ラムダの祈り 7.双賢と双鷲

 天秤はほとんどベロニカの側に落ちようとしている。ホメロスは気分がいいらしかった。
「十年近くかけて自分の若死にを思いしらされたのだ。それが辛くなかったとは言えまい」
 ホメロスのにやにや笑いに、ベロニカは十代の少女特有の冷ややかさで応じた。
「あたしは限りある人生を一生懸命生きたの。とっても充実してたわ、アナタと違って」
「そうやって強がりを貫いたわけか。それで誰か、お前を褒めてくれたのか?」
ベロニカは顔を背けたが、言い返すことはできなかった。
「これでわかっただろう。命の大樹が予定した賢者は、おまえではなくセーニャだ。勇者一行が危機に瀕したとき、セーニャは救われるようにしくまれていたわけだ。命の大樹はお前を見放した。長老も両親も妹もさえも、だ」
「あたしは」
言いかけたベロニカをホメロスは遮った。
「哀れなものだな!想像してみろ。勇者の仲間たちがフィールドでモンスターとエンカウントするたびにどうするか。“ああ、ベロニカがいてくれたら!”最初は確かにそう思うだろう。だが、やがてセーニャに同じことができると気づく。そうだろう?妹は努力家で、姉の抜けた穴を一生懸命埋めようとするだろうから」
「だから何!」
「残酷なものだよ、時の流れというのは」
ホメロスは秀麗な顔に冷ややかな笑いを浮かべた。
「慣れだ。勇者たちは、慣れる。お前のいない日常に慣れて、やがてお前を忘れ、セーニャにのみ賞賛を浴びせるだろう。彼女が光り輝くほどに、お前は影となっていくのだ」
 ホメロスは魔軍司令の杖を優雅に差し伸べた。
「だが、お前は魂だけとなって、ここにいる。お前の魔力をもって世界に、大樹に、勇者に、妹に、お前を認めさせてやるがいい」
「あたしは、そんなこと……」
ははは、とホメロスは哄笑した。
「望まぬというのか?復讐がいかに甘美なものかを教えてやろう」
南の国の森林に住む美しい毒蛇のような表情でホメロスが顔を覗きこんだ。
「考えてみろ、本当に必要か?お前を認めなかった、こんな世界が?」
にんまりと口角があがった。秀麗な面に、毒の滴るような笑顔を浮かべてホメロスはささやいた。
「そんなもの、滅びてしまえばいい。違うかね?」
ベロニカは両手を握りしめて黙っていた。
 二人の間の天秤は、はっきりと傾いていた。ベロニカの側の秤皿は深く押し下げられ、その上に乗った紫の火焔は今にもあふれ出しそうだった。
「私の勝ちだ」
ホメロスはそう言い放った。
 ベロニカは目を閉じて、深く息を吐いた。とこしえの法衣をまとう乙女の姿が薄れ始めた。代わってその場に現れたのは、赤いスカートと白いブラウスの、七歳ほどの少女だった。
 小さなベロニカは片手で自分の杖をくるりと回転させ、そのまま両手を腰に当て、目を見開いた。
「まだよ!」
 二人の間の巨大天秤の動きが止まった。
「さっきから黙って聞いてりゃあペラペラとよくしゃべるわね。アンタが言ってたことって、ぜーんぶ自己紹介じゃないの」
ホメロスの笑顔が固まった。
「二人で一番を目指したのも、影になっていったってぼやいてんのも、全部アンタじゃない。ふざけないでよ、てか、このベロニカさまをアンタといっしょにしないでちょうだいっ」
「なんだと?」
ベロニカは、かつてダーハルーネでやったように、ホメロスに向かって人さし指をびしりとつきつけた。
「あたしとセーニャが二人で世界一の魔法の使い手を目指したのは、アンタとグレイグが二人で王国一の騎士を目指したのと同じよ。アンタが見捨てられたかどうかは知らないわ。でも、あたしは断じて見捨てられてなんかいない。その証拠に、あたし、この成り行きに満足してるんだもの!」
 ホメロスは己の杖の石突を台座にたたきつけた。
「バカな!どこまで人がいいのだ!お人好しを通り越して、ただの阿呆だ!自己満足だ!」
べー、とベロニカは舌を突きだした。
「阿呆でけっこう、メリケン粉!そうよ、それがあたしとアンタの最大の違いだわ。今の自分に満足してるの、アンタ?」
ホメロスが、返事に詰まった。
 天秤の、ホメロスの側の秤皿に明るい炎が灯った。キラキラと楽しげに燃えるそれは、ゆっくり秤皿を押し下げていった。
「黙れ!」
ホメロスが吼えた。
「私はウルノーガ様に認められ、取り立てられ、類まれな魔力と肉体を授かったのだ!そうだ、私はチカラを欲し、願いをかなえた!不満なはずがないっ!」
「ちゃんちゃらおかしいわ!グレイグをしのぐチカラを手に入れたのは本当でしょう。でもアンタ、ウルノーガに勝てるの?」
不意を突かれてホメロスがとまどった。
「……勝つ必要などない。私はあの方に認められ、救われたのだ」
「ウソでしょ」
とベロニカは一言で退けた。
「アンタ、チカラが欲しかったんでしょ?だって、アンタもあたしと同じ、一番じゃなきゃ気が済まない性格だもんね」
ぎり、とホメロスが奥歯を噛みしめた。
「今は認められて舞い上がってても、アンタ永遠に我慢できるの、ナンバー2で?」
「……黙れ」
スキル“愛のむち”のように、ベロニカは片手を口元に添えて高笑いをした。
「アンタはウルノーガにはかなわない。永遠に勝てない。ウルノーガは自分を越えるチカラを、ナンバー2とはいえ他人のアンタに与えるほどおめでたいヤツじゃないもの。それに、あのウルノーガが、一度裏切りをしでかしたアンタを信頼しきることはないわ」
「私は魔軍司令だ!」
「そうそう。アンタもう人間じゃないの。それがどういうことかわかる? もうレベルアップできないのよ」
ホメロスは言い返そうとして、言葉が出てこずに口を閉じた。
「考えたことなかったみたいね。アンタは確かに強いでしょうよ。でも、これからアンタのまわりにいるのはモンスターばかりになるの。アンタは恐れられることはあっても、二度と慕われないんだわ。いいえ、モンスターだもの、隙さえあれば、アンタの地位をもぎとろうとするでしょう」
くっ、とホメロスがうめいた。ベロニカは、蔑みと言うよりも哀れみをこめてつぶやいた。
「可哀そうなものよね。誰かを愛し、お返しに愛してもらうことも、もう、ないのよ」
「そんなものはとっくに捨てた」
とホメロスはうなるように言った。
「あるべきはチカラ。世界を統べる……闇のチカラだけだ!」
 音をたててホメロスは魔軍司令の杖を投げ捨てた。石床をからからと転がる音が終わらぬうちに、変身が始まった。
ホメロスの身体が紫のオーラに包まれた。その足が床を離れ、ふわりと浮かび上がった。薄い唇に侮るような笑みを浮かべたまま、ホメロスは高く浮かび、その場で球状のオーラに包まれた。紫の霧の奥でバケモノがうごめいていた。
 通常の人類の二倍近い体躯、背に負った皮革質の翼、とげのある太い尾を備えた毛深い魔物の姿。ベロニカの目の前に魔獣ホメロスが姿を現した。
「どうだ、この身体!この魔力!オレは比類なきチカラを手に入れたのだ!」
耳がとがり、目の中が金色になっている。両肩にも長く鋭い棘をもち、その逞しい胸の中央にシルバーオーブが埋め込まれていた。
「あたし、知ってるのよ?」
静かにベロニカは言った。
「今のあたしの意識はもうヒトじゃなくて、大樹の娘なの。だから、わかるわ。アンタ、今、痛くてたまらないんじゃないの?」
「なんだと?」
と魔獣は言った。
「少なくとも、長い時間その姿を保ってはいられないんだわ。そうじゃないなら、どうしてデルカダール城の廃墟でグレイグとイレブンを迎えたとき、二人を殺さなかったの?なんでゾルデにまかせたの?一番したかった復讐を、どうして諦めたの?」
ぎりぎりと魔獣ホメロスは歯ぎしりの音をたてた。
「こんな、はずは」
ベロニカの魂は、むしろやさしく微笑んだ。
「アンタ、破滅するわ。魔獣形態の痛みに耐えられなくて力の弱い人間形態に戻ったら、アンタの周りのモンスターがアンタを引き裂いて喰らい尽くすでしょう」
ひくっとホメロスの喉が鳴った。長く黒い爪の両手を眼前に掲げ、小さく震え始めた。
 ベロニカであった存在は静かに告げた。
「アンタ、罠にかかったのよ。裏切り者って、どうして人を裏切りに誘いたがるかしらね」
「私はただ……!」
吼えかけたホメロスに顔の前で、ベロニカは小さな体で肩をすくめた。
「ああ、アンタのことじゃないの。セーニャがいたら、見せてあげられるんだけどね、アンタをたぶらかした裏切り者のことを」
 二人の間の天秤は、短い間に逆転していた。ホメロス側の秤皿に金色の炎が燃え盛っている。そのために秤はホメロスの側に大きく傾いていた。
「ほら、天秤が落ちる。勝負あったようね」
 いきなりホメロスが動いた。長い腕を伸ばし、逞しい腕で天秤を殴りつけた。天秤の腕木はあっさりと折れ、秤皿は地に落ちてガラガラと音を立てた。
「罠でけっこう!」
と誇り高く魔獣が吼えた。
「罠であろうとなかろうと、覚悟の上で国家と親友を裏切った。破滅上等だ!」
厚い胸に埋め込まれたシルバーオーブがぎらりと輝いた。全身に激痛が走るのか、悲鳴とも咆哮ともつかない声があがった。
 目の前の狂態を、ベロニカは黙って眺めていた。ふいに彼女の姿が宙に浮いた。狂乱する魔獣の鼻先に幼女は舞い降りた。
「うん。男の子って、そういうとこ、あるわよね」
ホメロスが目を丸くした。その瞬間、闇に堕ちた獣の姿が縮み始めた。猛々しい魔獣は十歳くらいの少年に姿を変えた。
「お前、何を」
まだ高い声で小さなホメロスは言いかけた。
 くす、とベロニカは笑った。
「あの時、命の大樹の魂の前で、勇者や、仲間のみんなや、父さん、母さん、第一セーニャが大反対するってわかってても、あたし、突っ走ったもんねえ。アンタもそうでしょ?」
不思議そうな顔、大きな目で、まだ子供のホメロスは宙に浮く少女を見上げた。
「お互い、後戻りってことができない性分なんだわ」
ベロニカはふわりと少年に近寄り、細い腕で彼の頭をかきよせた。
「はなれろ」
少し顔を赤くして、ぎこちなく小さなホメロスは言った。
「ぼくはお前なんかキライだぞ」
とんとんとベロニカは彼の背を、妹にするようにそっとたたいた。ベロニカの表情は、彼女特有の勝気さがほとんど消え、満ち足りた静けさとなっていた。
「ねえ、聞こえる?」
天の高みから、かすかに歌声が漂ってきた。細い、乙女の声だった。
 後の世も ひとつの葉に生まれよと契りし
 いとおしき片葉のきみよ
 涙の玉と共に命を散らさん
「だれだ」
 うつろう時に迷い 追えぬ時に苦しみ
 もがく手がいかに小さくとも
 この願いひとつが私のすべて
「あたしの妹。セーニャがあたしを呼んでる」
ベロニカは彼を離れ、地に降り立った。
「この姿でいられるのも最後みたい。あたし、消えるんだわ」
何もない純白の虚空に、雪のように舞うものがあった。落ちてくるにつれて、細い髪の毛が漂っているのだとわかった。
 ベロニカは両手をかかげた。漂う金色の髪に、片端から火がついた。
「あたしの育ったラムダでは、髪を燃やすのは死者への手向けなの。あの子、あたしが死んだって、やっと納得したのね。あったかな空想の世界を出て、現実の世界で生きていく覚悟を決めたみたい」
髪は燃え上がり、ちりちりと焦げて見えなくなった。ベロニカは、姿を変えてもまだ持っていて細身の両手杖を捧げ持った。空気の中に溶けるように、杖は見えなくなった。
「もう、行くわ。この人格を保つのも限界なのよ。“ベロニカ”が最後に話をしたのが、よりによってアンタなんてね」
自嘲のように、くすりと彼女は笑った。
「最後にひとつだけ。約束通り、鎖をかけてちょうだい」
二人の目の前で、魔法契約が効力を発揮しようとしていた。少年のままのホメロスの眼前に、太く武骨な鉄の鎖が現れた。鎖は蛇のようにホメロスの首に巻き付いた。とっさに鎖を掴もうとしたホメロスが、鎖から発せられる光から顔を背けた。鮮やかな白い光がゆっくり消えたとき、ホメロスの首には鎖とは似ても似つかないものがかかっていた。
 細い金の鎖で吊るした、大きめのペンダントだった。鈍い金色の盾形で、縁に沿っていくつか小さな赤い石をはめこんでいる。その中央に、相当の鷲の紋章が刻まれていた。
「こんなものっ」
ボーイソプラノでののしる声が、次第に低くなる。ホメロスは幼い姿から自力で魔軍司令へ立ち戻った。身に着けた黒い服の胸、くすんだ金と暗赤色のセンターの上で、ペンダントが揺れていた。
 ペンダントトップをつかんで力任せにひきちぎろうとする。だが、魔軍司令の力を持ってしても鎖はちぎれなかった。
「それが、アナタが心の中で、一番重いと思っている鎖みたいね」
とベロニカは言った。
「お別れだわ。あたし、行かなくちゃ」
「どこへ」
「あの子のところよ」
「彼女は独り立ちしたのではないのか」
ベロニカはうなずいた。
「そうよ。“あたし”は消えるの。ああ、大樹よ、感謝します、あたし、まだ、あの子といっしょに戦うことはできるわ」
ベロニカは小さな手を空中へ掲げた。紅みをおびた金色の粒子が幼女の表面を覆っていく。ベロニカの魂は薄まり、消えうせ、粒子だけが光の玉と化して浮かびあがった。
 ホメロスは茫然としてつぶやいた。
「なぜおまえは、それほどまでに妹を愛せるのだ」
答えが返ってくるとは思っていなかったが、かすかな声がホメロスに答えた。
「だってやっぱり、あたし、お姉ちゃんだから」

 セーニャは片手を軽く握り、その手の甲で涙をぬぐった。
「ごめんなさいイレブンさま。やっと心の迷いが晴れました」
顔を上げてセーニャはイレブンを見た。まだ声は低いが、言葉は明瞭だった。
「お姉さまが助けてくれたこの命……。精一杯未来へつないでみせます」
セーニャは毅然としたようすでテラスの先へ進んだ。一度目を閉じて、しっかりとうなずいた。片手をあげて髪を束ね、片手に短剣を握り、ひと思いに髪を切り捨てた。
 思わずイレブンは息を呑んだ。イレブンからは、セーニャの後姿しか見えない。セーニャは手にした髪束を眺め、つぶやいた。
「もう……涙は見せません。……さようなら」
セーニャが髪束を持った手を掲げた。沸き起こる夜風が髪をひと房ずつ掬い取り、高く吹き上げ、吹き散らした。
 イレブンは昼間見たラムダの里の弔いを思い出した。この地では自分の髪のひと房を火にくべて死者への手向けとするのだった。
 セーニャの髪は空中で散り、一本一本が炎を上げて燃えあがった。誰が言ったか、長い髪は魔力の根源だという。自ら魔力を持つかのように、髪は燃え、赤みがかった金の火の粉と化した。金と赤の光は夜目にも輝き、風にさらわれて乱舞する。ユグノアで見た光の蝶に似ている、とイレブンは思った。あの火の粉も、死者の魂なのかもしれなかった。
 火の粉を見送るセーニャは、哀惜を通り越したような、不思議な表情をしていた。
――セーニャ。
話しかけようとして、イレブンはためらった。視界の隅で何かが光った。
 木の幹に立てかけたベロニカの杖の魔石が赤く輝いていた。イレブンもセーニャも、驚いて杖を立て掛けた樹の方を見た。
 杖の先端に赤い魔石が飾られている。魔石から赤い人魂が離れて漂った。それは明らかにセーニャを目指していた。
 セーニャは一瞬身構えたが、すぐに何か悟ったようだった。両腕を広げて彼女は待ち構えた。セーニャの眼が、なつかしそうに潤んだ。
 赤みを帯びた人魂はしばらくセーニャと相対していたが、おもむろに彼女の胸に飛びこんできた。セーニャは人魂を抱きしめた。
 人魂はセーニャの手の中でひときわ明るく光りを放ち、彼女の胸に吸い込まれるようにして消えた。
 イレブンは声も出せずにそのさまを見守っていた。セーニャ自身が、ほのかに赤く照り映えていた。
 長い時間が過ぎたような気がしたが、空には同じ満月が輝いている。
 セーニャはまだ両手を胸に当てていたが、その手を広げ、見下ろして、つぶやいた。彼女は驚いていた。覚悟もしていた。だが、その表情は、また別のもの、確信とでも言うべき顔だった。
「このチカラはもしかして……?」
かつてベロニカが荒野の迷宮でやったように、セーニャは右手を伸ばし、指を鳴らした。人さし指の先にみごとに炎が灯った。
 セーニャは目を見開いた。もう一度指を鳴らして火を消す。声なき声でうめき、セーニャは両手を組み合わせ、目を閉じた。一足す一が本当に二になった確信と喜びに、セーニャは細かく震えていた。再び目を開け、頭を巡らして彼女は夜空を見上げた。
「ありがとう……お姉さま」
目覚めしセーニャは、そうつぶやいた。