ルプガナの嵐 10.亡霊昇天

「『お友だちと仲良くできる魔法なんか、ないのよ』母はそう言ったわ」
ニコルはかっとした表情になった。だが口を開く前にアムが話し続けた。
「母は、あたしの知る限り最高の魔女だった。あたしが友だちを……うっかり傷つけてしまったとき、母のアドバイスは厳しかったわ。そんな魔法はないの、って」
ニコルの表情はわずかづつ変わっていった。その場にベルモントやミゼットたちがいないかのように、じっとアムを見つめている。
「だめよ、同情なんてものに頼っちゃ。謝ること。心からね。そうしないといつまでも、そのときのことに捕まったままになるわ。わかってるでしょ、自分でも」
ニコルは黙っていた。
「捕まっちゃってるの、あたし?」
ぽつりと言った。
「そうよ。がんじがらめになって、身動き取れない。目も耳もふさがれてる。だから、見えてないでしょ、回りにいる人たちのこと」
ニコルは茫然と周りを見回した。心配そうな顔の両親や兄姉。そして、ルプガナの少女たち。
「あたしたち、アムに頼まれてきたのよ」
照れくさそうにミゼットが言った。
「今日はニコルが大変な日だから、なんとか都合をつけて来てほしいって。あんたのために、ほんとに拝み倒されてきたわ」
「あたしたちね、アムからいろいろ聞かせてもらったの。えと、今ニコルがどんな気持ちでいるかってことをね。聞きたくないって言っても、このお姉さま、すごく熱心だった」
ポーラは手に持っていた物を差し出した。
「ほら、レモン水。うちのお店で出してるやつだから、美味しいよ」
ニコルは不思議な物を見るような顔で陶器のマグカップを受け取った。じっとカップの中の水面を見つめている。
 エイメがささやいた。
「今年のお祭りは終わっちゃったけど、来年も夏の祭はくるからね。そのときはまた、いっしょに行こうよ。広場にすわって、ポーラの店のレモン水をいっしょに飲もう?」
それから、小さな声で付け加えた。
「それで、あいこってことに、してくれない?」
ニコルはカップの縁に唇をつけ、ひとくち飲んだ。そしてしばらく黙っていた。
「お父さん、あたし」 
とニコルは言った。
「がんばるから」
「ニコル!」
ニコルは両親の腕の中から、一歩進み出た。
「おおばかもんの娘だったけど、ここで退いたら、とりかえしのつかないおばかになっちゃう」
下を向いてばかりいたニコルが、まっすぐ前を見ている。別人のようだった。
「ベルモントの孫娘が、やっぱそれじゃ、いけないでしょう」
「ニコル、すまん」
商人組合の長は、大事な孫娘の肩に手を置いた。
「大丈夫よ、おじいちゃん。心配しないで、お母さんも」
周りの人々の顔を一人ひとり見上げて、ニコルは言った。
「レモン水、ありがと、ポーラ。あたし、いっちょがんばってくるから」
「ニコルぅ、がんばれ!」
マグカップを受け取って、ルプガナの少女たちは真剣に言った。
「見て、あの緑の男の子かわいいじゃない。ここはひきさがれないぞ、ニコルっ」
「青いほうの彼も、かっこいいもんね。さあ、いいとこ見せろ?」
ニコルは笑った。
「うん、まかせて!」
ニコルは、美人に見えた。

 サリューは貴婦人をエスコートするようなしぐさでニコルの手を引いて、涸れ井戸の前に連れてきた。
「じゃあ、ここに立ってね。みなさんは、離れてください。ロイ、頼むね」
人々が散ったあとに、ロイが一人だけ、ニコルのそばに立った。
「君が一番、闇の影響を受けにくい。これからぼくが亡霊を昇天させるからね。今までは彼女の霊がある意味でニコルを闇から護っていたんだ」
「その守りがなくなるんだな?」
「うん。そうなったとき、ロイはまず、ニコルを守って」
「おう」
ロイは大きな剣を抜き放った。
「じゃ、行くよ。アム、お願い」
アムは杖をさしのべた。
「眠って、ニコル?彼女と代わってちょうだい……ラリホー!」
ニコルの体が一瞬ぐらついた。アムは、思わず身震いした。あの亡霊が、ニコルのすぐ後ろに立っていた。
「あなた、だましたわね?」
ニコルの唇を借りて、亡霊が話し始めた。ニコルの顔つきそのものが変わっていく。ニコルの母があわてて取りすがろうとしたのを、サリューは待って、という仕草でとめた。
「だましたわけじゃないよ。君の探し物、見つけてきたよ」
亡霊が目の色を変えた。
「持ってるの?あなた、あれを持ってるの?あたしがあの人からもらった、大事な」
「そうだよ、オリビア」
とサリューは言った。
 ふところからするすると、サリューは金の鎖を引き出した。細い鎖の先には金細工のハートが下がっている。ハートの中央には、薔薇色の上品なカメオが取り付けられ、その中央に若い女の横顔が彫りこまれていた。
「エリックが君に送った愛の証だ」
アムは息をつめてそのアイテムを見つめた。
 恋人のエリックの乗った船が海で遭難し、幽霊船となったとも知らず、オリビアは海に身を投げた、と伝説にはうたわれている。悲しみのあまりオリビアの霊は荒れ狂い、船が海峡を通り抜けようとすると嵐を起こして押し戻す、と。
 オリビアの亡霊は、ニコルの体を操ってよろりとサリューに近づいた。
「これ、これだわ!」
ニコルの指がサリューの手のひらから愛の証を取り上げた。鎖がしゃらんと鳴った。オリビアは、ほほに金のハートをそっと押し付けた。
「ああ、エリック、帰ってきたのね!」
「どうしてそれがギアガの大穴を通り抜けてこっちに落ちてきたのかはぼくにもわからないんだけど、もう手放しちゃだめだよ?」
オリビアはうれしそうに笑った。そんな幸せそうな顔をすると、彼女はカメオの横顔によく似て見えた。
「きっともう、離さない。絶対!」
ニコルの目から、透き通った涙があふれ出て、ほほの上に筋をひいた。背後のオリビアの姿が、銀の粒子をまぶしたようにぼやけ、ついに完全に大気に溶けてしまった。ふらりとニコルがよろけた。その体を、ロイが受け止めた。
 戦慄が走った。
「来るわ!」
アムは叫んだ。
「みんな下がって!」
すでに凄まじい冷気があたりに立ち込めている。空気が重く、指一本動かすのもつらいほどだった。
「ロイ、後ろ!」
涸れ井戸の周囲に、冷気が渦を巻いている。冷たさのあまり輝くような冷気の流れが極みに達し、それは薄く青い光沢を帯びた。
「旅の扉だわ」
サリューが呼んだ。
「まだ間に合う、ロイ、彼女をこっちへ!」
ロイはニコルの体を抱えて走り出した。ニコルの家族は半狂乱になっている。 ニコルの父親と兄があわてて差し出す腕の中に、ロイは少女をおしつけた。
「しっかり守れ!」
自分はきびすを返して戦列へ戻ってきた。
「出てくるわ」
 遥かなるロンダルキアから吹き付けてくるブリザードが、ルプガナのおんぼろ小路を霜でおおっていく。
 武器を構える三人の吐く息がたちまち白くなった。悪臭漂う沼地だった地面が、白く凍結した。長屋の屋根からつららがおりてきた。涸れ井戸の前に出現した旅の扉から、何かが生まれつつあった。
 最初それは、牛のように見えた。角のある頭部である。皮膚は紫色で、醜いイボだらけだった。やがて皮革質の翼がその背後に見えてきた。
 ふしゅるる、とそれは鼻息をたてた。青い水面のように見える旅の扉いっぱいに、それの肩は広がっている。なんとも巨大な体格だった。
「アークデーモン……!」
 アムがそうつぶやくのをロイは聞いた。大悪魔ベリアルを頂点とするデーモン族の上位モンスターである。紫の体と対照をなす緑の腹部が視界一杯に立ち上がる。小さな耳と黒い鼻面がぴくんと動き、アークデーモンはゆっくりと目を見開いた。非人間的な精神をかいま見せる、メタリックゴールドの目だった。