黄金琥珀 5.第五話

 弥勒はぶらぶらと歩いて、ご神木の森へと向かった。七宝は、ちび夜叉のお守をするときには、たいていそのあたりにいるのだった。
 骨食いの井戸が見えてきた。
 そのときだった。周りにある木立の中から、真っ赤な塊が飛び出してきた。
「かおめっ、かおめっ」
ちび夜叉である。たいそう興奮して尻尾をふりまわし、ちび夜叉は骨食いの井戸に飛びついた。
 井戸のてっぺんに、女の手がかかった。よいしょ、と声がして、かごめが姿を現した。
「やちゃ~、いい子にしてた?」
ちび夜叉は、きゅ~きゅ~と大騒ぎをしている。弥勒は近寄って、かごめが出てくるのを助けてやった。
「ありがと、法師様」
「“りゅっく”もお持ちしましょう」
かごめの新しいリュックはいろいろ荷物を入れてきたようでぱんぱんにふくれていた。
「ありがと。これ、重いの」
リュックをとりあえず地面へおろすと、かごめは井戸に腰掛けた。
「どう、こっちは?」
「それが、なかなか。匂いの源が、移動しているらしいのです」
「そう」
かごめは考え込んだ。
「なんかね、井戸の中で、ヘンなものを見たの」
「とおっしゃいますと」
「いつもだったら井戸の中って、大きな澄んだ川の中にいるみたいなんだけど、今日は、あちこち黒くなって、それが動いてた」
「ううむ」
「なにかつながりがあるのかしら?」
「かごめ様にわからないのであれば、われわれにはなんとも言えませんな」
「ん、今は気にしてもしょうがないわね」
かごめは立ち上がった。
「ええと、リュック……」
かごめは絶句した。
 新しいリュックはそこにちゃんとあった。が、その上にちび夜叉がのしかかり、水干の袖で覆うようにして、きらきら輝く目でかごめを見上げているのだった。ぱんこ、ぱんこ、と小さな手でリュックをたたいて、やちゃは催促した。
「やちゃの。これ、やちゃのっ」
 先日、勝手に切り裂いて兄におでこをこちんとされたので、切ることだけはしないで待っているらしい。が、はっはっと息をし、尻尾をふりふりしてリュックを小さな体で抑えているようすは、まるっきり子犬だった。
「おやつを持ってきたの、わかっちゃったのね?」
「おやちゅ!」
「しょうがないんだから」
留め金をはずして、かごめは中から色のついた紙筒を取り出した。
「お手々、出して」
ちび夜叉がそろえて出した紅葉の手のひらの中に、かごめは紙筒からきれいな色の豆を振り出した。
「みい?」
「カラーコーティングしたチョコレートよ。おいしいから、食べてごらん?」
ちび夜叉は真っ赤なチョコ豆をひとつつまんで、口に入れた。しばらく神妙な顔をしていたが、あう~と声を上げ、うれしそうな顔になった。
「甘いでしょ」
ちび夜叉はこっくりした。
「これ、あげるね。でも、七宝ちゃんと半分こにするのよ?」
喉でにゅ、にゅ、と言う音をたてて、熱心にちび夜叉はうなずいた。

 マーブルチョコレートを持ったまま、ちび夜叉は有頂天で飛んでいった。弥勒と二人で歩き出したかごめは、ふと影がさしたのを感じた。
「かごめちゃん!」
雲母が、珊瑚を乗せて空から降りてくる。
「お帰り~」
「かごめちゃんもね」
珊瑚はそう言って微笑んだ。
 最近、弥勒とはうまく行っているらしい。名うての妖怪退治屋でもある珊瑚は戦闘服姿だと特にすらりと姿がよく、かごめの目にも、まぶしいほどきれいだった。
「さっき、下に、ちび夜叉がいたよ?」
「おやつをあげたの。七宝ちゃんを探しに行ったんだじゃない?」
珊瑚はくすっと笑った。
「上から見てたら、ちび夜叉、ほかの子にあげてたよ」
「ほかの子?」
「村の女の子たちに囲まれて、ちやほやされてた。おあや、おいね、おるい、おしな、おみね……」
 かごめの知る犬夜叉とちがって、ちび夜叉はなんとも甘え上手だった。人から嫌われる、忌避される、という経験をあまりつんでいないようだった。ちび夜叉が物怖じせずに村の娘たちに近寄っていき、甘えるのをかごめは前に見たことがあった。娘たちも、(皮肉なことに大きいほうの犬夜叉の姿に慣れているためもあって)、小さな犬夜叉を寄ってたかってかわいがってくれる。
 にやりと弥勒が笑った。
「ちびのくせになかなか目が高いですな」
「何の話?」
「今珊瑚が言ったのは、娘になったばかりの子から、若い人妻まで、この村でも評判の美人ばかりです」
かごめはあきれた。どうやら、七宝のことをすっかり忘れて、いつも優しくしてくれるきれいなお姉さんたちに、尻尾ふりふり、チョコ豆を貢ぎにいったらしい。
「あいつ……」
珊瑚は片手をなだめるようにあげた。
「まあまあ。あの子、赤ちゃんだから。たぶん、母親のおもかげのあるひとに、なついてるんじゃないの?」
「そうか。あの子が寝てるとき、寝言でかかしゃま、って言ってたことがあるわ」
「母親を早くなくすと、不憫なものよね」
ぱたぱたと足音がして、ちび夜叉が戻ってきた。
「しゃんご」
ちび夜叉は珊瑚に、黄色の“チョコ豆”を差し出した。
「あい!」
「ありがと」
頭をなでてやると、ちび夜叉はうれしそうにしていた。
「かおめの」
かごめには、緑色の豆だった。
「もらっておくわ」
かごめは、ちび夜叉が筒の中に、桔梗の分をストックしているような気がしてしかたなかった。
 ちび夜叉はまた走り出した。
「りん、りん!」
目ざとく見つけたらしい。かなり向こうの木の下まで、ちび夜叉はまっしぐらに走っていく。
「りんの!」
小さな手から、赤いチョコ豆をつまみあげて、りんは笑った。
「わあ、きれい。ありがと」
「珊瑚ちゃん、あの子もやちゃにとって、“お母さん”系なの?」
「とりあえず、ちび夜叉よりも年上って、たしかに苦しいね」
あやしい。かごめはじっとちび夜叉を観察した。りんちゃんは、なかなかかわいい女の子なのだった。
 ちび夜叉はきょろきょろしている。かごめが見ていると、やっとちび夜叉の待ち人が、木の上から降りてきた。
「あにさま」
うっとりとしたようすでちび夜叉は、光沢のある毛皮に両手を伸ばして甘ったれた。
「珊瑚ちゃん、あたし、ちがうと思う」
「やっぱり?」
「お母さんを連想させる人になついてるんじゃないんだわ。りんちゃんは子供だし、殺生丸は、男だし」
「ていうことは、つまり」
「あの子ったら、相手を“美人だ”と認識してなついてるのよ!」
横で弥勒がうなずいた。
「あっぱれ、ガキでも男ですなぁ」
“法師さま!”と、声がハモった。

 小さな唇をきゅっと噛み、ちび夜叉はすすりあげた。
「かかしゃま?」
かごめは驚いてちび夜叉を抱き上げた。
「どうしたの、きゅうに」
あぐ、あぐ、とちび夜叉はぐずった。
 一番暑い時間帯にかごめはちび夜叉を楓の小屋につれていき、昼寝をさせていたのだった。ふだんは寝起きのいい子なのだが、今日に限ってぐずっている。
「かかしゃま、どこ?」
珊瑚がのぞきこんだ。
「お昼寝したときに、夢でも見たのかな。お~、よしよし」
目に涙の玉が盛り上がっている。鼻水がぐずぐずして、あっというまにちび夜叉は泣き出した。
「うわ~ん、かかしゃま、ととしゃま」
あわててかごめは、幼児をゆすり上げ、背中をなでた。が、機嫌の悪いちび夜叉はおさまらなかった。
「困ったね。ずっといい子だったのに」
あう~、えぐ~、と嗚咽をもらし、ちび夜叉はぐずり続けた。
「よしよし、ああ、どうしよう。おっぱいじゃないだろうし、おむつでもないし」
弟の草太が小さかった頃を必死で思い出すのだが、かごめはどうしていいかわからなかった。
 七宝が耳をふさいでいる。
「うるっさいのう」
そばによって、ぺち、とたたいてみる。ちび夜叉はびっくりした顔になり、輪をかけた大声で泣き出した。
「七宝ちゃん!」
わわっと声を上げて七宝は弥勒の後ろに隠れた。
「泣く子と地頭には勝てないと言いますからね」
弥勒は苦笑していた。
「こんどおしゃぶりでも持ってこようかな」
えう、えう、えうとちび夜叉は泣き続けている。
 しかたなく、かごめは幼児を抱いたまま、小屋を出て歩いてみた。
「ちょっとそのへん、歩いてくるわ」
「あたしも行くよ」
外はそろそろ、夕暮れになりかけている。西のほうの山へと、鳥の群れが飛んでいくのが見えた。風が少し、涼しくなっていた。かごめと珊瑚は、ゆっくり村はずれの丘のほうへ歩いて行った。
 丘の上は、ススキの穂が豊かに揺れて、すっかり秋の風景になっている。そのなかに、人影があった。
「かごめさま、どうしたの?」
りんだった。
「やちゃが、泣き止まなくて」
かごめたちは、ススキの中に腰を下ろした。りんは小さな手で幼い生き物の髪を優しくなでていた。
「かわいそう。何かがきっかけで泣き出して、泣いているのがつらくて泣いてるんだと思う」
家族と暮らしていたときは、赤ん坊の弟か妹がいたのかもしれない、と、ふとかごめは思った。
「どうすれば落ち着くの?」
りんはまじめに答えた。
「疲れるのを待つしかないかなぁ」
「お~い」
遠くから、聞きなれた声がした。ススキの野原の中に、真紅の人影があり、こちらへ向かってくる。
「犬夜叉、こっち!」
まさに飛ぶような速さで、犬夜叉がやってきた。
「うるせぇと思ったら、なんだよ、ちびか」
「お母さんのこと思い出したらしくて、泣いちゃったのよ」
「ガキだな」
「しょうがないでしょ、赤ちゃんなんだから」
そのとき、一陣の風が吹きすぎた、と思った。
「うるさい」
低い、冷静な声だった。犬夜叉が、ふん、とつぶやく。殺生丸がやってきたのだった。
「殺生丸様!」
さっと立ち上がって、りんは保護者のところへ駆け寄った。
「赤ちゃんの犬夜叉が、泣き止まないの」
かごめたちは顔を見合わせた。
「殺生丸には言ってもむだよね」
たもとを引っ張るようにして、りんは背の高い妖怪を連れてきた。
 ちび夜叉はかごめの膝の上で、あぐぐぐぐ、としゃくりあげている。犬夜叉は面倒くさそうに、異母兄に向かって片手を振った。
「おめえの出番はねえよ。帰ろうぜ」
「うん」
かごめは立ち上がろうとした。
 無造作に殺生丸が手を伸ばした。長い指が、泣く子の体にかかり、苦もなく持ち上げた。
「あっ、ちょっと」
右手一本でちび夜叉を抱えると、殺生丸は、珍しいものでも見るような顔で、幼い弟を眺めた。
 秀麗な横顔がすっと下がった。ぐずる子供の真上、犬耳に鼻が触れるほどに顔を近寄せた。
 紅唇が小さく開いた。
 かごめたちの見ている前で、ぱく、と殺生丸は弟の犬耳を口に含んだ。
「えっ?」
「ええっ?」
ぐずっていたちび夜叉のようすがかわった。びくっと体を震わせると、泣くのを忘れて硬直する。はむはむはむ、と殺生丸は、ごくまじめな顔で犬耳を食べていた。歯を立ててはいないらしいが、見とれるほど形のよい、きれいな唇が、犬耳の白い柔毛に触れ、幼児の髪に鼻を埋めるほど深く、くわえている。
「な、なにやってんだーっ!」
 大きいほうの犬夜叉が悲鳴を上げた。なぜか、両手で自分の犬耳を押さえている。
 次第にちび夜叉の緊張がゆるんできた。泣きつかれて荒い呼吸をしていたのが、静かになり、まぶたがとろとろとさがっていく。泣き声は小さなすすり泣きにかわり、やがて、幼児特有の寝息になった。
 かごめは、声も出せずに突っ立っていた。珊瑚が手探りで指を探ってくる。どちらからともなく、二人の少女は、しっかりと指を握り合った。
“い、いいの、これ?”
“って言う前に、なんなの、これ?”
 ようやく殺生丸が口を離した。ちび夜叉の、柔毛に覆われたとがった耳の内側が、きれいな桃色になっていた。食べられていなかったほうの耳が、ぴくと震えた。
 ほら、とでも言うような仕草で、殺生丸は赤ん坊をかごめにわたして、きびすを返した。
「おい、待てよ、おめえ、何をやったんだ!」
ちら、と殺生丸は振り向いた。
「ああやると、寝る」
「ああやるとって」
「耳だ。おまえは昔から、耳を食べると寝る習性があった」
「しゅーせーだと?」
やっと放しかけた耳を、犬夜叉は再び押さえた。
「じゃ、何回もやったことあんのか!」
かえって不思議そうな顔で殺生丸がうなずいた。
「&$※%△#★!?>○*◆!!!」
声にならない声で、犬夜叉が悲鳴をあげた。

 その夜、楓の小屋でも、犬夜叉はまだときどき、耳を押さえていた。
「くすぐってぇんだよ」
「そんなもんなの?」
テストに備えて持ってきた参考書を読んでいたかごめは、ぱた、と本を閉じた。 数学や理科よりも雰囲気が合うだろうと思い、古文を選んだのだが、やはり勉強にはなりそうになかった。
「わきの下とか、横っ腹とか、あるだろ、くすぐったいとこ?」
「うん」
「だから、想像しただけでよ……」
「でも、なんていうか、ちょっと不思議ね」
弥勒が筆を持ったまま振り向いた。
「何の話ですか?」
「殺生丸の、大きいのが、ちび夜叉を寝かしつけたやり方。なめてたわ」
「あの兄上殿が?」
「殺生丸って、すごく……人間に見えるんだけど、ああいうことしてると、実は大きな犬なんだなあ、って思って」
「かごめ、おめえ、見たことあるだろ?でっかくて、凶暴で」
弥勒がつぶやいた。
「私は見たことはないのですが、凶暴な犬、ですか。しかし、小さな殺生丸殿の話では、兄上殿はりんを食らう気はないと言っていましたが」
珊瑚が目を輝かせた。
「まさか、あの子に聞いたの?大きな殺生丸が、りんをどう思っているのかって」
「聞きましたとも」
「で?で?」
あきらめの境地、という顔で、弥勒は言った。
「『雀の子を、いぬきが逃がしつる』だそうです」
「え?それって」
かごめが聞き返したときだった。狂ったような勢いで、戸をたたく音がした。
「楓さま、楓さま」
犬夜叉は真顔になって刀をひきつけ、弥勒も筆を置いた。楓は土間へ立っていった。いそいで戸を開けると、村人が青い顔で立っていた。
「たいへんなんじゃ、来てくだされ」
「なにがあった?」
「化けもんです。村を襲っとります!」