ルプガナの嵐 1.大嵐

 猛々しい潮流は、まるで船を噛み砕くようだった。大音響を上げ、海原は荒れに荒れている。夜半の時化だった。
「船長、舵が……っ」
悲鳴の残り半分は激しい風にさらわれてしまう。船長はあわてて大声をあげた。
「あとちょっとでいい、もたせてくれ!」
もうマストはすべてたたんでいる。それでも風にあおられて、帆船は大きくゆらいだ。
 波は際限なくこの船に向かって押し寄せる。“疾風のように早く走れ”という意味をこめて『星降る腕輪』号と名づけられた船だが、巨人の手が激しくかきまわすような大波に翻弄されるばかりだった。
 どぉん、と音を立てて船が波の底へたたきつけられた。
「来るぞ!」
誰かがさけんだ。一度引いた海水が壁のような波となって襲い掛かってくる。空の頂点から大海の半量ほどの水がどっと覆いかぶさってきた。
 突風の打ちつける音、波が木材を砕くときの悲鳴、何よりも勢いよくたたきつけられた水音。水夫たちは顔を振って、恐怖の涙ともしぶきともつかない水滴を飛ばした。
 次の大波が船を再び高々とゆすりあげた。ものすごい距離を落下させられることになる。
「みんな、つかまれーっ」
すさまじい阿鼻叫喚の中、あちらこちらで精霊の名を呼び、女神ルビスを恃む声が沸きあがった。
「くそっ、ここまでか」
船長は天を仰いだ。豪雨、嵐雲と稲妻のほか、夜空に光はまったくない。星さえも見放した哀れな帆船が、孤独なまま嵐にこづきまわされているだけだった。
「あともうちょっとでルプガナだってのに!」
もしや灯台の灯りは見えないか。船長は、今夜でもう何度めかに、目を凝らし、水平線を見つめた。
 そのときだった。
「船長、何か光っていますっ」
水夫の一人が、甲板から前方を指差している。船長は強風に逆らいながら、甲板の手すりを伝って近寄った。
「灯台か?」
「いえ、海の中からです」
「なんだと?」
波間は暗く地獄の底まで続いているようだった。が、水夫の指差すところだけ、海面が明るく輝いている。純白の、とは言いがたいが、赤みを帯びているわけでもない。強いて言えば金色がかっていて、それはまるで、海の底で巨大なかがり火を焚いているかのようだった。
 他の水夫たちも摩訶不思議な灯りに気付いた。たたきつける暴風をおして、その輝きに目を見開いている。
 船がまた、大きく揺らいだ。波は激しく上下し、足元は一瞬たりとも安定していない。だが、その不思議な光明はまたたきもせず、赫々と輝き続けていた。
「船が、通過します!」
強い風が船の針路をねじまげた。背後から襲ってきた壮大な波の頂点に乗り、船は黄金の光明にぐっと近づいた。輝きの直径はかなり大きい。船は、何の偶然かまっすぐその灯りの上に乗り上げた。船長は身を乗り出すようにした。
凄まじい暴風に周りの声がかき消される。それでも船長は水夫のほとんどが心からその輝きに惹かれているのを感じ取った。
 ぎいぃぃぃ、と音を立てて船の木材がきしむ。永遠の一瞬の間、船長は真上からその明かりを見つめていた。

 あたりはにぎやかな人ごみだった。ルプガナの港から続く下町である。船を借りに行って見事に断られ、とにかく今夜の宿を探そうということになって歩き始めたのだが、ロイアル、サーリュージュ、アマランスの三人は、人の流れにのってこのあたりまで来てしまった。
 港の周辺は、それでもせっせと働く漁師や魚屋などがたくさんいたのだが、このあたりはどう見ても違う種類の街だった。
 日はすでに落ちているのに、行き交う人が多く、かえって活気がある。何を商っているのかわからないが、入り口でにぎやかに客を呼び込んでいる店が通りの両側に並んでいた。
「おっ、かわいいなあ!」
雑踏に混じって歩いていくと、十歩に一度は口笛を吹かれ、三十歩に一度は声をかけられる。
「そこのねえちゃん!オレと一杯やらねえか?」
アムことアマランスは、憤りをこめてその酔っ払いをにらみつけた。
「おお、怖ぇ。いいじゃねえかよ、なあ!」
アムの服の袖をつかもうとする。びしっとアムはふりはらった。
「やめなさい、無礼なっ」
げらげらと笑い声をあげて酔っ払いは立ち去っていった。
「なんなの、この街は!」
あ~、とつぶやいて、ローレシアのロイは指先で鼻の頭をかいた。
「有名なんだがな。知らないか?ルプガナがどんなとこか」
アムはむっとした。
「名前だけなら、もちろん知っているわ。昔からある大きな都市よ。なのに、なんなの、この品の無さは!」
さきほどの男の傍若無人振りを思い出すと、怒りのあまりからだが震えてくる。
 サマルトリアのサリューがためらいながら話しかけた。
「あのね。昔ラダトームからこの町に、いろんな人が移住したんだって」
「だから、何!」
「ラダトームの歓楽街もね、半分くらいは引っ越してきたって」
アムはうろたえてまわりを見回した。そんなところを歩いていたとは!
道の両側にある下品な店や、その前にたむろしているけばけばしい女たち。気がつけば、そこはまさに悪所だった。
「ムーンブルグの未婚の王女は、精霊ルビスの高尼僧よ!こんなところ、けがらわしいっ」
杖を握ったまま両腕を体に回して、アムは自分を抱きしめた。通りすがる男たちの視線がねっとりとからみつき、白い衣が穢れていくような気がする。
「まあまあ。安い宿屋さんはどこですかって聞いたら、こっちだって教えてもらったんだ」
「こんな場所の宿なんて、絶対いや」
ロイが肩をすくめた。
「そういうなよ。どんな都市だって、こういう場所のひとつやふたつ、あるもんだ」
「悪徳をあたり前のように言わないで!」
アムの剣幕にロイはひるんだ。アムはさっさと一人で歩き出した。野宿でもかまわない。この退廃の町から出て行きたかった。
「待てよ、おい!」
アムは振り返らなかった。
 前の方から、道をふさぐようにして横並びに若い男が四、五人やってくる。さきほどの男のように酔いがまわってはいないらしいが、辺りを見下すような目で見回し、何かケンカをふっかける原因を探しているような顔つきだった。
「どいて!」
語気も荒くそう言って、アムは通り抜けようとした。
「待て待て」
大柄な男が立ちふさがった。
「威勢のいい子じゃないかよ」
一人が手を伸ばしてくる。アムは振り払った。
「ちっ、しつけのなってねえ子犬が」
かっと頭に血が上ったのはそのときだった。手にした杖で、アムはいきなり男の手をしたたかに殴った。
「おだまりっ」
「このメス……」
野太い声で言いかけた男は、声を呑み込んだ。細い剣の刃が喉につきつけられていた。
「はい、そこまで。それ禁句なんです」
細身の剣をぴたりとつけてサリューが言った。
「こいつ、おれたちの連れなんだ。悪いけどほっといてくれないか」
一方、ロイが眼前にかざしているのは、両刃の大剣である。ごろつきどもの顔色が変わった。
「ただでさえこいつ機嫌が悪いんだ。船の予定がだめになって」
最初の男があとじさった。
「そうそう。それから、通りでは横並びはやめましょう」
周りからくすくす笑いの声があがった。若い男たちはやつあたりに小声で怒鳴りながら、路地に曲がって逃げて行った。
「もう一人で行くなよ」
剣を鞘におさめながら、ロイがぼそっと言った。
「迷子になったら、困るよ?」
サリューも言う。アムは、杖を握り締めた。
「かばってなんて、誰が言った?」
「アムったら」
「どうして戦闘でも何でも、あたしのことをお荷物扱いするのっ」
「そんなんじゃないよ」
自分の怒りが、まったく子供っぽいやつあたりだということぐらい、アムにもわかっている。だが、いらだちはおさまらなかった。
「ここにはいたくないわ!」
また、歩き出した。従兄弟たちが、盛大なためいきをついて後からついてくるのがわかった。

 はあぁぁぁ、とロイはためいきをついた。歓楽街は、突然終わっていた。華やかな通りは小さな出入り口のある石壁になっていたのだった。アムはさっさとアーチ型の出入り口をくぐって夜目にも明るい華やかな街から遠ざかっていく。
「向こうはずいぶん暗いね。あっちには、お宿があるのかなあ」
隣でサマがつぶやいた。