからサリューがとめた。
「お店の人は、先に家に戻ってもらったよ。ぼくたちも、行こう?」
「けど、この無礼なやつらを」
自警団の男たちは、まだ笑っていた。
「凄んでもむだだよ、坊や!どっちみち、虫も殺せないんだろ?」
「そのでっかい剣は、お飾りか!生き物は哀れまないとなぁ」
ロイは目の前の男につかつかと歩み寄った。
「乱暴はだめだよ、ロイ」
うしろからサリューが呼んでいる。ロイはいきなり腰を落とし、笑い転げている男の足をすくうと一呼吸で頭より高く持ち上げた。
「うわっ」
背中を地面にぶつけて男はわめいた。
「なにをしやがる、てめえ」
「生類憐みの令は、いいのかよっ」
ふん、とロイはひとつ息を吐いた。
「きさまの足元の、コガネムシを助けただけだ!」
言い捨ててロイはきびすを返した。