ドラゴンボーイ 飛竜少年 2.チーズの好きなドラゴン

 玉座の前に料理長、執事、大臣、そしてミーティアの家庭教師が困り顔を並べているのを見て、トロデはため息をついた。
「それで?何が問題なんじゃ?」
家庭教師の婦人は、厳しい顔つきの痩せた中年の女性だった。
「その、とにかく、若い姫君のおいでになるところではないようなところへミーティア様がひんぱんにおいでになるのです」
「なぜじゃ?」
「エルトと言うあの下働きの小者のところへ行くとおっしゃって」
いらだたしげに家庭教師は言った。トロデは聞き返した。
「ミーティアは稽古をさぼって遊びに行っているのか?」
「いえいえ、姫はきちんとその日の日課を終えてからお遊びにお出かけです。"だって、ミーティアはもう、今日の分のお勉強も刺繍もピアノのおけいこも終わりました。どうしてエルトのところへいってはいけないの?"とおっしゃって。ですから私も叱るわけにもいかず、困り果てております。時間のあるときは私が、そうでないときは必ずメイドをお供につけてお出しするのですが、その」
こほん、と料理長が咳払いをした。
「厨房の隅にちんまりとお姫様がお座りになっていらっしゃるんじゃ、こちらも、そのう……。もともと厨房は料理人たちの戦場です。忙しいときはどうしても荒っぽい言葉が飛び交うこともあります。どうもその、ええ、姫様の教育によろしくないんじゃありませんか、ね、先生」
「ええ、まったく!」
刺繍入りの白いハンカチを口元にあてて家庭教師はつぶやいた。
 大臣がぼやいた。
「そこで、厨房でなければよいかと思い、エルトを別の部署へやったのです。実はあの子供はなかなか力が強うございまして、薪を割ったり倉から荷物を出し入れしたりなどという仕事ができるのではないかと思いましてな」
憤然とした口調で家庭教師が続けた。
「そうしたらミーティア様が、いさんであの小者を探しにおいでになるのですよ!城の裏方の、馬を飼っているところとか、鍛冶屋の仕事場とか、兵士たちの詰め所とか」
ふむ、とトロデはつぶやいた。
「わしにも覚えがあるが、城の裏側の探検は楽しいものなんじゃ、ミーティアくらいの年の頃にはな。それにそのとき見たり聞いたりしたことで、あとあと国を治めるうえで役に立ったことも多かったぞ」
「ですが!」
わかった、わかった、とトロデは抗議をおさえた。
「とりあえず、今のミーティアはもうちょっと姫らしい環境にいたほうがよかろう」
そのとおりで、はい、まったく、と大臣たちは口々に言った。
「というわけで、ミーティア様にそのように言っていただけませんでしょうか?」
くすくすとトロデは笑った。
「エルトを探すのをやめよ、と言う気はないぞ」
「そんな、たったいま」
「ミーティアがエルトのところに行くのがならぬというのなら、エルトが常にミーティアのそばにいればよい。エルトを、ミーティア付きの小間使いとして採用する」
ぱかっと口を開けて大臣が驚いた。
「なんという顔じゃ。わしゃ、エルトには感謝しとるんじゃ。妃が病気になって以来とんと見せなくなった笑顔をミーティアが取り戻したのは、エルトのおかげじゃからな」
「ですがあのような、素性の知れない者を姫のお傍へつけては」
トロデは笑い飛ばした。
「素性が何じゃ。エルトは、子供のくせにとんでもない怪力にめぐまれておる。そして人間離れして見えるほど無邪気で無欲で、ミーティアの言うことをなんでも信じるし、おとなしくついていく。ミーティアも楽しそうに世話を焼いておるし。あの二人はあれでいいんじゃ」
大臣たちは互いに顔を見合わせた。
「皆のもの、エルトについては良きにはからってくれ。頼んだぞ」
わははっは、とトロデーン王は陽気な笑い声をあげた。

 きらきらと光のこぼれる草原の真ん中に、少年と少女は腰を下ろした。二人で花を摘んだり、蝶を追いかけたり、いや何もしなくたってただ二人きりでいることが楽しくて、子供たちはトラペッタの門をでてからほとんど走りっぱなしだったのだ。
 はぁはぁ、と息を切らして柔らかな草の真ん中に子供たちは座り込んでいた。両手のひらを背後について空を見上げると、空は美しく太陽は微笑みかけていた。
「ねえ、エルト、さっきの」
とミーティアが言い掛けてためらった。
「え、なあに?」
無邪気に少年は問い返した。
「ごめんなさい。あのお菓子のこと」
トラペッタの菓子職人はトロデーンの小さな姫のために特別なデザートをつくってくれていた。極上のスポンジケーキ生地を広げた上にミントゼリーやシロップで煮たオレンジ、生クリームを乗せてくるりと巻いたロールケーキをつくり、それを厚めに切り、きれいな断面にチョコレートをかけたものがでてきた。
「ミーティアだけが食べてしまって。エルトにも食べさせてあげたかったのに」
"もうひとつ同じのをお願いします"、とミーティアが突然そう言ったのは、大好きな友達にも自分と同じ幸せを感じて欲しかったからだった。
「ぼくは」
エルトはそう言い掛けて口ごもった。
「ひめがおかしを食べるのを見てた。そしたらひめは、とってもうれしそうだった。だから、ん~」
ちょっと考えて彼は言った。
「ひめがうれしいから、ぼくもうれしい」
ぱっとミーティアの顔が輝いた。
「ほんとう?!」
こくんとエルトはうなずいて、それからうん、と言った。
「じゃあミーティアも、エルトがうれしいから、うれしい」
えへ、と少年は笑った。少女が寄り添った。
「エルトはずいぶん、お話が上手になりました」
こくん、とエルトはまた、うなずいた。
「まだ怖い夢を見るの?」
エルトはちょっと表情を曇らせた。
「ときどき。空の上から落ちてく……」
ミーティアはかわいい腕を少年の肩にまわした。
「大丈夫よ、エルト。ミーティアがいるでしょう?」
エルトはこくんとうなずいた。
「ミーティアとエルトは、仲良しよね?」
「うん。ほら」
エルトは指で襟元を探った。小間使いの地味なチュニックの襟の下に鮮やかな赤い布が現れた。
「仲良しのしるし」
わあ、とミーティアはつぶやいた。
「ミーティアも、持っています。エルトと仲良しの印を取り替えっこしたのだもの。その赤い布は、昔ミーティアが着ていた一番お気に入りのスカートでした。もう小さくなってしまったのだけど、捨てないでとお願いしたらお母様が大きなハンカチにしてくださったの」
 子供たちのいるところはトラペッタ郊外の草地だった。その草むらの中へ、薄い茶色のネズミが走って飛び出してきた。
「トーポ?」
あの日、ミーティアをエルトのところへつれてきたネズミのトーポは、結局エルトから離れなかった。最初はメイドたちが怖がって騒いだのだが、今ではエルトのペットとして、トーポがエルトのそばにいるのはあたりまえだと城内では思われていた。
「どうしたの?」
トーポのようすがおかしかった。その場でぐるぐる周り、後足で立ち上がり、必死のようすで前足を振り回していた。
「何か教えようとしているのね。なあに?」
子供たちはトーポの上にかがみ込んだ。二つのちいさな影が並んで地面に落ちた。その上からもっと大きな影がおおいかぶさって、あたりは一気に暗くなった。と同時に、生臭いにおいとガチガチという音がした。
「わあっ」
いつのまにか子供たちの真後ろに、モンスターの巨体が迫っていたのだった。
「逃げましょう!」
ミーティアは敏捷にエルトの手首をつかんで駆けだした。
 地響きをたててモンスターがおそってきた。鱗で覆われた巨体は後足で立ち、前足には鋭い刃の斧を抱えている。バトルレックスだった。
「もっと走って!」
ミーティアが叱咤した。だが足の速さではエルトは少女に及ばない。背後から竜の吼える声が追ってきた。その声にミーティアは後ろを振り向き、次の瞬間目の前の小石に足を取られて転倒した。
「ひめ!」
エルトがたたらを踏んで立ち止まり、駆け戻った。
「何してるの、逃げてーっ」
ぐぁっぐぁっと吼えてモンスターが斧を振り下ろした。
 ぺちゃ、という音がした。
 斧が停まった。
「ほーれほれ」
誰かがそそのかすようにそう言った。
「こっちじゃ、こっちじゃ」
獰猛なバトルレックスがきょろきょろしていた。その顔面すれすれに、何かが飛んできた。
バトルレックスはあきらかにそちらへ気を取られていた。
 そのすきにエルトはミーティアを助け起こし、手を引いてモンスターから離れた。バトルレックスは完全に二人の子供たちのことを忘れているようだった。斧さえ面倒くさそうに抱えて投げつけられた物を探しにいってしまった。
「いったい、何だったんだろ……」
ぼうぜんとエルトがつぶやいた。
 はははっと誰かが笑った。
「よく熟成した乾酪の香りはきくのぉ。竜は乾酪を好むものじゃ」
エルトたちは驚いて見上げた。風変わりな鎧を身につけた大男が、草地に立っていた。

 薄く削った木の皮を丸め円形の底をつけた浅い丸い容器に、白い薄布が敷き詰められている。その中に奇妙な物が詰まっていた。
「チーズ?」
おそるおそるエルトは言った。
「乾酪じゃが、うむ。ここらの衆の言い方ならチーズということになるじゃろうな」
チーズは表面が真っ白で、切り口が黄色みがかったアイボリー色だった。見るからにねっとりとしておいしそうなチーズで、強い匂いがした。
「ドラゴンは、これ、好き?」
そうエルトが聞くと、大男は目尻を下げて不思議な笑い方をした。
「わしの知っとる竜はみなチーズ好きじゃ」
 トラペッタ郊外の大きな樹の下に彼らは座っていた。ミーティア、エルト、そして風変わりな髭の大男だった。エルトの膝の上に、いつのまにか逃げおおせていたトーポが上がり込んでキュウと鳴いた。大男はにやっと笑い、チーズをひとかけちぎり取ると、トーポに与えた。
「助けてくださってありがとうございます」
まじめな顔でミーティアはそう言った。
「父に知らせたらきっと感謝するだろうと思います。お名前をうかがってもいいですか?」
大男は手を振った。
「名乗るほどの者じゃねえ。わしは訳あって遠い故郷を出てきた旅の者じゃ。このあたりで牛でも飼って暮らそうかと思っとるがな」
「うし?なんで?」
エルトは不思議そうに尋ねた。
「乳を搾ったら、酪が作れるからの」
 突然現れた旅人は、エルトたちからすれば見上げるほど背が高く、変わった形の鎧兜を装備し、背中に大きな刀を背負っていた。旅人が兜を取ると毛がまったく生えていないのがわかった。だが鼻の下にも顎にも立派な髭を蓄えていた。
「あなたは戦士のようにお見受けします。でもチーズも作るのですか?」
ふぉふぉ、と髭の下で旅人は笑った。
「しっかりした嬢ちゃんじゃな。わしの故郷じゃよくチーズを作るんじゃ。故郷(くに)のもんはみな、チーズを作るのが好きなら、食べるのも好きだ。できたてのやわらかいチーズをりんごの甘煮に混ぜて塩味のクラッカーにのせてごらん。美味いぞ」
 草原にどっかりと座り込んだ禿頭に髭の旅人を、エルトはまじまじと眺めた。旅人の鎧は、トロデーン城の兵士たちとかなり違って見えた。トロデーン城では、兵士はチェーンメイル、ブロンズキャップ、剣と長柄の槍が標準兵装だった。
 だが旅人が身につけているのは胴丸と、腰から下を覆う金属片の草摺でできた鎧だった。兜は小さいながら角を取り付けたデザインである。武器は優美な反りを打った長大な刀で、刃は片側にしかついていなかった。
 明らかに戦士のいでたちだが、旅人は柔和に笑った。太いげじげじ眉がちょっと下がって"人の良い頑固おやじ"といった表情になった。旅人は肩紐をはずして荷物袋の口を広げた。
「どれ、乾酪料理を試してみるか?」
 彼が取り出したのは、植物の大きな葉で包んだものだった。最初の包みを広げると、真っ白なパンのようなものが出てきた。
「これは饅頭(マントウ)じゃ。南瓜の身をよく蒸して裏ごししたものがまだ熱いうちに、細かく刻んだ乾酪を混ぜて具にしてある」
饅頭を手にとって旅人は二つに割ってみせた。明るい黄色に白い星が散ったような断面が美しかった。ほれ、と旅人は二人の子供に半分ずつ手渡した。両手に持って上品に一口食べて、ミーティアが顔を上げて言った。
「あ、おいしい」
旅人はうれしそうに笑った。
「南瓜の実は甘いからの。それに醍醐(バターオイル)を混ぜ込んでおるから風味がよかろう。どれ、次はこいつじゃ」
次に取り出したのは、先ほどより小さめの葉包みだった。ミーティアが受け取って葉を開こうとしたが、中身にぎっちりくっついてなかなかはがれなかった。
「ひめ、かして?」
エルトは葉の包みをとって、先端に飛び出していた葉の端をつまみ、器用にはがした。出てきたのは、不思議なものだった。
「粽(ちまき)じゃよ。米に焼き豚の角切りと青紫蘇と乾酪を炊き込んで握り、笹の葉でつつんである」
エルトは粽にぱくりと噛みついた。もぐもぐと食べて、つぶやいた。
「これ、食べたことある」
「ほんと?どこで?」
「どこだっけ。忘れちゃった……」
ミーティアは優しいまなざしを向けた。
「覚えてないのはしかたないです。あんな熱を出したんだもの」
「……うん」
旅人は何も言わずに二人のやりとりを聞いていたが、袋を探って竹筒を取り出した。
「だいぶぬるいが、茶が入っている。粽のあとには、うまいぞ」
子供たちは竹筒から飲み物をもらい、おもいがけないおやつをしめくくった。
「おなかがいっぱいになったら、眠くなりました」
あくびでさえ上品で、かわいらしい。ミーティアがそういうと、隣でエルトも目をこすった。
「まだ日も高いし、昼寝もよかろう。モンスターが来たらおこしてやる」
柔らかい草地の上で二人の子供たちはならんで横たわり、互いの息がかかりそうなほど顔を寄せてすやすやと眠り込んだ。