パラケルサスの犯罪 18.第三章 第六話

 兄の指先にあるものに、アルは目を凝らした。白いチョークの線がかろうじて見える。だが、足あとや何かでだいぶ荒れていた。
 言われなければ、円だとはわからなかっただろう。かろうじて、ところどころに弧が残っているだけだった。チョークで描かれた円は、直径約1メートルとアルは見てとった。わりあい大掛かりな練成陣である。
「でけえ靴!これ、院長じゃないか?踏み荒らしやがって。あ~、誰かが練成陣の上を、機材を引きずって通ったみたいだな」
おかげで一番大事なシンボルはあらかた踏みにじられて見えなくなっていた。
 ボイドたちが追いついてきた。
「三個目の練成陣だって?」
「ぐちゃぐちゃじゃないか」
「全部綺麗に残ってたって、まず読めないのに」
他人の描いた練成陣を“読む”のは、かなり難しい。その人独自の構築式を、本人にしかわからないシンボルで描いてあるからだ。が、なんのために描かれた練成陣なのかわかれば、見当はつけやすくなる。
「でも、爆発を起させるための練成陣ですよね、これ」
ロングホーンはまごまごしたが、一か所を指さした。
「たぶん、そのへんに“火星”が描いてあったんじゃないかな」
へえ、とマーヴェルたちが感心していた。ロングホーンは胸を張った。アルも、考えたことを口にしてみた。
「そこに“火星”があったなら、その外側に“硫黄”の式のグループをおいたはずですね。ぼくならそうする、っていうくらいの、ただの推測ですが」
「な、なるほど」
ロングホーンがチョークの線をなめるように見てうなった。アルはちょっと気恥ずかしくなった。
 ぼそっとエドが言った。
「いや、“硫黄”はこっちにまとめておいて、そこで“大気”の計算をしたほうが効率がいいんじゃないか?」
ロングホーンがきっと顔を上げた。
「そんなことをしたら複雑になって、とてもこの練成陣じゃ描ききれないよ」
「そんなことはないさ。円に内接する正三角形を二つ書き入れて、その一つに最初の式が返す値を保存しておいて、それを外側の式にもう一度読み込ませて……」
ロングホーンの顔が赤くなった。ボイドとマーヴェルはぼうぜんとエドの言うのを聞いている。次元が違いすぎて、理解しにくいらしい。
 アルは首を振った。
「まあまあ、兄さんが描いてんじゃないんだからさ」
「それにしても、なんかしろうとくさいんだ。まあ、そのへんはどうでもいいや。なあ、どうしてパラケルサスは、これを連続作動させなかったんだろう」
「え?」
「大佐じゃあるまいし、遠いところから火をつけることはできなかったはずだ。現におれたちを遠ざけて、自分は現場に来ていた。でも、あいつが三つの練成陣を連続作動させられるなら、最初の一つだけ作動させて、自分はさっさと逃げればいいじゃないか。火事に巻き込まれる危険があったんだ」
だろう、とエドはアルの顔を見た。
「それなのに、三つ目を作動させようとして、あいつはおれとぶつかった」
「たしかに、変だね。どうして連続作動をしなかったんだろう。できなかったのかな?だとすれば、どうして?」
「何か条件が違うのかもしれない。時間とか、場所とか」
言いかけてエドは突然口をつぐんだ。
「兄さん?」
「おまえの後ろ」
アルは振り返った。ボイドたちがあわてて場所を空けた。濡れた床があるだけだった。
「こっちへ来て見てみろよ。この連成陣は、もっと大きいんだ」
アルは言われたとおりにしてみた。たしかに、角度を変えると、光線の加減でうっすらとチョークの痕が見える。構築式は半円近く残っていた。
 練成陣の直径は、アルの最初の目算より、一メートル近く大きかった。二人は注意してシンボルの痕跡へ近寄った。
「なんだ、これ?太陽の記号かな。かすれてる……どっかで見たことあるな」
アルにもそのシンボルは見覚えがあった。見覚えがあるどころではない。式の、シンボルがかけている部分さえ頭に浮かんでくる。
「兄さん」
エドは、手帳を出して、シンボルを書き写し始めた。
「待て、思い出しかけてるんだ。原理の処理の仕方は、ああ、昔、家の、あいつの書斎にあった本に出てたのを読んだ……ここからバリエーションだ」
「ぼく、わかるよ」
「そりゃあ、同じ本読んでるからな」
「ちがうんだよ、兄さん」
「あ?」
やっとエドは顔を上げた。
「ぼく、この構築式を知ってる。ぼくが作ったやつだ」
「なにぃ?」
アルは口ごもった。
「この式、っていうか、スクリプトていどの小さいのだけど。ぼくと兄さんで作ったやつじゃない?で、ぼくの名前で論文にまとめて」
エドの表情が輝いた。
「『月刊エメラルド・タブレット』に投稿した!」
「そう。『リバウンド防止のための、小規模スクリプトの一案』だよ」

 クラウンは、エルリック兄弟の前に、先月号の『月刊エメラルド・タブレット』を置いた。
「よく手に入ったな」
「この雑誌を出している会社の営業部に、ぼくの母校の先輩がいるもんで」
エドがクラウンを呼び止め、「エメラルド」のバックナンバーを探してくれ、と言ったとき、クラウンは二つ返事で引き受けたのだった。貴重な出張期間の中からまる一日を使って、クラウンは雑誌を受け取りにセントラルまで往復してきた。
「ええと、ここだ」
投稿論文は、巻末近くにまとめられている。その一番最初に、問題の論文が載っていた。著者名は、A・エルリック。
 クラウンは読み始めた。
「概要、と。『筆者は練成中の事故の防止に深い関心を抱き……』」
アルは小声で頼んだ。
「恥ずかしいんで、概要は飛ばしてください」
「え、そう?」
「自分で書いたから覚えてますし。要するに、リバウンドの原因を考えて、それを防ぐためのスクリプトを作った、っていうことだけです。ほら、昔からある事故で、肝心なときにハエが飛んできて練成陣の中へ入っちゃうっていうのがありますよね」
「映画で見たよ」
「実際はあまりないんですけどね。要するに、予定していた練成陣の中に、関係のない練成材料が入ってきたとき、構築式が間に合わなくて、悪くするとリバウンドになる、そういうケースですね」
エドは、会議室のいすの一つに座り、手であごを支えたかっこうで聞いていた。
「このスクリプトは、練成陣の中に予定通りの材料が入っているかどうかを検出するためのものなんです。詳しく説明すると」
クラウンはあわてて手を振った。
「いいよ、聞いてもわからないし」
たぶん、「セントラル絵入り新聞」の読者も同じだろう、とクラウンは思った。
「ぼくが知りたいのは、どうして“パラケルサス”はこんなスクリプトを練成陣の外側に描いたのかってことなんだ」
「え~と、標準的な練成陣は、外側から構築式が読み込まれていくんです。“検出”スクリプトを外側に書いておけば、一番最初にこれが発動して、練成陣の中に予定された材料とちがうものがあるときは、それ以上練成がすすまないように発動を停めてくれます」
「じゃあ、このあいだみたいに、“練成陣を消せ”っていうスクリプトを内側に書くと」
「一番内側に、“消去”のスクリプトがあれば、練成が終わったときにその式が読み込まれて練成陣は消えちゃうってことです」
アルは首をかしげた。
「夕べの爆発は、ただ火をつけるだけじゃなくて、短い時間で確実に阿片入りの木箱を燃やし尽くすのが目的ですよね。なら、“検出”はいらないと思うんだけど」
エドが口をはさんだ。
「ちょっと雑誌見せてくれ」
「ほら、これ」
アルは、活字で印刷されているスクリプトを指差した。
 エドが自分の手帳を開いて見比べた。
「これだ、これ。そっくりだ。絶対このページ見て描いたな、やつは」
会議室のテーブルの上に、エドは雑誌と手帳を並べておいた。
「どうにもアンバランスなんだ。パラケルサスと呼ばれているこいつは、練成陣の連続作動問題を解決するくらいの実力があるのに、実際の練成陣はどうもしろうとくさい」
「しろうと?」
どシロウトのクラウンは、聞き返すことしかできなかった。
「ああ。アルのスクリプトも、そのまま書き写してる感じだ。まるで、誰かが考えた練成陣を、しくみも理解しないでただ描いただけみたいに見える」
「いったい、どんなやつなんだ、この“パラケルサス”氏は?」
エドは一度、考え込んだ。
「まず、こいつは錬金術を使える人間だ。でも、実力のほどはよくわからない。それと、このグラン・ウブラッジの住人と限定してもいいだろう。そうじゃないと、壁の中へ木箱を隠すのは難しいはずだ」
アルが横から言った。
「木箱は、たくさんあったよね。かなり力持ちだ。女性には無理かもしれない」
「いや、自分で運んだわけじゃないらしい。なんでも、倉庫管理課が言うには、“木箱を返品するから地下室の壁際へ積み上げておけ”っていう伝票が来たそうだ。まさか院長の阿片とは知らずに、作業したらしい」
「じゃあ、あの木箱を運んだのは犯人じゃないんだ!」
「あいつがやったのは、積み上げられた木箱の前に壁を練成しただけ。伝票一枚なんて、病院の人間なら誰でも書ける」
う~ん、とアルは考え込んだ。
「最近の重機関銃の構造には、詳しいみたいだよ。あと、近い身内が阿片中毒で亡くなっている可能性があるよね」
「それから、あのニセ手紙を出せる人物。これは、はずせない条件だ」
「それなんだけどさ、兄さん」
「ああ、うちの師匠の名前を知っているってところだろ?」
「うん。ぼくたちがこっちへ来てから、話の中で師匠の名前を出したのは、あの時だけだよね」
クラウンは、初めて会議室へ入ったときのことを思い出した。
「ボイドたちがいて、そうだ、あんたもいたよな?」
クラウンはあわてた。
「ぼくを疑ってるのかい?冗談じゃないよ」
エドはまた、ほおづえをついた。
「あんたは除外。二度目の事件のとき、アルがいっしょだったんだから」
クラウンは胸をなでおろした。
「どうも。だいいち、ボイドさんたちがよそで、例えば幹部用食堂なんかで、“病弱な人妻”の話をしていたら、容疑はもっと広がるんじゃないのかい」
「ちくしょう、そうだな。それじゃあ」
そう言ったきり、エドは沈黙した。