黄金琥珀 3.第三話

 かごめの“りゅっく”には、いろんなものが入っている。かごめの国では普通に使われている背負い袋だというのだが、弥勒の知っているどんな材質より丈夫で軽かった。
 朝になって、かごめと珊瑚は、小さな殺生丸とりんをつれて川辺に顔を洗いに行ってしまった。邪見は二度寝をしている。弥勒はそして、木の根方で、“りゅっく”にちょっかいを出すちび夜叉を見つけたのだった。
 少し離れた草むらにうずくまって、ちび夜叉はリュックを観察しているようだった。まだ小さな犬耳がひょこっと動いた。少しだけ顔を出して、匂いをかいだ。
 ぱっとそばへ寄った。上からがばっとのしかかり、背負い紐に噛み付いた。じっとしている。あたりまえだが、リュックは反応しない。そろそろと口を離すと、ぺちぺちとリュックをぶった。
「び~」
鼻でつつきまわし、あむあむと噛みつき、紅葉のような手でぶち、ひっぱり、さかんに何かやっている。時おり手を止めて、はあはあ、と荒い息をした。
「手ごわい」
とでも言うような目つきで、ちび夜叉はリュックをにらみつけ、ふ~とうなった。 ついに、右手をかざす。まだ薄く、かみそりのような爪がでてきた。
「いかん」
弥勒は気づいて飛び出した。が、ちび夜叉はリュックの背に当たる部分をすっぱりと縦に切り裂いていた。
「きゅ~っ」
 歓喜の声を上げて、ちび夜叉はリュックの中へ小さな両手をつっこんだ。かごめの持ち物をそこらじゅうになげちらかし、やっとちび夜叉はお目当てのものを見つけた。“ぱっく”入りのみたらし団子である。蜜の甘い匂いをかぎつけて、ちび夜叉はリュックに目をつけていたらしかった。
 みたらし団子は七宝の好物なので、かごめは向こうの国と往復するたびに持ってきてくれる。パックに残っていたのは、七宝が楽しみに取っておいたおやつだった。ちび夜叉はパックを両手で押さえてふたにかみつき、こじあけようとした。
「きゃーっ、あたしのリュック!」
あたりに声が響いた。かごめたちが帰ってきたのだった。
 ちび夜叉はパックのふたをくわえたままの顔でふりむき、あわてて口から落とすと、草むらの中へたたっと走りこんだ。
「待ちなさいっ」
「待てよ、こらっ」
かごめと大きいほうの犬夜叉が追いかけていく。弥勒もあとを追った。真っ赤な水干はよく目立った。
 とてん、と音を立てて、ちび夜叉がころんだ。石にでもつまづいたらしい。草の中にお腹をつけて、ぺたりと腹ばいになっていた。
「やちゃ!」
かごめはあわててちび夜叉のそばに膝をついた。
「ちょっと、やちゃったら!」
ちび夜叉は、ぎゅっと目を閉じて、みけんにかわいいしわをよせていた。口は一生懸命引き結んでいる。声を出せたら、むむむむむ、とでも言いたいような顔だった。
「やちゃ?」
「かごめさま」
弥勒はかごめをどかせて、ちび夜叉を抱え上げた。水干のあわせから片手を入れた。お腹がふくふくしている。その上のほうをさぐり、手をちび夜叉の胸にあてた。ひどく早い鼓動を感じた。
「やっぱり。死んだふりです」
「えっ?」
 後ろから、くすくす笑う声がした。
「それは、わたしが教えたのだ」
小さな殺生丸だった。殺生丸は、弟を弥勒から抱き取った。
「犬夜叉~」
ちび夜叉は薄く眼を開けた。殺生丸は手を軽くにぎり、人差し指の関節を、こちんと弟のおでこにあてた。
「人の荷物を荒らしては、だめだぞ」
「み~」
かなり痛かったらしい。小さな手でおでこをおさえてちび夜叉はべそをかいた。
かごめは胸をなでおろしたようだった。
「よかった。死んだふりだったのね。本当にけがをしたかと思った」
大きい犬夜叉が小さな殺生丸に聞いていた。
「死んだふりなんか、どうして教えたんだ?」
「だって、この子は、わたしの言うことをなんでも信じるから、おもしろかったのだ」
無邪気な目で少年が言う。犬夜叉は、心底いやそうな顔になった。
「おまえ、弟で遊ぶなよ」
あはは、と小さな殺生丸は笑った。

 気が乱れていた。
 おとといあたりから、桔梗は、妙な違和感を感じて仕方がなかった。世界がしっくりとあっていない、ないしは、ずれが生じている、そんな気分がずっと続いている。
 桔梗はため息をついた。偵察に出した胡蝶と飛鳥は、まだ戻ってこない。桔梗はいらだちに駆られ、足を速めた。
 林がとぎれた先は、草地になっていた。この向こうに川があり、草地は段丘の一部らしい。桔梗の住んでいた村と、どこか風景が似ていた。
「いい匂いがいっぱいするな!」
昔、そう、50年以上も昔、その村のこんな草地で、半妖の若者が顔を輝かせてそう言ったことを、ふいに桔梗は思い出し、苦笑いをした。
 桔梗は振り向いた。今しがた出てきたばかりの林に、何かいる。
「誰だ」
とっさに右手があがり、背に負った矢筒の中の矢を探った。林には珍しい色彩が目に入った。韓紅。火鼠の衣の色。桔梗は手を止めた。
 木の陰から、2歳くらいの小児がこちらのほうを見ていた。
「おいで」
思わず桔梗は口にした。子供はぱたぱたと出てきた。はだしだった。見覚えのある真紅の水干(ただし極小サイズ)、白銀の髪、その中の耳一対。
「おまえ、犬夜叉?!」
桔梗はつい、高い声を出してしまった。犬夜叉にそっくりの幼児は、おびえたような顔で立ち止まった。
「おどかすつもりはなかった」
桔梗はそう言った。まがいものの体でも、胸がどきどきするような気分だった。幼児は、じっと自分を見ている。桔梗はそっと近寄った。川風が、そのとき、ふと桔梗の後れ毛をなびかせた。
 いきなり、幼児の表情が変わった。小鼻を寄せ、しわを作り、眉をしかめている。まるで、いやなにおいをかいだようだった。
 ぱっと子供はきびすを返し、林の中へ駆け戻った。
「墓土の、匂いがしたか……」
桔梗は立ち尽くした。それ以上、しいて子供に近寄るのもかわいそうだった。どこから見ても半妖のその子は、きっと、極度に匂いに敏感なのだろう。
「もうよい。行きなさい」
それだけ言って、桔梗は林と反対に草地の奥へと足を進めた。脱力が来る。紅の切袴のひざが、草むらについた。恨めしい川風が、正面から吹いてくる。
 ふいに、ぱたぱたと音がした。振り向くと、あの子供だった。
「おやめ。匂いが嫌いなのだろう」
だが、幼児はおずおずと近寄ってきた。あの犬夜叉そっくりにうずくまり、手をついてじっと見ていたが、桔梗が何も言わないでいると、ちょこちょことやってきて、袖を広げた。
「何か用か?」
幼児は左右の腕を桔梗の体に回して抱きついた。
「おまえ、何を」
小さな手が、そのとき、桔梗の背中に触れた。偶然ではない。まるで、母親が子供を寝かせるかのように、幼児は桔梗の背を、やさしく、ぽんぽんとたたいていた。
 ふいに涙があふれた。
「わたしを、慰めようとしているのか?」
「み~」
桔梗はそっと子供を膝に抱え上げた。ぽんぽんは、まだ続いている。
「犬夜叉……」
「み~」
桔梗は、子供を強く抱きしめ、幼い肩に顔を押し当てた。赤い衣に、自分の涙を吸い取るにまかせるのは、甘悲しく、そして幸せだった。

 小さな殺生丸が、あっちだ、と言ったので、かごめは走って林を抜けた。ちび夜叉がまた、どこかへ遊びに行ってしまったのだ。
「もうっ、しょうがないんだから。やちゃーっ」
呼びながらかごめは、薄暗い林から、明るい草地へ、躍り出るようにでてきてしまった。
 緑の草地の上に、白と、赤と、黒。
 髪と、袴と、衣。
 かごめの目の前で、桔梗が小さな犬夜叉を膝にのせ、しっかりと抱きしめていた。
 前にも見た、とかごめはどこか冷静に考えた。現代から戻ってきたときに、目の前で、ちょうど、こんなふうに。
 かごめは、静かに草を踏んで、近づいていった。後ろでがさがさと音がした。大きな犬夜叉たちが追いついてきたようだった。
「かおめ!」
桔梗の膝の上から、ちび夜叉はとびおりた。うれしくてしょうがない、という顔でしっぽをふり、罪悪感などまるっきりないようすで、走り寄ってくる。
 ちび夜叉は、かごめのスカートのすそをつかんで、ひっぱった。
「かおめ、だっこ!」
 後ろで珊瑚の声が、うっわ~と言っていた。珊瑚より遠慮のない七宝の声が、一同の気持ちを代弁した。
「なんと、このころからふたまたかけておったのか、犬夜叉は!」
ばこっと音がしたのは、犬夜叉がぶん殴ったらしい。かごめは、足元で甘えるちび夜叉を抱き上げ、ゆっくり振りむいた。
「七宝ちゃんをいじめることないんじゃない?」
大きい犬夜叉は、青ざめていた。
「かごめ、おれは、べつに」
後ろから衣擦れの音がした。
「犬夜叉、それは、おまえの子か?」
桔梗の声は、起伏があまりないが、けして感情がこもっていないわけではなかった。大きい犬夜叉は、ぎくっとした。
「いや、誤解すんな、桔梗」
かごめは思わず口走った。
「そうよね。誤解されちゃ、困るわよね」
「か、かごめ、おめえまで」
な、なんかいつのまにか来たやつで、じつはこいつはおれで、でもほんとはそうじゃなくて、親父が、おふくろが、その……
 犬夜叉の説明はしどろもどろになった。桔梗は疑い深そうに目を細めた。
「なんの話だか、わからぬ」
 向こうで弥勒が肩をすくめていた。
「終わるまで、あっちへ行っていましょう、珊瑚」
「そうだね。長いから」
「てめえら、裏切んのかよ!」
「自分で撒いたタネじゃろう!」
「ちょっと待て七宝、おれがいつタネを撒いた?!」
にぎやかな仲間の向こうから、さらに、別の一行が現れた。
「何の騒ぎだ」
殺生丸たちだった。
 かごめの腕の中で、ちび夜叉が暴れた。
「あにさま、あにさま」
かごめがおろしてやると、ちび夜叉はうれしそうに飛んでいく。探していた弟と手をつないで、おもむろに小さな殺生丸は、聞いた。
「殺生丸、あの人は誰だ?」
「巫女だ」
「何か犬夜叉と関係のある人か」
その瞬間、草地の緊張が一気に高まった。犬夜叉は息もできないような表情だった。
 涼しい顔で殺生丸が答えた。
「知らん」
 くはあ、と息を吐いて、犬夜叉が樹にもたれた。かごめも、ぐっと肩の力が抜けた。ちび夜叉だけは一人、天真爛漫な顔をしている。
 行くぞ、と言って、殺生丸はきびすを返した。小さな殺生丸も、あとを追った。
 ぱっと兄の手を離れて、ちび夜叉が飛び出してきた。
「かおめ、いこ?」
「そうね」
肩がこる、というのは、こういうのを言うのだろうか。かごめは片手でちび夜叉と手をつないでやった。
 くるんと振り向き、反対側の手をかわいらしくあげて、ちび夜叉は桔梗に向かって手を振った。
「ちちょー、またね」
 さきほどから不動明王と観音菩薩の中間のような表情で黙っていた桔梗は、にっこりと微笑んだ。そら恐ろしい笑顔に、大きい犬夜叉はごくりとつばを飲み込んだ。
「ああ。またおいで」
きゃっ、きゃっとちび夜叉は喜んで手を振っている。
「泥沼じゃな、これは」
と、七宝がつぶやいた。