パラケルサスの犯罪 22.第四章 第三話

 大温室の警備は、明日から強化される。“パラケルサス”と呼ばれた人物は、その夜が最高のチャンスであることを知っていた。今日のために、消毒に使うエタノールの原液をためこんでいたのだった。
 いずれ、たぶん、数ヵ月後の在庫調査のときに、大量のエタノールが倉庫からなくなっていることがわかるだろうが、そのころにはもう、ここにはいないつもりだった。
 阿片中毒でこの世を去ったあの人との約束は、今も強く“パラケルサス”を支配している。このグラン・ウブラッジで、ローフォード大佐率いるグループに加わったのは、そもそも、それが原因だった。
「ここは、阿片ケシを育てるには、国内で一番適した土地です。気候がいいし、グラン・ウブラッジなら外から近づけないし」
と、かつてジョナサン・マクラウド博士は言った。
「逆にいえば、ここをつぶしてしまえば、ヘイバーンの阿片計画も、進めようがないということだな?」
と、ローフォード大佐は言った。
「そのとおりだよ、ジョージ」
銀縁の眼鏡をかるく直して、マクラウド博士は優しくそう言った。
「だから、“パラケルサス”、もし我々に何かあっても、きっと君だけは残って、あの花畑を燃やしてくれ。いいな?」
わかりました、ローフォード大佐。
 ラッシュ少佐とは、グラン・ウブラッジの機械系統の図を見ながら計画を練った。あの大温室では花に水をやるために細いパイプがたくさん使われている。
「まず、可燃性の液体を用意してだな。この図の、この部分から、大温室のパイプ網へ流し込む」
どの弁を操作すれば水がとまるか。人目につかないように流し込みをするにはどうしたらいいか。ラッシュ少佐の段取りは几帳面で明快だった。
「消毒に使うエタノールの原液がいいだろう。手にいれるのが簡単だし、あれをパイプ網に流せば、一定時間ごとに霧になって空気中にばらまかれるはずだ。あの温室を、可燃性の霧でいっぱいにして、そこへ火をはなつ。大爆発だな」
「グラン・ウブラッジのほかの部分には影響しないのですか?」
と聞くと、ラッシュ少佐は、眉を上げた。
「わしは工兵の経験もある。たぶん、圧力は上へ抜けるよ。温室の天井ガラスがこっぱみじんになるだろうが、そんなものだな。だいじょうぶだ」
 “パラケルサス”は、考えた末に、軍用の手榴弾を手に入れておいた。大温室の小さな扉を開け、手榴弾をできるだけ部屋の奥へ投げ込み、急いで扉を閉めて、逃げる。
 そう、段取りは、できあがっていた。
 “パラケルサス”は、機械室の大きなパイプの上でひといきついた。そばにはカバーをはずしたり弁を操作するのに使った工具が散らかっている。人が入り込むことを想定していないので、狭く、ちぢこまった体勢になり、腰が痛かった。
持ち込んだエタノールは、あと5リットル入りの缶がひとつ。ふう、と息をついて“パラケルサス”は缶を抱え、蓋を開けた。強い酒の臭いが漂った。重い缶をゆっくり傾け、足元のパイプに開いた穴へとエタノールを流しこんだ。

 ローレンス・ペインター大尉は、壁の時計を見上げた。夜の十一時だった。あまり進んでいない帳簿の整理をあきらめ、大尉は管理部を出た。
 ふあぁ、とあくびまじりで階段を下りて、一階までやってきたときだった。いきなり呼び止められた。
「大尉!」
ターナー看護婦だった。
「うちのリッキーを見ませんでしたか?」
「え、いや、誰にも会わなかったですが」
いつも冷静なターナー看護婦が、おろおろしているように見えた。
「小児科の病棟から、連絡が来たんです。リッキーの姿が見えないって。今夜は、母の体調も悪くて、あの子につきそっていなかったものですから、心配で」
「その、小さな坊やだったら、たぶんトイレじゃないんですか?」
「実は、ロングホーンさんがおきていらしたので、男性用のトイレもひととおり見てもらったんですが」
言っているあいだに、総受付の陰から、ロングホーンが出てきた。
「簡易宿泊所まで行ってみましたが、いないようですよ」
「すいません」
「いえ」
若い錬金術師は、短く答えた。
「もう一回、病棟を見てみたら。ぼくが行きますよ」
ペインター大尉は手を振った。
「そんな。職員の仕事ですよ。ロングホーンさんはお休みになってください」
「実は少し、不眠症ぎみなんです。だいじょうぶですよ。手伝います」
廊下の向こうのほうから別の看護婦が足早にやってきた。
「ルーシー、どう?」
ルーシーと呼ばれた看護婦は、息を切らしているようだった。
「おたくのリッキー坊や、ディビスさんと知り合いっていうこと、ある?」
「ああ、母が、来るときの汽車で乗り合わせたと言っていたわ」
「じゃ、あたりかもしれない」
ルーシーは息を継いだ。
「3階病棟のナースが、ディビスさんを見かけたんですって。そのとき、小さな男の子の手をひいてたって。お孫さんかなと思ったって言ってたわ」
「ディビスさんは、リッキーをどこへ連れていったのかしら」
「それが、“地下におもしろいもんがあるから、おいで”って言うのが聞こえたんですって」
「地下?」
大尉は思わず聞き返した。
「何もないですよ?あの木箱の爆破事件以来、ずっと一般人立ち入り禁止で、たいていのものはかたづけてますから」
「もしかして、あの花畑のことじゃない?」
と、ターナー看護婦は言った。
「ターナーさん、あの」
「子供が行方不明だっていうときに機密も何もないでしょ?だいいち、グラン・ウブラッジに住んでれば、あそこにやばい花畑があるなんてこと、みんな知ってるわ。ねえ?」
ルーシーがうなずいた。
「行ってみたら?ディビスさん、ちょっとちゃめっけのあるおじいちゃんだから、心臓の悪いリッキーに温室を見せたいと思ったんじゃないかしら。明日からは立ち入り禁止だっていう話だし」
「それはわかるけど。何もこんな夜に行かなくてもいいのにね。あの子は早く病室へ戻さないと」
ロッティはそう言って地下へ通じる階段のほうへ歩き出した。
 大尉ははあ、とため息を漏らした。ロングホーンが言った。
「また、院長に怒鳴られますね」
ペインターは苦笑した。
「最近、慣れてきました」
階段を下り、まだどこかすす臭い地下を通り抜け、大尉たちは温室の前へやってきた。
 “つきあたりの左側のドア”を細めに開けただけで、男の子の高い声が聞こえてきた。
「すごいね~」
「リッキーだわ」
とターナー看護婦が言った。
「しょうがないわね!」
夜の大温室は、不思議な世界だった。壁に取り付けられたわずかな明かりが、広大なケシ畑を照らしている。
「あ、ロッティおばちゃん!」
白い花の中で手を振っているのはまちがいなくパジャマを着たリッキーだった。そばに、ナイトガウン姿のディビス老人が立っていた。
「困ります、ディビスさん」
ディビスは頭をかいた。
「申し訳ない。ほんのちょっとだけ、と思ったんだが」
ターナー看護婦を先頭に、大尉たちはリッキーのところまで歩いていった。
「おばあちゃん、心配してたわよ」
「ごめんなさい」
リッキーはすなおに頭を垂れた。
「わしが悪いんだ、ターナーさん。いつもは地下に警備の兵隊さんがいて入れてもらえないんだが、今夜は人がいないって、あの錬金術師の坊主が言ったもんで」
「誰が坊主だ」
と、エドの声がした。
 大尉やロングホーンの入ってきた入り口とは反対の方角から、エドとアルが姿を現した。背の高いケシ畑の中の通路を、アルの鎧が動いてきた。
「また、何してるんですか、こんなところで」
と大尉は聞いた。
「見張りだよ。つぎはここが狙われると思ってさ」
「そんなの、本職の警備兵がいるでしょうに」
「明日からたいへんみたいなんで、今晩だけぼくたちが警備を代わることにしたんです」
とアルが言った。
そのときだった。壁際の明かりが、ちらちらした。
「まただよ~」
「あの電球、古くなってるみたいだね」
ロングホーンがそうつぶやいたとたん、大温室の照明がいっせいに落ちた。
「うわっ、まっくら」
リッキーの声は、むしろおもしろがっているようだった。
「すごー。ほら、頭の上、星が見えるよ」
「だめよ、リッキー。ほら、もういいでしょ。病室へ帰りましょうね」
「え~」
アルの声がした。
「リッキー、真っ暗じゃ足元あぶないよ」
「待てよ、ろうそくを持ってきたんだ。マッチ、マッチと」
大尉は、急に動こうとして、誰かにぶつかった。
「わわっ」
ロングホーンの声だった。
「すいません。エドワードさん、ろうそく一本じゃどうしようもないでしょう。今、電気系統を調べてきますから」
エドはコートのポケットをごそごそ探しているようだった。
「こう暗くちゃ動けないだろ?今火をつけるよ」
大尉はあせった。心拍数が跳ね上がるのが自分でもわかる。
「待った。とにかく」
エドの声が、無常にさえぎった。
「あった、これだ」
紙箱の中でマッチのふれあう音。エドの指がマッチ棒を探り当て、側面にあてる音までも大尉は聞いていた。
「だめだ、やめて」
 シュ、と音がした。
 大尉は飛び出した。
 手が金属の冷たい感触に触れる。
 アルの鎧。
 そのすぐそばの、きゃしゃな体。
 大尉の手は、エドの手首を強くつかんだ。
 そのとき、火がともった。マッチの小さな炎の中に、エドの顔が浮かび上がった。
 大尉は呆然と、エドの顔を見ていた。
「だいじょうぶだよ」
とエドは言った。
「落ち着け。においをかいでみろ。アルコールなんか、臭わないだろ?」
心臓がまだ、激しく動いている。背筋にいやな汗が伝わって流れ落ちた。たしかに、大気の中に、あの強い薫りはなかった。
「最初にあのパイプ網がエタノールの霧を噴出したときから、ずっと分解してるんだ」
エドはじっと大尉の目を見ていた。口がからからに渇き、至近距離にある金色の瞳から、目が離せなかった。
「倉庫を調べたら、エタノールがないのがわかった。消毒用エタノールは、まんまエチルアルコール、CH3CH2OHだ。そこまでわかれば、あとはおれたち、錬金術師の領域だ。引火しないように、分解し続けてたんだ」
 大尉は、エドの手首を離した。エドはマッチを吹いて、火を消した。そのとたん、どこかでスイッチが入り、照明がもどった。
「そういうことか」
と大尉はつぶやいた。
「そういうことだ。グラン・ウブラッジの中でただ一人、マッチをすればここが爆発すると“パラケルサス”だけは思い込む。一人だけ逃げ出せば、それが犯人の証明」
アルがぽつりと言った。
「でも、逃げ出さなかったんですね。あなたは、兄さんを爆発から助けようとしてくれた。やっぱり、いい人なんだ、大尉さん」
大尉は首を振った。
「ずっと、だまし続けてきたのにですか?自分はそんなもんじゃない。ごめんなさい」
亡きローフォード大佐から“パラケルサス”と呼ばれた男、ペインター大尉は、そう言った。