ラムダの祈り 3.ホムラの里

 ラムダ姉妹はしばらく村の入り口に突っ立ったまま、その場所から動けなかった。
「世界は広いって身に沁みてるけど」
とベロニカはつぶやき、情景を見回した。
「風変わりな村ですねぇ」
セーニャはそわそわしていた。
 村の真ん中に広場があり、まわりに家や店、宗教施設があるという造りはラムダの里と似ていた。だが、家のひとつひとつが、姉妹の目にはだいぶエキゾチックに映った。ここへ来る前に最後に泊った町はサマディーだった。ベロニカたちにとってサマディーも“ラムダとずいぶんちがう”と感じたのだが、ホムラはその上を行った。
「お家の屋根もドアも草か木でできますよ?屋根の上の飾りがおもしろい形ですわね!村の奥の方から川が流れ出していますわ……まあ、あれ、全部お湯なのですわ!」
旅人まるだしでセーニャはきょろきょろした。
「ちょっと、静かにしてよ」
 里の人々の眼がこちらに集まっているのをベロニカは感じている。たぶん、彼らにとっても姉妹は風変わりに見えるのだろう。
 村の入り口の近くにいた小太りの男が満面の笑みを浮かべて小走りにやってきた。
「お嬢さん方、見たところ、旅の方のようですね!いいところへいらっしゃいました!」
ベロニカは無視して先へ行こうとした。
「実はわたくし、里の奥で蒸し風呂屋を開店したばかりでして」
「まあ、蒸し風呂屋って、なんでしょう?」
セーニャがあっさりと釣られた。
「よくぞ聞いてくださいました!」
蒸し風呂の店主は大喜びだった。
「ホムラ特産の火山石に熱い湯をかけて大量の水蒸気を出すのです。それをたっぷり浴びてから体をこすると、きれいさっぱり垢がぬけるのですよ。いかがです、風呂上がりののぼせた身体にキンと冷やしたお酒!体中に染み渡りますよ?今なら先着百名様まで無料です」
まああ~とセーニャは目を輝かせた。
「お姉さまっ」
ベロニカはためいきをついた。おっ、と蒸し風呂屋がつぶやいた。
「こちらが“お姉さま”ということは、美人姉妹ですな?ぜひうちの風呂で女っぷりを磨いていってくださいよ」
セーニャがうずうずそわそわしている。好物を前にした子犬が目の前でしっぽを振りまわしているような気がした。
「セーニャ、お風呂はちょっと待って、いい?ねえ、御主人、あたしたち、この里に着いたばかりでお腹すいてるの。冷酒がどうこうって言ってたけど、この里には酒場があるのね?」
「ございますとも。そこの階段をのぼった先です。で、その奥が蒸し風呂屋でして」
「わかったわ。腹ごしらえを先にして、それからうかがうわ」
「そりゃどうも、どうも!お待ちしておりますよぉ」
蒸し風呂屋は揉み手で見送ってくれた。
 歩きながらベロニカは言った。
「勝手に決めちゃダメって言ったでしょ?いい人ばかりとは限らないのよ」
えへ、とセーニャは言った。
「ごめんなさい、お姉さま。でも、いろんなものがみんな珍しくて、楽しそうで」
「基本はラムダと同じよ」
 ホムラの里の中央広場の端では神父が宣教活動をしていたし、人々は姉妹の方をちらちら見てはいるもののせっせと自分の仕事もやっている。道具屋と宿屋も見つけた。
 蒸し風呂屋の営業に捕まっていたあいだに、だんだん日が傾いていたらしい。地面に落ちる影は長くなり、あたりは暗くなっていった。
「けっこう人が多いわ」
雑踏の中を階段に向かいながらベロニカはつぶやいた。
「勇者の気配は、ある?」
「まだわかりません」
セーニャはぱっと微笑んだ。
「でも、きっと、すぐに見つかりますわ」
つられてベロニカも苦笑した。
「セーニャが言うと、そんな気がするから不思議よねえ」
 長くて立派な階段を上がっていくと里の奥にある洞くつからもうもうと湯気の上がるお湯が滝となって流れ出るのが見えた。棒に細長い葉をくっつけたような不思議な植物が生え、赤く塗った手すりの上に紙でできたランタンが並ぶ。日没のあといくつもの灯りが灯ると、姉妹にとって異国情緒そのものの風景に見えた。
「あら、いい匂いがしますわ!」
「どうやらここね」
大きな扉を開けると、明らかに酒場と思われる店になっていた。
「いらっしゃい、お嬢さん方。遠つ国のお客さんかな」
カウンターの向こうから小柄な年寄りが声をかけた。店の主らしいとベロニカは思った。
「さっきついたばかりなの」
「それはそれは。どうぞお座りなされ。それとも、小上りのほうがよろしいかな?」
小上りというのは草を編んだ床に平たいクッションを置いた席のことらしい。酒場は開いたばかりのようで、店の若い衆や女中が小上りやカウンターに客を案内していた。
「椅子のほうが慣れているし、ちょっとお話がしたいから、カウンターで。ええと、マスターとお呼びすればいいかしら?」
ほっほっほ、と店主は笑った。ベロニカはなんとなくファナード長老を思い出した。
「ますたぁでけっこう。何かご相談かな?」
「あたしたち、人を探してるの」
 ラムダの里を出て以来、姉妹は町に着くと飲食店や宿屋に入ってこの質問を繰り返していた。
「手の甲に変わった形のアザのある、十六歳の男の子なんだけど、知らないかしら」
「アザですか……」
とマスターは考え込んだ。
「この里ではお見かけしたことはないようです。どんなお顔立ちかな?」
ベロニカは答えに詰まった。
 勇者の顔など、知らない。実はファナード長老だけは、一度勇者の姿を夢に見ていた。
 深い緑に覆われた神秘的な空間の中央に澄んで輝く大樹の魂があり、その前に若者が立っている。若者が片手を上げると手の甲にある紋章が輝き、大樹の魂を取り巻く木の根がするすると退いた。彼の手の紋章は、確かに伝え聞く勇者ローシュのそれと同じだった。だが顔の特徴などわからなかった、とファナードは言った。
「あの、実は、まだ会ったことのない人なの。でもそういう特徴の人を探しているわけ」
「わけありのごようすじゃな。お若いのにたいへんなことで」
 あのう、とセーニャが言った。
「とてもいい匂いがするのですけど」
セーニャ、と止める前にマスターがそそのかすように言った。
「みそとバターを混ぜたタレに漬けこんだ牛肉を、溶岩の上でジュウジュウ焼いておりますよ。お嬢さん方、お食事にいかがかな?」
ベロニカたちは顔を見合わせた。きゅんと腹が鳴った。
「二人前、お願いするわ」
マスターは横を向いて調理場に注文を通した。
「牛の溶岩焼き二つ。あとは、店のおまかせでよろしいですかな?」
セーニャはキラキラした目でマスターを見上げた。
「あんまり辛くなくて、でもおいしいのをお願いします」
「甘い卵焼きでも造りますかのう」
そう言ってマスターはまた笑った。
 木でできた風変わりなマグ二つに、とろりと濁った液体をそそいでマスターはカウンターにのせた。
「当店からサービスです。ホムラの里へようこそ」
甘いような、不思議な香りがした。
「お姉さま、いただいてみましょう」
初めて来た町では警戒を怠るべきではない。まして、若い女の二人連れは危険に遭うことも多い。だがベロニカは、飄々としたマスターとわくわくしているセーニャに毒気を抜かれた気分だった。
「まあ、せっかくだから」
そう言ってマグの柄を握った。
「かんぱあい」
「はいはい」
その酒は独特の飲み口だったが、なかなか美味しかった。頬を染め、目を閉じてセーニャは酒を味わっている。
「おいしいですわ」
 ごとんと音がして、鉄板がふたつ出てきた。
「溶岩焼きお待ちどう。鉄板は熱いんで、お気を付けください」
店員の若者が次々と大皿を持ち出した。
「こちら海鮮串揚げ、豆腐のあんかけ、あさりの酒蒸し、タコとホタテのマリネでございます。おあとは鶏のから揚げ、温玉サラダ、じゃがとトマトのチーズ焼きとまいります。本日のシメは豚バラの炊き込み飯新鮮ねぎの小口切り乗せ赤だし付き、お茶には小豆の淡雪かんと抹茶アイスがつきますです」
 セーニャはほとんど聞いていない。目の前の皿に釘付けになっていた。
「お姉さまっ、全部アツアツですわ!」
ベロニカは一瞬、迷った。本当はこの店に来ている客から、勇者について聞き込みをすべきだとはわかっている。だが、目の前の湯気をたてた大皿からどうして目をそむけられようか?
「ええい!聞き込みはあと!」
もうひとくち酒をあおり、ベロニカは大皿に手を伸ばした。
「なにこれ、おいしっ……」
「あっ、これもいけますわ!」
「ほんと?ひとつ取って?」
「どーぞー、あ、そっちのを回して下さいまし」
周りの目をまったく気にせずに二人は食べまくった。合間にマスターが酒のおかわりをすすめてくる。
 ほっほ、とマスターは笑い声をあげた。
「若いお嬢さん方がいい食べっぷり、呑みっぷりじゃ。見ててこちらがうれしくなりますのう。もう一杯いかがかな?」
 さすがにお腹いっぱい、と断ろうとしたとき、カウンターの隣の席に誰か座った。
「それ、俺がおごるよ」
少し酔ったセーニャが、はにゃ?とつぶやいた。どなたでしたっけ、という言葉の最後の方は、眠そうなあくびにかわった。
 ベロニカはいきなり来た男の馴れ馴れしさが気に入らなかった。
「けっこうよ。もうおひらきにするところだから」
男はにやにやしていた。
「お姉さんたち、いくつ?二人旅?宿はどこよ」
ホムラの地元の人間というより、旅行者らしい。気が付くとツレらしい男たち四五人が姉妹の後ろあたりに半円形をつくって集まっていた。
 ちっとベロニカはひそかに舌打ちした。ラムダの里を出てからだいぶ警戒していたというのに、今夜はおいしいご飯とお酒ですっかり気がゆるんでいたらしい。ベロニカはカウンター席を下りて、失礼な男たちに向き直った。
「お、かわいい!赤のミニスカいいねえ」
「なあ、俺たちと呑みなおそうぜ?」
「酔っちゃったら宿まで送るからさ」
ベロニカは財布からゴールド金貨をつかみだし、カウンターへのせた。
「マスター、足りる?」
「十分すぎます」
「お釣りはチップってことで。セーニャ、出るわよ?」
ふらふらのセーニャの腕を取って椅子から立たせると邪魔が入った。
「待ちなよ、お姉さんたち」
「そうカリカリしない!お近づきに一杯やろうってだけさ、な?」
「この店で巡り合ったご縁ってヤツよ」
 店員たちがとんできた。
「お客さん、困りますよ」
うるせぇっと一人が叫んだ。
「他のお客様にご迷惑なんて、大きな声はご遠慮」
いきなり無礼な男は店員にむかって拳をふりあげた。店内に緊張が走った。
「えいっ、“まぬーさ”」
セーニャだった。酔って赤い顔をしていた。乱暴な客の拳は空を切った。
「なにやってんだ、バカ」
リーダーらしい男はひとつ舌打ちをして、ベロニカに向かってぐいと顔を突きだした。
「あんまり男をなめんなよ?」
「おねえさまっ“すから”ですわ~」
 ベロニカは苦笑した。
「そうだ、念のために聞くけど、あんたたち、手に変わった形のアザのある十六ぐらいの男の子を見たことない?」
「知るか!」
「じゃ、用はないわ!」
身体の内側に炎が灯るのがわかる。魔力の源が体内で荒れ狂う。両手のひらを胸の前で広げ、魔力を増幅した。
「ギラ!」
ラムダの大聖堂仕込みの魔法がさく裂した。酒場のなかに悲鳴の渦が沸いた。ベロニカは手を差し伸べ、掌の中に一条の炎を握りこんだ。
「火事を出したいわけじゃないわ。コントロールには自信があるけど、騒がせてごめんなさいね、マスター」
「いやいや、見事なお手際」
店内からも、ザマ見ろ、とか、いいぞー、とか言う声が飛んできた。ラムダ姉妹は歓声に、かるく手を振って応えた。
 ベロニカがその手でどけ、という身振りをすると、無礼な旅行者たちはあわててひっこんだ。すっかりおどおどしていた。
「行きましょ、セーニャ」
「お待ちくださいまし」
ほろ酔いかげんのセーニャは、乱暴者のひとりに近寄った。相手はひっと言って後ずさりした。
 魔法力のほの白い輝きがセーニャの手からこぼれだした。
「“ホイミ”……これで火傷は治りますよ?」
にっこり笑ってセーニャは店の主と客たちに声をかけた。
「皆さま、ごきげんよう」
にぎやかな笑い声がその返事だった。

 セーニャは居酒屋外のデッキの上で少しふらついていた。
「まあおもしろい、お月さまがあんなにたくさん……」
「ちょっとしっかりしなさいよ」
だいぶ脅したつもりだが、さっきの連中が暗いところで待ち伏せしているかもしれない。ベロニカは迷った。
「そうだセーニャ、寝る前にお風呂に入ろっか。蒸し風呂屋さん、まだ開いてるかも」
「そうしましょう!」
やつらが諦めるまで蒸し風呂屋で時間を稼ごうとベロニカは思った。
 案の定、風呂屋はまだ開いていた。
「お待ちしておりました!」
小太りの店主はいそいそと案内してくれた。
 浴室着に着替えてサウナのベンチに座っていると、ぼうっとしてくるほど熱かった。隣でセーニャはむにゃむにゃとつぶやいて、思いっきりうたたねをしていた。ちょうどいいか、とベロニカは思った。身体が気持ちよく疲れているのがわかる。ベロニカも、ふと目を閉じた。

 紫の縁取りのある白いワンピース状の服は、ラムダの里の女たちが好んで身に着ける衣装だった。その少女は、ウェストに紫の飾り布を巻いてはしをリボン結びにしていた。金髪は二つに分けて三つ編みにしている。
――この子、あたしだわ。九つか、十くらいの。
小さなベロニカは、両手に魔導書を抱え、ラムダの大聖堂のそばにあるファナードの家へ入っていった。
「長老さま、いる?」
神官服を身に着けた小柄な年寄りが出て来た。
「おおベロニカや、ここじゃ」
「魔導書を返しに来たわ」
「明日でもよかったのに。わざわざすまんの。茶を入れるから、飲んでおいき」
 少女のベロニカは、ファナード家のテーブルの前に座った。
「何か話があるのじゃろ?」
茶葉をポットにいれながら、ファナードは言った。うん、と素直にベロニカはうなずいた。
「あたし、前にすごくはっきりした夢を見たって、話したことあったでしょ?」
「緑のスライムの二人乗りかの?それとも空が光る夢かの?」
「空のほうよ。あのね、ひと月くらいまえに同じ夢を見たの。ヘンな色に光る空は同じなんだけど、その下に細くて長いものがたくさんあってね。それがボロボロ落っこちてくるの」
 子供なりに真剣な口調でベロニカは訴えた。
「夕べ、またその夢だった。でも、だんだん細かいところがはっきりしてきた。長老さま、そんなことってあるの?」
ファナードは眉毛の下の目を光らせた。
「未来が定まっていないときの予知夢にはそういうこともある、と記録があるが、わしは見たことがないの。もう少し詳しく話せるかの?」
「細長い物は、たぶん木の枝だと思う。光る空の下に大きな樹があって、ものすごく揺れて、小枝が落ちてきてた。あの夢のあたしは、たぶん、大きな枯れ木の下で嵐の前の空を見上げてるんだわ」
ファナードは首をひねった。
「枯れ木とな?冬じゃということか?」
ベロニカは肩をすくめた。
「暑いか寒いかまでわからないもの。でも樹の枝に葉が一枚もなかったから枯れ木でしょ?それに、干からびたみたいな枝なの」
ファナードはたずねた。
「その枯れ木の下にいるとき、そなたはいくつぐらいの姿をしているのだね?」
ベロニカは驚いた顔になった。
「長老さま、自分の夢の中で自分を見られるの?」
「いや、そういえば、できんの」
ベロニカは大人のようなしぐさで肩をすくめた。
「あたしもそうよ。なんでそんなこと聞くの?」
「ああ、つまり、夢の中のベロニカが大人なら、それはずっと未来のことじゃろうと思っての」
――例えば、十六歳くらい?
 ぞくっとする感触が全身を走り抜けた。ベロニカは我に返った。もちろん、サウナの中は熱い。隣でもたれかかるセーニャの体温もある。にもかかわらず、ベロニカは寒気がしていた。
「セーニャ、起きて」
「……おねえさま?まだねむいですわ」
「何か、まずいことが起きてるわ!」
もしそれが人外や魔物関連のことなら、ベロニカよりも早くセーニャが気付く。そうでないということは、居酒屋でからんできた無礼者たちかもしれない。
「ほら、立って!着替えるわよ?」
無理矢理セーニャを連れて脱衣所へ出た。その場にセーニャはくたくたと崩れてしまった。
 ベロニカはため息をつき、急いで着替え、愛用の杖を手にした。誰が襲ってくるかわからないが、この場で撃退するしかなかった。
 どこかでガタと音がした。ベロニカは脱衣所にあったタオルを何枚も眠っているセーニャの上にかけて、できるだけ隠してやった。
「お?こっちは女湯かよ!」
なんだか場違いな声がした。帳場との出入り口にかかっているのれんを、冴えない中年男がめくりあげていた。
 悪寒の正体はこの男だったのだろうか。ベロニカは一瞬、自分のカン違いかと思った。
 衝撃は背後から来た。見えない腕で背中をどつかれ、ベロニカはたたらを踏んだ。
「このっ」
ようやくベロニカの目にも敵が見えてきた。「あやしい影」と呼ばれる不定形のモンスターに似ている。半透明であり、敵の能力をコピーして自分の者にするというやっかいな相手だった。
 なんとか踏みとどまって、杖を振りまわした。が、「影」はひらひらと逃げた。
「コノ女カ?」
「ソウダ。サキホド酒場デぎらヲツカッテイタ。カナリノ魔力ダ」
 ベロニカは、自分に向かって訂正した。敵が人外や魔物関連のことなら、ベロニカよりも早くセーニャが気付く、酔ってさえいなければ。
「そうよ!あんたたちもギラを浴びたいの?」
物理攻撃がダメでも、魔法ならヒットする可能性が高い。ベロニカは瞬間的に魔力を増幅した。
「えっ、わっ、助けてくれ!」
間違えて入ってきたらしいさきほどの中年男が悲鳴を上げた。男はベロニカのギラの火線上に割り込んでいた。とっさにベロニカはギラの発動を中止した。
その瞬間だった。「影」がいきなり近寄ってきて、ベロニカの腕を捕らえた。高ぶっていた魔力が急速に衰えた。
「しまったっ!」
後頭部を殴られた。全身に痺れに似た感覚が走り、意識が遠のいていく。
「そこの娘さん、だいじょぶか!うわっ、なんだこいつら」
割り込んできた男の情けない悲鳴を無視してベロニカは叫んだ。
「セーニャ、マスターに助けを」
求めなさい、まで言う前にベロニカは気を失っていた。

 フン、とホメロスは鼻で笑った。
「呪文以外のところはどうだ?お前たち姉妹は性格が異なる。天衣無縫の妹と、世話焼きの姉。この組み合わせが導くのは、“妹のしりぬぐい”だ」
ベロニカは反対側の台座からホメロスをきっと睨み上げた。
「あたしは別に!」
「こんなことがあったのを、覚えているかね?」
ホメロスはむしろ優雅に杖をあやつり、ホムラの里を鏡に映しださせた。蒸し風呂屋の脱衣所にあるタオルの山が崩れ、寝ぼけ顔のセーニャが出て来た。“お姉さま?どちらですか?”つぶやいて彼女は立ち上がり、おぼつかなげにあたりを見回した。
「何があったのでしょう……あの居酒屋さんでご飯をいただいて、それから……」
しばらく悩んでいたようだが、セーニャはふと顔を上げた。
「お姉さまの気配が、遠くへ行ってしまう!どうしましょう、おいてきぼりはいやです」
ついにセーニャは手を握りしめた。
「追いかけないと」
 鏡に映る過去を見ながら、ベロニカは複雑な顔をしていた。ホメロスは逆にくすくす笑い出しかねないようすだった。
「常に一緒でないと落ち着かないとは、なんと仲の良い姉妹だ」
「からかってんじゃないわよ、アンタ」
「からかってなどいないぞ。たしかおまえの妹は、健気にもおまえをおいかけて荒野を進んでいったのだったな?」
「ええ、そうよ……やっぱりからかってんじゃない。あたしたち入れ違いになっちゃって、それで」
力なくぼやくベロニカをホメロスは遮った。
「そのしりぬぐいは全部、姉のお前の仕事だった、と」
 ベロニカ側の秤皿に、また紫の鬼火が現れた。

 ラムダの里の双賢の姉妹の妹、セーニャは、ついに決心した。
「お姉さまを追いかけます」
 物心ついたときから、セーニャはずっとベロニカを追いかけていたのかもしれない。
 誰にも言ったことはないが、セーニャは“双賢の姉妹”という呼び名があまり好きではなかった。小さい頃は呪文が使えなかったために未来の賢者として扱われるのが重荷だった。呪文を行使できるようになったあともグズでぼんやりした性格は相変わらずで、やはり賢者呼ばわりは苦手だった。
 グズと言い、ぼんやりと言うが、セーニャにも理由がある。実はいつも頭の中で空想を繰り広げているために、とっさに話しかけられた時場違いな答えをしてしまったり、寝坊や忘れ物が多かったり、前後の成り行きに思いが至らず結果としてムチャをやらかしたりする。だが、あるていど年齢が進んでからは、セーニャは自分の空想を語らなくなった。
「何やってるの?!」
となじられて、
「夜空に私の歌声で銀の星をいっぱい降らせるところを思い描いていたので、フライパンのことなんてかまっていられませんでした!」
とは、言えないではないか。それがどれほど楽しい、綺麗な空想でも、頭の中の絵を人に見せることはできないのだから。
 もうひとつ、未来の賢者として扱われるのが困る理由は、より深刻だった。ラムダの里で賢者と言えば、勇者ローシュの戦友、セニカに決まっていた。つまり、賢者たる者、勇者が現れたらそのクエストに同行して彼を助けなければならないのだ。
――私、いつか、ラムダの里を出ていかなくてはならないのでしょうか。
里の外の世界は、ひどく寒々としたものに見えた。母の焼くクッキーや人魚のお姫様の絵本がない世界に、セーニャは出て行きたくなかったのだ。ラムダの里が好き、父母、友人たち、教師たち、そして何より、どんなに辛らつなことを言って怒った顔をしても結局自分をかばい、守ってくれる姉のベロニカが大好き。セーニャの宇宙は、大聖堂に始まって静寂の森で終わっていた。
「ベロニカちゃんはしっかりものなのに、セーニャちゃんは」
と、何度言われたことだろう。
「セーニャちゃん、くやしくないの?あなただって、賢者さまの生まれ変わりなのよ?」
と人は言ったが、セーニャにはしっくりこなかった。
 そもそもベロニカは、いわば主役だ。絵本の表紙にきれいな色で一番大きく描いてある人だ。お姫さまとか、勇者とか、あるいは、そう、賢者とか。自分は脇役。挿絵の隅っこに小さく書きこまれる地味な存在。
 それは昔からそう決まっているようなもので、小さなセーニャはどうしてそうなっているのかを疑問に感じたことさえなかった。
 主役になってみたい、と思わないでもない。けれどほんとに主役になったら責任が重そうだし、第一空想の世界でならいつでもヒロイン、ヒーローだから、リアルで主役にならなくてもいい。現実世界のことは、全部お姉さまにまかせておけば間違いない、とセーニャは実体験で学習していた。
――少し、違いますわね……。
とセーニャは考えた。自分は万人から主役と仰がれたいのではない、ただ一人、姉のベロニカに認めてほしいのだ。
「ふふ……セーニャ、やればできるじゃない」
そう言ってもらったのは、姉妹でゼーランダ山に迷い込んだ満月の夜、セーニャが初めてホイミを成功させた瞬間だった。その時のことを、セーニャはいつもたいへんな幸福感で思い出す。だから、ベロニカがそばにいない、などという状態には耐えられなかった。
 くすん、と鼻を鳴らしてセーニャは首を振った。
「私、もう行きます。お世話になりました」
そう挨拶すると、ホムラの里の居酒屋の主人は眼鏡をかけなおした。
「そうは言うが、セーニャさん、当てはあるのかね?」
セーニャは西の方角を指した。
「あちらのほうに行かれたと思います。ええと、そんな気がするのです」
「西には砂漠、岩山、荒野しかないよ。一人で大丈夫かい?」
「私、槍を使えるのです、少しだけ。それに、自分で自分を回復することもできます」
わかった、わかった、と店のマスターは首を振った。
「それじゃせめて、馬を見つけなさい。人が走るより早いから、うまくいけば一度もモンスターと戦わずに済むよ」
セーニャは両手を打ち合わせた。
「いい考えですわ!私、やってみます」
ごきげんよう、と言い添えてセーニャは店を出た。
「今度は、私がお迎えに行きます、お姉さま」
ホムラの里の階段を軽快に駆け下りながら、セーニャはそうつぶやいた。――まあ、私、まるで主役のようです。なんだか浮き浮きしますわ!

 鏡に映る過去を眺めながら、ベロニカはむっとした表情で黙り込んでいた。
「どうした?さすがに否定しきれないようだな」
くっくっとホメロスは笑った。
「父親も母親も、セーニャのしりぬぐいは当然お前の仕事だと考えていた。お気の毒なことだな、出来のいい“お姉ちゃん”は?」
ベロニカは杖を持ったまま腕を組んで言い返した。
「ちょっと勝手に決めないでよ。父も母も、セーニャがやらかしたら叱ってくれたし、あたしのことはねぎらってくれたわ。それにあたし、しりぬぐいがいやだなんて思ってなかった。セーニャの世話は、あたしが好きでやってたの!」
皮肉めいた表情でホメロスはうなずいた。
「なるほど、頼られる自分に酔いしれたというわけか」
その一言に、ベロニカは顔色を変えた。
「あたしは、そんなこと……」
「無理をするな。“あたしがいなくちゃダメなんだから”と、妹に頼られる状態をおまえはずっと楽しんでいたのだ。違うというのかね?いざセーニャが“自分も戦う”と言いだすと、裏切られたような気がしたくせに」
ベロニカはうつむいたまま、言葉を絞り出した。
「やめてよ」
「そしてお前の妹は呪文が使えるようになった途端、あっさりとお前の庇護を放り捨てた」
「放り捨てるだなんて、そんなんじゃない!」
歯ぎしりの下からベロニカは抗議したが、その声はどこか弱弱しかった。ほう?と返すホメロスの声は、悪意と嘲笑をひそめていた。
「“お姉ちゃんだから”とお前はがんばってきたというのに、それでよいのか?」

 その夜、ベロニカは久しぶりにあの夢を見た。ゴウゴウと風が吹いている。頭上を見上げると、枯れた大木が太い枝を天蓋のように広げていた。枝の重なりを透かして空が見える。紫、緑、紺と次々と色を替えるなんとも禍々しい空だった。天の頂のあたりが凶悪な白色に輝く。その眩しさ、そして顔面に吹き付ける強風に目を開けていられないほどだった。
――いつ見ても嫌な夢。早く醒めなきゃ。
そう思った瞬間、夢の中でベロニカは身を固くした。何かが宙に浮いていた。ベロニカの頭上よりも上、枝の重なりよりは下の空間に、どこか繭のようなあるいは卵のような、長めの球体がいくつか浮いて、かすかに漂っている。ひとつひとつが薄く白い後光に包まれていた。
――なんだろう。木の実にしては、大きさがヘンだわ。
よく見てみたい、でも眼をそらしたい。怖いのに、見たくないのに、どうしても視線が引き寄せられる。
 一番近くにある浮遊体が動いた。同時に、一瞬、焦点があった。楕円の球体と見えたそれは、人の形に似ていた。しかもぐったりと弛緩して、ほとんど生気が感じられないために、持ち主が放り出した操り人形のようだった。
 というよりも、もっと近しい、よく知っているその姿……。
「いやあっ」
そう叫んだ自分の声でベロニカは目を覚ました。
 ベロニカは一人きりだった。荒野の中のキャンプ跡地を見つけ、その女神像の加護を頼みに野宿していたのだった。
 叫んだ自分の声が高いことにベロニカは気が付き、どきりとした。まるまる太った下品でヒステリックなドラゴンのせいで、ベロニカは年齢を吸いとられてしまった。おかげで声が甲高くなっている。まるっきり七、八歳くらいの少女の声だった。身体も声にふさわしい姿まで若返ってしまい、その小さな体のおかげで荒野の迷宮の牢屋から脱出することができたのだが。ルパスとか言う、ベロニカと一緒に捕まってしまったあの冴えない中年男にもホムラの里から援軍を呼んでくると約束していた。
「ぐずぐずしてる場合じゃないわ。早くホムラへ戻らないと」
 気持ちはひどく焦っているのに身体が言うことをきかない。ベロニカは砂地の上に身を起こし、両手で顔をおおった。すっかり冷汗をかいて、額も汗まみれだった。
 もしファナードが言うように自分がラムダの夢見の一人だとしたら、今見た悪夢は近い将来、高確率で現実となる。
――そんな、まさか、セーニャが!

 ベロニカは抵抗した。母の作ってくれた赤いスカートが破れそうになっていたが、全身をつっぱって逆らった。
「ちょっと、何すんのよ、やめてっ、やめなさいっ」
情けなさとムカつきのあまり、ベロニカは声が上ずりかけた。
「ガキが生意気言ってんじゃねえ!」
このあたし、ラムダの天才少女になんて態度かしら!だが、相手はベロニカの抵抗をものともせず、野良猫のように襟首を掴んで店の外へ放りだした。たまらずベロニカは尻もちをついた。
「いっ……たぁ~い!!」
ベロニカにとっては風変わりに見えるのだが、そこは酒場だった。木と紙で作った大きな窓の間に、木の大扉がある。その扉の前に、店員が両手を腰に立ちはだかり、店の前の木のデッキに尻もちをついたベロニカを見下ろしていた。
 何がむかつくと言ってこの男の表情がたまらなかった。男は全身で“まったく聞き分けのねえガキだ”と言っているような顔をしていた。
「ちょっとレディには優しくしなさいよ!乱暴な男はモテないわよ!?」
レディ、と言った時、男が口元をゆがめて冷笑した。
 ベロニカはみじめな思いで自分の姿を見下ろした。白いブラウスに赤い胸当てのあるワンピース、先のとがった赤い帽子。帽子からは三つ編みにした金髪がふた房出ている。このホムラの里ではあまり見かけない服装だった。それよりも問題なのは、今の自分が七歳くらいの女の子の姿だということだった。
 この姿は不慮の事故によるものだ。魔力を全部取られるよりは年齢を採られた方がましだと思ったのだが、この幼い、非力な姿は多大なデメリットを伴っていた。とにかく人が真剣に話を聞いてくれないのだから。
――こいつ、泣かす!あたしがもとの身体と魔力を取り戻したら、こんがり火あぶりにしてやる!
 先日はベロニカたちを客としてもてなしてくれた店員の男が、今は忌々しそうな顔で腕を組んだ。
「あーもうピーピーうるせえな!わりぃけど今は忙しいんだ。ガキの相手をしてるヒマはないんだよ」
ベロニカは立ち上がった。
「何よ!マスターと話すくらいいいでしょ!?マスターなら、はぐれちゃった妹のこと、知ってるかもしれないんだってば!」
「ここはガキの来る場所じゃねえんだ。迷子の相談なら里の入り口に詰め所があるからそこで話を聞いてみな」
ベロニカは両手を腰に当てて相手をにらみつけた。
「ふん、わかったわよ!マスターなら話が通じると思ったけどこんな石頭がいたんじゃどうしようもないわ」
先日来店したとき年配の店主と話をして話が分かる人だなと思っていたのだが、その彼に相談できないとなると自力でなんとかするしかない。
 ふん、という身振りで顔を背け、ベロニカは歩きだした。いまいましいがこの店員の言うように、里の入り口の番兵に話を聞くべきだと思った。何か目撃しているかもしれない。
 酒場の前のデッキの端は里の入り口へ向かう階段になっている。考えごとをしていたベロニカは息を呑んで立ち止まった。
 いきなり目の前に光がさしこんだ、と思った。
 目の前に誰かいた。
 それは本来の自分と同じくらいの齢の若い旅人だった。不思議そうにこちらを眺めている。さらさらした淡い茶色の髪と大きな目が印象的だった。黒いインナーに重ねた紫の袖なしコートという服装からして、ホムラの里人ではないらしい。どう見ても旅行者だった。
「あれ?アンタは……?ねえ名前を聞いてもいいかしら?」
若者は答える前に少しためらった。
 ベロニカは手の甲で、自分の目をきゅっとこすった。今、この若者の姿がブレはしなかっただろうか。さらさらした髪の若い旅人の輪郭が二重になっている。まるで彼の後ろに見えない衝立があり、そこに色のついた影があるようだった。
 だが、ぎゅっと目を閉じてもう一度開けると、“影”はなくなっていた。
「ぼくは、イレブン」
と、若者が言った。
 足もとから頭の先へと何かが湧き上がり、突き抜け、噴き出していく。ベロニカの心臓が音を立てて激しく動いていた。
 自然に笑いが浮かびそうになってベロニカはあわてた。心の中から巨大な感情の波が湧き上がり、自分を呑みこんでしまいそうになる。嬉しい、しあわせ、最高!
――見つけた。長老さま、あたし、見つけたわ!
両手でパンとほほをたたいた。ここで浮かれるわけにはいかない。セーニャが行方不明、しかも危機がせまっているかもしれないのだから。
「“イレブン”というの。……なるほどね」
ベロニカはなんとかそれだけ言った。腰を両手に当て、上目遣いにイレブンを見上げた。
「アンタとはもう少しお話ししたいけど今はいなくなった妹の方が心配。里の中を探してからにするわ」
そう言ってベロニカはイレブンの横を通りすぎた。
 イレブンが振り向いた。
 ベロニカも振り向いた。
「……まさかこんな所でアンタに会えるなんて。運命ってわからないものね」
「運命?きみはいったい」
言いかけるイレブンをあとにして、ベロニカはほとんど階段を駆け下りた。セーニャに知らせなきゃ。待望の勇者が見つかったというのに、まったくあの子はどこにいったのだろう!