パラケルサスの犯罪 17.第三章 第五話

 エドのけがはたいしたことはないようだった。だが、なんとなく雰囲気が妙だった。
「どうしたの、兄さん、昨日から」
エドは、驚いたような顔で見上げた。
「え、あ、何?」
「ほら、ぼんやりしてるからさ」
エドは苦笑した。
「ただの寝不足だ」
 夕べは、夜を徹して消火作業が続いた。院長がじきじきに乗り出してきて、必死で火を消し止めにかかったのだった。
 もともと地階は対衝撃構造になっていて火災にも強く、ほかへ燃え広がるおそれはなかった。院長が血相変えていたのは、病院の類焼よりも、木箱の焼失のほうだった。
「だめだったんだって?」
アルの後ろで、ボイドがロングホーンにその話をしているのが聞こえた。ロングホーンはひそひそと答えた。
「商品にはならないらしいです」
搬出のために積み上げてあった木箱の中のアヘンは、周りから燃やされ、消火の水を浴びている。とうぜん、もう使い物にならなかった。
 総受付へ降りてくると、野次馬でいっぱいだった。今日は病院外来は休業らしい。職員も入院患者もあつまって、首を伸ばしては地階への階段のほうをのぞきこんでいる。
「あ~あ。焦げてる」
「院長先生、かんかんなんだって?」
「さっき、怒鳴り声がしたもの」
ざわめく見物人の群れを、兵士たちが一生懸命制止していた。
「みなさん、戻ってください。捜査のじゃまになりますので」
ペインター大尉、ウィーバー軍曹はじめ、兵士たちが必死で追い返している。 クラウンの派手なチェックのスーツも見えたが、野次馬の群れの中でこちらを見ようとぴょんぴょん飛んでいるだけだった。
 地階への入り口には、兵士が数名、武装して立っていた。
「院長に呼ばれて来た」
 歩哨は錬金術師たちに敬礼して入り口をあけた。長い階段を下りていくと、足音が変わった。床が濡れているのだった。
 先日見たときと、地下の様子はそれほど変わっていなかった。が、広々とした空間の中央に、黒く燃え残った木箱の残骸が残っていた。
 その前に、院長が立っていた。夕べから眠っていないらしい。目が充血し、無精ひげが生えていたが、あいかわらず闘志満々のようすだった。
「エルリック」
怒りで低くこもった声が呼んだ。アルの後ろの錬金術師たちが、そろってびくつくのがアルにはわかった。片付けや状況の検分をしている兵士たちも、冷や汗を浮かべ、院長と目を合わせないように、こそこそと作業している。
「錬金術師が聞いてあきれる。この役立たずがっ!」
地階の空気が震えるような大声で、院長は怒鳴りつけた。
「おめおめと阿片を燃やしおって」
「ああ、わりぃ、わりぃ」
エドは両手をポケットに入れて、肩をすくめた。
「じゃあ今度から、火事になっても黙ってることにするか」
院長の顔に、さっと赤みがさした。
「きさま……」
「そうそう。そういう口調で『きさま』呼ばわりされるのには慣れてるんだ、なあ、アル?」
ぼくに話をふらないでほしい、とこっそりアルは思った。エドは院長の顔を正面から見た。
「朝っぱらからあんたのやつあたりに付き合う気はないね。夕べの不審者の話を聞きたいんじゃないのか?そうじゃないなら、部屋へ帰らせてもらうぜ。朝飯まだなんでね」
「待て」
と院長は言った。
「犯人を目撃したのは、きさまだけだ。調書を作成する。来い」
いまいましそうな顔で院長は手招きした。院長のそばに、小さな机が運び込まれていて、速記者らしい兵士がノートを広げて待っていた。
「犯人の特徴を言ってみろ」
「正直言ってほとんどわからない。あたりは真っ暗だった。けど、おれが爆発音に気がついてこの階段を降りきったところで、やつにぶつかったんだ」
「では、体格や服装などは?」
「大人だと思う。おれが“誰だ”と言ったとたん、殴りかかってきた。武器は、たぶん金属のナックルみたいなもんだ。そのときの腕の位置が、高かった」
院長は苦りきっていた。
「ナックルだと?これか」
速記者の机の上には、とげを植えたスチールのナックルが乗っていた。
「たぶん。落ちてたのか?」
「これ見よがしにな。こんなものが!」
院長は歯噛みをした。
「軍隊格闘を学んだ者には、ありふれた武器だ。兵士はうようよいる。手がかりにもならん。で、それから?」
「本気出さないとやばいと思ってたところへアルが降りてきた。そうしたらやつは別の方向へ逃げていった」
「あとを追えばよかったのだ!」
「火事だったんだぜ?」
「くそ。他には」
エドはあごをあげた。アルは、エドが何か言おうとしてためらったことに気づいた。エドが口にしたのは関係のない質問だった。
「院長、これは、パラケルサスの仕業なんだな?」
院長はまだ赤い目でにらみつけた。
「ほかに誰がいる」
「なら、現場検証には、錬金術師がふさわしいはずだ。ちょっと見せてもらうぜ」
「勝手にしろ」
院長は吐き出すように言った。
 エドはきびすを返した。そのうしろに隠れるように、他の錬金術師たちがくっついてきた。
「兄さん、態度悪すぎ」
エドは黙っていた。
「兄さん?」
「あ?」
「どうしたのさ」
「いや、べつに、それより、見ろよ、これ」
エルリック兄弟は、積み上げた木箱の残骸の前に立った。黒い燃えカスがびしょぬれになっていた。後ろにいたボイドが、感心したような口調で言った。
「よく燃えたなぁ」
「ああ。まるで、大佐がやったみたいだ。ぼんっ、と一発」
エドは、そばにいた兵士に聞いた。
「もしかして、軍用の爆発物か?」
「いえ、残留物がありませんでした。そもそも、もし軍のを使ったとしたら、いくらこの部屋が衝撃に強いといってもグラン・ウブラッジが無事ではすまないです」
「ごもっとも」
エドは、残骸の周りをゆっくりとまわり始めた。
「何を探しているんだね?」
マーヴェルが声をかけた。
「練成陣」
それだけ言って、エドは目もくれない。
「なんだって?」
アルは代わりに説明することにした。
「東部のマスタング大佐は発火布の手袋だけで火をつけますけど、あれはあの人の、焔の錬金術師の特技です。他の術師が同じことをやろうと思ったら、練成陣を使うはずだから」
「なるほど。だが、このあいだのは、消されていたんだろう」
エドは返事をしなかった。びしょぬれの床を見つめて、歩き回っている。
「エルリック君?」
アルは苦笑した。
「どいていたほうがいいですよ。兄さんには、今は聞こえてませんから」
三人の錬金術師たちは、互いに顔を見合わせると、こそこそとかたまってしまった。
エドは膝が濡れるのもかまわずに、片膝をついた。手袋をはめた指を伸ばして床をこすっている。
「何か出た?」
だが、エドは口の中でつぶやいているだけだった。
「なぜパラケルサスはそれをやらなかったんだ……このあいだよりよっぽど危険なんだし……ちがっている条件は、時間、場所、構築式……」
アルはあきらめて、兄の後ろからくっついていくことにした。
 今のエドに、拡大鏡を持たせたら、絵に描いたような“名探偵”だな、とアルはぼんやり考えた。院長の部下たちがこちらのほうをじろじろ見ていたが、エドはまったく気にしていないようだった。
「確かにきれいに燃えてる……でも、爆発は二回、もちろん、一発で全部燃えるとは限らないよな……あのときおれが邪魔をしなかったら……」
エドは床を見つめて歩いていく。アルは先回りして、速記者の机をどけてやった。
 さきほど速記をしていた兵士がぎょっとしたような顔でアルを見上げていた。
「机、か、返してください」
「すいません、今」
エドが通り過ぎた後、アルは机をおろした。
 そのとき、アルの後ろで、エドの声がした。
「ビンゴ!」
その口癖がどういう意味か、アルはよく知っていた。
「何かあった?」
「ここだ、ほら、三発目が仕掛けられている」