黄金琥珀 2.第二話

 殺生丸は、ふわりと竜の背から降りてきた。
 その爪は長く、鋭い。
 その足は俊敏そのもの。
 その瞳は氷のような視線を放っている。
 その髪は銀糸に似て腰にかかるほどの長さがあり、振袖のたもとに合わせて、優雅に揺れていた。
 この人を目の前にすると、威圧感のあまりいつも息苦しささえ感じる、とかごめは思った。りんが、よくいっしょにいられる、と思うのだ。
 開口一番、殺生丸は、自分に呼びかけた。
「殺生丸」
童子の殺生丸は、成長した自分と、正面から向かい合った。
「弟は、厳しく躾けておけ」
とても素直な瞳をもったあどけない少年は、ひるむようすもなく答えた。
「あなたには、言われたくないな、殺生丸」
かごめが驚いたことに、大きな殺生丸は黙っていた。
「今日はいろいろと珍しいもんを見るが……」
弥勒がささやいた。
「兄上殿がへこまされる図、というのは、初めてだ」
犬夜叉がわははっ、と笑った。
「ざまぁみろ!」
金色の瞳が二対、犬夜叉に向けられた。
「おまえ、本当に意味をわかっているか?」
「へ?」
 そのとき、ちび夜叉がちょこちょこと動き出した。どちらにしようかと迷うように一度立ち止まり、おもむろに、大きな殺生丸に近づいた。
 思わずかごめは、だめ、と言いそうになった。無造作に殺生丸が、右手を伸ばした。毒のしたたることもある、鋭い爪がきらめいた。が、形のよいその手は、しっかりと幼児の尻を支えて抱え上げた。
「おっちぃ、あにさま」
きげんよさそうにちび夜叉は、兄の右肩にかかる白いふわふわした毛皮に顔を埋めた。
「なんでてめぇは、そいつになつくんだよ」
対照的な表情で犬夜叉は言った。小さな殺生丸がなだめるように言った。
「同じ匂いがするから、わたしとまちがえているのだ」
幼児を抱えたまま、殺生丸は近くにあった大きな木の根に腰をおろした。
「殺生丸」
あいかわらず、余人は眼中にないらしい。
「おまえは、どこから来た?」
小さな殺生丸は、じっと自分を見上げた。
「どうしてそのようなことを聞く?あなたが知らない、ということは、あなたは、“これ”を経験してない、ということか」
はあ?と大きな犬夜叉が言った。
「なに言ってんだ、おまえ」
かごめには、思い当たることがあった。
「時間の流れが、一本だけじゃない、そういうこと?」
「そういうことって、どういうことだ?」
「つまりね、この小さな殺生丸と大きな殺生丸が本当に同じ人間/妖怪なら、彼はこのタイムスリップのことを覚えているはずだからよ。この子たち、単純に“過去”から来たのじゃない。別の時間の流れの中にある“過去”からここへ来たんだわ。そうでしょ?」
小さな殺生丸は軽くうなずいた。
「うまく帰ることができるだろうか。父上が心配していらっしゃるかもしれない」
ぴく、と殺生丸の眉が動いた。
「おまえの父上は、存命か」
「もちろんだ」
小さな殺生丸は、胸を張った。
「父上を倒せる者など、いるものか。西国のみならず、日ノ本において最強と言われている。あなたが知らないはずは、ないだろう?」
しばらく殺生丸は黙っていた。
「竜骨精という名を知っているか」
「長虫の一族の長だ。なかなかにまつろわぬ者だったらしいが、だいぶ前に仲間割れを起こして死んだと聞いた」
 それは、かごめの知っている歴史とは別物だった。
「ねえ、この赤ちゃんだけど、お母さんはどこにいるの?」
小さな殺生丸は、何の屈託もなく答えた。
「十六夜の方のことだろう。夏の館の、北の対にお住まいだったが、昨年、みまかった」
かごめはおもわず、犬夜叉と目を見合わせた。
「何が原因で、死んだんだ?」
「長く、つらい病で、とだけ聞いている。そのせいか、父上は天生牙を使うこともなかったらしい」
しばらく犬夜叉は黙っていた。
「幸せだったのか、おふくろ……?」
「一族の行事など、表には出ない人だったから、よくわからない。でも、ときどき父上の笛に、琴を合わせていらっしゃるのが聞こえることがあった」
 犬夜叉は、草の上にすわりこみ、片手で額を支えた。
 かごめは、何と声を掛けて言いかわからなかった。父親が健在で、母親ともども、館にひきとられた犬夜叉。兄が遊んでくれ、保護してくれる犬夜叉。かわいがられて育つ犬夜叉。見比べてみると、かごめの知っている犬夜叉は、なんて巨大なものを奪われたことだろう。
「みぃ~」
 雰囲気を察したのか、ちび夜叉は、毛皮にほおずりしていた顔をあげた。殺生丸は立ち上がり、ちび夜叉をおろした。そのまま、歩き出した。
「待って、殺生丸」
少年は、成長した自分の、背に向かって叫んだ。
「まさか、父上は」
殺生丸は、振り向かずに言った。
「あの方は、あの方の望むままに死地へ赴かれた」
その口調の底にひそむ憤りに、かごめは冷やりとするものを感じた。犬夜叉が叫んだ。
「おい、ちびどもをどうする気だ!」
「帰る道を探す」 
それだけ答えて、殺生丸は行ってしまった。

 呉越同舟、という四文字熟語を、かごめは中間試験以来久々に思い出した。意味は、殺生丸一行と一緒に野宿すること。少なくとも今のかごめにとってはそうだった。
 日が暮れかけてから、殺生丸が戻ってきた。道は見つかったのか、見つからなかったのか、相変わらず彼は寡黙だった。野宿は、気まずいものになるという予想をくつがえして、なんともにぎやかだった。
 かごめたちは火を起こし、魚や木の実を採ったりして、いつものように野宿の準備をした。りんは手伝いにきたが、かごめや珊瑚が死ぬほど驚いたのは、小さな殺生丸がいっしょに手伝ってくれたことだった。もっとも、本人は焼き魚に興味はないらしい。真性の妖怪が人間の食べ物を必要としない、というのは本当らしかった。
「これはどうするのだ、りん?」
「あの、小枝にさして、それから」
「こうか?」
「はい」
お忍びの王子様が、非日常的な経験を楽しんでいる、という雰囲気がありありとしていた。見た目、同い年に見えるりんがいっしょにつきあっているので、たいそうほほえましい。りんのほうは驚天動地の体験らしく、ほとんどぼうっとしている。
 だが、ただ一人、かわいいカップルの邪魔をしたがる者がいた。
「やちゃも!」
兄のやっていることをなんでも真似したい幼児……ちび夜叉が、必ず割り込んでくるのだった。兄の注意をひきたいのは見え見えだった。
「み~、び~」
しかし、不器用に奮闘するのだが、なかなかうまくいかない。じれたちび夜叉はほほをふくらませて怒っている。
「ばっきゃろー、こうやるんだよ」
見かねて本人が手を出すと、ちび夜叉はつめを振り回して怒るのだった。
「やちゃの、やちゃがやるの!」
「あ、こら、痛ぇぞっ」
めったにみられないもの、その3だか4だかに、かごめは、“散魂鉄爪をくらう犬夜叉”というのをつけくわえた。
 手伝いにあきたちび夜叉は、ふくれたまま地面にうずくまって両手をつき、器用に足を上げて耳の後ろをかいた。見るなり珊瑚が吹きだしたほど、それは犬夜叉にそっくりの仕草だった。
「犬夜叉、お行儀が悪いと言っただろう」
冷静に兄が注意する。そばにいた、大きな犬夜叉の肩がぐぐっと上がったが、何も言わなかった。自覚があるらしい。少しはなれたところで木の根元にすわっていた殺生丸が、低い声でつぶやいた。
「無駄だ、そのくせはなおらなかった」
「なんか文句あんのか、てめぇはっ」
犬夜叉が怒鳴った。
「ごちゃごちゃ言うなら決着つけてやるぜ。今んとこ、二勝三敗の一分けだ!」
殺生丸は、異母弟のほうを見ようともしなかった。
「騒ぐな。うっとおしい」
「なんだとっ」
 ふとかごめは気がついた。
「あの、殺生丸?」
殺生丸は、軽く目を閉じた。
「あなた、もしかして、こっちの犬夜叉とちび夜叉、同じようなものに見えてるんじゃないの?」
 金色の瞳が見開かれた。殺生丸はじっくりと、鉄砕牙に手をかけて憤慨している犬夜叉を見、うれしそうに焼き魚をほおばっている幼い犬夜叉を見、眉間にしわをよせた。
「背は、伸びた」
「それだけかよっ」
「爪が鋭くなったな」
「ほ、ほかは?」
殺生丸は、珍しくとまどったような色を目に浮かべた。
「何かまだ、違うのか?」
「おれはガキじゃねーっ」
無表情に、そして冷静に、殺生丸は言った。
「嘘をつけ」
「つまりさ」
小声で珊瑚は言った。
「殺生丸が犬夜叉から鉄砕牙を取り上げようとしたのは、強い刀が欲しかったとか、長男として父親の形見を譲りたくないとかじゃなくて、いや、それもたぶん、あるだろうけど、一番の理由は」
「小さい子が刃物をふりまわすと危ないから、だったんだわ。うん、たぶん、そうよ」
「だから最近、取り上げようとしなくなったんじゃないの?弟にもたせておいても大丈夫だと思って」
「ちょっとは成長した、と思っているわけね、“あにさま”は」

 おなかのふくれたちび夜叉は、七宝と遊んでいた。七宝が、自分より(わずかだが)小さい犬夜叉をしきりにかまい、ちび夜叉はむきになって狐火を追い掛け回すのだった。
 見た目は2歳くらいの赤ん坊だが、ちび夜叉の運動能力は、人間の幼児とは比べ物にならない。
 ひとしきり騒いだあと、かごめはちび夜叉を抱き上げてあやした。まぶたが重そうにさがり、気がつくとちび夜叉は寝息をたてていた。
 なんとなく、それを契機に、火の始末をして、それぞれは自分の居場所にうずくまり、黙り込んだ。
 小さな殺生丸は、かごめのところへ移動してきた。
「隣で寝ていてもいいか?はぐれないように、弟のそばにいたいのだ」
「どうぞ」
かごめは場所を空けてやった。
「いい、お兄ちゃんね?」
小さく殺生丸はつぶやいた。
「その子のことに、責任があるのだ。わたしは兄さまなのだから」
かごめのうしろで、犬夜叉の動く気配がした。
「どうしたの?」
「ちょっとな。ちびども見ててくれ」
 犬夜叉は立ち上がり、殺生丸に近づいた。両手を胸の前で組み、手首を袖口に入れたかっこうで、座っている殺生丸を見下ろした。
 かごめはあらためて、その姿に見入った。腕の中で眠る幼児のおもかげが確かにあるのだが、かえってそのために、剽悍さ、独特のしたたかさ、独立不羈の気概が強烈に漂っている。
「話がある。ツラ貸せ」
「ここではできぬ話か」
「おう」
殺生丸が立ち上がった。
 かごめは残り火のわずかな明かりの中で、もう一度目をみはった。
 お忍びの王子様は、流浪の王に成長したらしい。長じた殺生丸は、たもとをひるがえす姿さえ、優雅で冷酷で、月の光が人の形になったほど美しかった。彼は無言で背後に広がる森の奥へとあごをしゃくった。
「けっ」
犬夜叉が小さくつぶやいた。犬夜叉は、兄の後について森へ入っていった。

 真夜中の森は、重なり合った木の枝の間を縫って落ちる月の光のほかは、まったくのくらやみだった。そんな場所を危なげもなく殺生丸は歩き、大きな樹の根元で足を止めた。
「おまえはここにいた」
「なんだと?」
「昨日、ここを通りかかったら、その樹の穴にいた」
 たしかに、からまりあった木の根が自然の洞穴を作っている。
「耳が見えたので名を呼んだら、あの子どもがでてきた」
犬夜叉には、なんとなく想像がついた。たぶん、迷子になったあげく、“あにさま”を見つけたと勘違いしたちび夜叉は、自分から泣いてすがりついていったのだろう。考えるだけで赤面ものだった。恥ずかしさをふりはらうように、犬夜叉はわざと乱暴に聞いた。
「はっ、なんでぶっ殺さなかったんだよ?」
返事はなかった。
「何か話があるのではなかったのか」
犬夜叉は、言いよどんだ。
「言ったほうがいいかどうか、迷ってるんだ」
「父上のことか」
「死んだこと、それと、そのあとのこと」
殺生丸はかぶりをふった。
「あの殺生丸は、たぶんもう、気がついている。ことあらためて言う必要はあるまい」
「おまえの腕のことは、知らないはずだ」
黄金琥珀の瞳がこちらを射抜く。
「それは、おまえの問題だ」
くそっ、と犬夜叉はつぶやいた。
「あいつは、昔のおまえだ。いや、そっくりなんだ。初めて見たときのおまえに」
「あたりまえだ」
いつもそんなふうに、突き放した物言いをする男だった。
「なんて言っていいのか、わかんねぇけど、とにかくあいつらは、元のとこへ返してやるべきだ」
「なぜ、そう思う」
「ちゃんと返してやらないと、悲しむやつが、いっぱいいそうだから」
表情も変えずに、殺生丸は立っていた。
「難しい」
「なんだって?」
「さきほど、この森を探りに来た。夕べ感じた気脈の乱れはもう残っていなかった。帰り道を見つけるのは、難しいぞ」
「手がかりは、ないのか?」
「小さなおまえを抱き上げたとき、かすかに匂いが残っていた」
「匂いって、どんな」
「こすれあう妖気の匂いと似ている。異質なもの同士が摩擦しあって出す、焦げ臭さだ」
「おれはわからなかった」
殺生丸は視線だけで、“おまえにはな”と告げた。
「相変わらず、むかつくな。匂いだけが手がかりだって言うんなら、頼みの綱はおまえと、小さい殺生丸だけだ」
犬夜叉は、腹をくくった。
「だから、手伝え」
殺生丸は、黙っていた。
 やっぱり、“お願いします”も言わなきゃだめだろうか、と思って犬夜叉は、うじうじと異母兄を見ていた。
 森の奥で、猿が鳴いている。
 夜行性の動物たちが枝をわたっていく。
 ささやかな狩がおこなわれたらしい。かすかな血のにおい。
 近くの川の、せせらぎの音。
 彼ら兄弟の鋭敏な感覚に、夜の森の姿がさまざまに映し出されていった。