バード・オブ・パラダイス 9.かくて夏は過ぎ行く

 固唾をのんで見守っていた観客が一斉に騒ぎ出した。
「坊ちゃま!坊ちゃまがっ!」
いつもつつましやかな執事、セザールが泣き笑いで狂喜乱舞していた。騎士や門下生の声援、ソルティコ市民の歓声などがあまりに大きくて、その声さえ聞こえにくかった。
 ゴリアテは剣を引いた。グレイグも立ち上がった。
「どうして鞭でとどめをささなかった?」
短剣を手渡しながらそう言った。ゴリアテが首を振った。
「相手がきみだもの。にわか仕込みの鞭じゃ、とどめまでいかないと思った」
そう言って両手剣を差し出した。
「やっぱり重いよ、これ」
 治療師を引き連れてジエーゴがやってきた。
「二人とも、手当しとけ」
ぼそっとジエーゴは言った。
「言っておくが、試合としちゃどっちも剣を手放した時点で零点だぞ」
言いながら彼はにやりとした。
「けどまあ戦場なら、どんな武器でも使えるものを使って生き延びるてぇのは、アリだ。ゴリアテ」
左腕を回復魔法の光に包まれたまま、ゴリアテは父を見上げた。
「今年の創立祭において、おまえを騎士団長直属の従者に取り立てる。今からだと研修期間は半月しかねぇ。できるか?」
ゴリアテは目を細めるような表情で笑った。
「小さい頃からずっと見てきたんだよ?できなくてどうする」
彼は右手を胸にあて、姿勢を正した。
「謹んで拝命いたします、騎士団長」
ソルティコの蒼穹を衝いてさらなる歓声が沸き上がった。

 大会予選の運営係を務めるダニエルは、試合場の騒ぎを寄宿舎の中で聞いていた。勝ったのはゴリアテらしい。そうなるだろうと思っていたので、その結果は意外ではなかった。
 これから忙しくなるな、とダニエルは思っている。その多忙は自分を富へ導き、富はさらに自分を名誉の座へと押し上げてくれるはずだった。
 ダニエルは寄宿舎の中の一室の鍵を開けた。鍵は舎監室から持ち出したマスターキーだった。室内を探すと、目当ての品はようやく見つかった。門下生予選の決勝前に選手に差し入れられる贈り物のひとつだった。小ぶりの籠にチーズを詰め、上品な刺繍入りの布巾を上からかけてある。
 ダニエルはもういちど布巾をかけ、籠を小脇に抱えてその部屋を出て、扉を閉めた。
「何やってんの?」
いきなり問われてダニエルはぎくりとした。問いかけてきたのは、まだ甲高い子供の声だった。
「何って、なんのことかな?」
視線を下げると、二三人の男の子が寄宿舎の廊下に集まって、興味津々とこちらを眺めていた。
「きみたちは門下生じゃないね?」
最年長でも八歳くらいだろう。どの子もソルティコの下町でよく見かける簡単なチュニックを着てベルトを締めていた。
「どうやって入ったんだ?今日は試合の日だけど、ここまで入ってきちゃだめだよ」
先頭の子は茶髪で緑の眼をしたわんぱくそうな男児だったが、にっと笑ってみせた。
「セザールさ~ん、みんな~、こっちだよ~」
こっち、こっち~と他の子供たちも声を上げて人を呼び始めた。
「きみたち、やめなさい!」
ぱっと子供たちは身をひるがえして走りだした。
 ダニエルはあわてて追いかけた。何を考えているのか知らないが、このガキどもが今のことを誰かに告げたらどうしよう。自分、騎士のダニエルが門下生のグレイグの私室から何か持ちだしたと人に告げたら、そして何を持ちだしたかを問われたら、さきほど夢想した富も名誉もすべて失われてしまう。
「どうした、ダニエル」
角を曲がったところにアルノーとヴィートがいた。町の子たちはその足もとを走り去った。
「いや、あの子たちが勝手に入りこんで」
「入ったって、どこへ?」
ダニエルは、どう説明しようかと迷った。いっそ、アルノーとヴィートだけなら、買収でこちら側へ寄せられはしないか?
「お呼びになりましたかな?」
後ろから近づいてくる声はセザールのものだった。ダニエルは心中、舌打ちをした。セザールの口はとうていふさげない。
「おや、ダニエルじゃないか」
アルノーの後ろの方からボネ師範代がやってきた。その向こうにグレイグの長身が見えた。
「この小父さんがね、グレイグさんの部屋から何か持って出てきたよ」
茶髪の小僧が大声でそう言った。ダニエルは青くなった。心の中で必死に言い訳を綴りあげていた。
 目の前に影がさした。グレイグだった。
「なんだか知らないが、返してもらえますか、先輩」
気が付くとダニエルは、広くはない寄宿舎の廊下で何人もの騎士たちに取り囲まれていた。
「通るぞ」
聞きなれた声がした。ボネたちがうやうやしく道を開けた。ジエーゴとゴリアテが姿を現した。
 ダニエルは、ゴリアテが幼い頃から知っていた。富も名誉も生まれながらに与えられた子どもだった。成長に連れて豊かな才能と、人を惹きつける魅力も備わっていった。
 まだこの子が十かそこらのころから、ダニエルはずっと心を惹かれ、物陰から彼を見てきた。だが、ゴリアテはダニエルをまったく覚えていないようだった。一昨年ゴリアテは、サマディーのイズミルたちといっしょにダニエルまでまとめてたたきのめしたというのに。
 青ざめるような後悔を真っ赤な憎悪が乗っ取った。
「ゴリアテに言われてやりました!」
とダニエルは叫んだ。
「決勝前にグレイグに毒入りチーズを食べさせろと言われました!」
手にした籠を逆さにして、廊下へチーズをぶちまけた。
「そのあとに、証拠を残さないように、盗みだせ、と」
 人々の視線がゴリアテに集中した。ゴリアテはさげすむような目でダニエルを見ているだけだった。
「俺のおかげで勝てたんだぞ、何とか言え!」
「違うな」
と言ったのはグレイグだった。
「チーズを食べていないからな、俺は」
ぽかんとしてダニエルは、グレイグの顔を見た。
「だって、さっきは」
「腹具合が悪いように装ってくれと頼まれたんだ、ゴリアテから」
「バカな、いつ」
「おとといの夜だ。それから試合が終わるまで、ゴリアテと同じ食事をして差し入れにはいっさい手を付けるなと言われた。おかげで領主館の美味い飯とセザールさんのデザートを堪能したよ」
 セザールは慎ましやかに微笑んだ。軽く会釈した時、眼鏡のレンズがきらめいた。
「私も坊ちゃまの御命令で、あれから今までグレイグさんのお部屋をずっと見張らせていただきました。うちのメイドたち、アルノーさんたち、ラニくんたちも動員してね」
セザールはジエーゴ父子の執事として忠義一筋で有名だった。だが若い頃は相当に荒れていたという。今でもソルティコの港や下町の荒くれどもを一声ですべて動員できるという噂もあった。
 ダニエルは自分が罠にかかったのを知った。
「ぼくに手紙をよこしたのはダニエルだね」
初めてゴリアテが口を開いた。
「カイルに頼まれたのか?」
――叙任ビジネスにゴリアテを引きこむことができたら、たっぷり弾むよ。
お互いにゴリアテには含むところがあったのだ。ダニエルはカイルに協力すると言ったことを心底後悔した。
「ダニエル」
と言ったのは、ジエーゴだった。ダニエルはおそるおそる顔を上げた。怒れる剣神が正面から自分を見下ろしていた。
「知っていたはずだぞ。この件に関しちゃ、俺が直々にシメるつもりだってな。顔かしてもらおうか。サシで話そうぜ?」
口調は静かで声は低い。だが、その底に流れる怒りは明白だった。ダニエルの膝が震えだした。

 グレイグにとってソルティコ最後の創立記念祭が終わった。いろいろな意味で忘れがたい記念祭だった。
 ゴリアテは短期間で従者の仕事を覚え、今年の馬揃えでは、ついに念願のジエーゴの従者役を務めた。
 絹の上着とタイツ、ひざ丈ブーツという従者のお仕着せ姿で駿馬の手綱を取り、胸を張ってジエーゴのところへ馬を引いて行くと、祭りの観衆から喝采を浴びた。もともと華やかな容姿に長身と洗練された身のこなしがあいまって、ゴリアテはとても凛々しかった。
 翌二日目の競馬式では、グレイグ、ゴリアテともそれぞれ別のレースで一着になり、二人に賭けていたアルノーら元同級生たちからおおいに感謝された。
 記念祭三日目の剣術大会では二人ともに本戦に参加し、正規の騎士たちからいくつも勝ち星を上げた。カルロス師範代とボネ師範代が準決勝で二人の門下生を阻止したが、それぞれ白熱した試合になった。
「今年は凄いのが来たな」
と古参の騎士たちが噂するほどだった。
「だって、ジエーゴさまの坊ちゃんとデルカダール王の秘蔵っ子だろう」
「この次の大会じゃ、師範代も勝てるかどうかね」
「優勝候補だな」
 たぶん来年か再来年あたり、ゴリアテは優勝を狙えるだろう。そのころには十六か十七になっているはず。そしてそのままいけば、十八歳できっと叙任を受け、晴れて騎士となっているだろう。ジエーゴの従者を務めたということは、ジエーゴから叙任を受ける資格を得たということなのだから。
 騎士の叙任式をグレイグはソルティコで何度か見る機会があった。形式はどれも共通している。叙任を受ける従者が主人の騎士の前に跪き、騎士の誓いを立てるのだ。
 ゴリアテの叙任は、彼の成人式兼領主後継の披露目を兼ねている。たぶんソルティコ大聖堂に名士たちを集め、豪華に執り行うのだろうとグレイグは思った。ジエーゴはおそらく先祖伝来の鎧に身を固め、剣を抜いてその刀身で膝をついたゴリアテの肩に触れ、宣言することだろう。“これをもって、ジエーゴの子、ゴリアテを騎士として認める”と。
「デルカダールで騎士になったお前に会えるかな」
グレイグは酒杯片手にそう言った。
「たぶんね。グレイグは王国一の騎士を目指すんだろう?ぼくが行くころには出世しててくれよ」
ゴリアテが自分の酒杯を軽く打ち付けてきた。そこは、ソルティコビーチにある海岸の居酒屋のテラスだった。
 夜風が吹き通り、ソルティコ湾の暗い沖には灯台の灯りが見えている。打ち寄せる波の音が絶え間なく聞こえていた。
「……」
グレイグは、数日前にデルカダール王国から、王の署名入りの帰国命令を受け取っていた。幼なじみのホメロスはクレイモランでの修行を終え、指導教授の懇願を振り切って、首席卒業生の名誉と学位を手に、すでにデルカダールへ戻っていると聞いた。
「ああ、頑張るさ。まず叙任されないとな」
「大丈夫だよ、グレイグなら」
今夜は一種の送別会だった。居酒屋にはアルノーやヴィート、ニコラ、ゴンゾといった元同級生たちも来ていたが、居酒屋のすぐ外のビーチで評判の踊り子が踊るというので見に行ってしまった。
 二人きりで酒を飲む機会はこれが最初で最後かもしれない。そうは思うのだが、別れが待っていると思うと会話は弾まなかった。
「そういや、ダニエルはあれからどうなったんだ?」
とグレイグは言った。
「パパの話じゃ、あっさり口を割ったらしいよ」
「だろうなあ」
ジエーゴの威圧感を知っている二人は、くすくす笑った。
「残念だけど、騎士団の中にはダニエルのほかにも何人かパストルの息のかかった者がいたみたいだ。パストルもカイルも『ダニエルなんて知らない』って言い張ったみたいだけど、パパはきっちり釘をさして、あの親子は当分の間出入り禁止だって」
「永久じゃないのか」
「いつか言っただろう、親戚すじなんだ。でも、パストル小父さんはソルティコでの商売がやりにくくなると思うよ」
「まあ、そうだろうな」
「ダニエルは、騎士身分剥奪だって」
「厳しいな。まあ、騎士のままにしておくと、ダニエルは叙任しほうだいだからな。あいつは俺と同じくデルカダール王国出身だ。そう言う意味では、同郷の者が申し訳ない」
ゴリアテは首を振った。
「デルカダールの王様からもそういう手紙が来たらしいよ。ダニエルは騎士をクビになって、デルカダールのどこかの修道院で苦行を積むことになったって」
「せっかく騎士になったのにな」
なんとなくしみじみした雰囲気になった。
 リゾートシーズンの終わりの頃の海岸は、波の響きさえどこか寂し気だった。日が暮れても浜辺にはまだ市民や観光客が出て遊んでいるが、もう少し寒くなるとそれもいなくなる。二人がいる海岸の居酒屋はシーズンのみの営業だった。
「ゴンゾたちのとこへ行ってみようか」
「そうだな」
ゴリアテはテーブルを立つと腰をひねり、カウンターのなかの美人バーテンダーに手を伸ばして金貨を渡した。
「ごちそうさま。お釣りはいいよ」
「あら、すいませんね、坊ちゃん。また来てくださいね」
給仕の娘たちが集まってきた。キャラキャラと笑って見送っている。
「坊ちゃま~帰っちゃうの?」
「今度一人でいらしてよ」
ゴリアテはちょっと笑って片目を閉じた。そのかっこうが、なんともさまになっていた。
「お前、よく来るのか?」
「いや?初めてだよ?」
それにしてはもてるなあ、とグレイグはちょっとうらやましくなった。
「ぼくは、彼女たちといるより、ランスたちと遊んでる方が楽しいけどな」
と白砂を踏みながらゴリアテは言った。ランスと言うのが、愛称をラニという武器屋の長男八歳だとグレイグは知っていた。
「サーカスが、来るんだって」
夜空を見上げてゴリアテはそうつぶやいた。
「サーカス?」
「来年か再来年、評判のいいサーカスがソルティコまで巡業に来るんだって、ラニの親父さんが言ってた。このあいだのダニエル事件じゃラニと町の子たちに世話になったから、お礼がわりにみんなを見物に連れてくって約束したよ」
「そうか。おもしろいといいな」
歩くにつれてぎしぎしと砂が鳴った。浜辺の前方一か所が明るくなっている。そこでたき火を焚いて、吟遊詩人がリュートを奏でていた。その弾むようなメロディにあわせて、若い踊り子が楽しそうに踊っていた。周りでは町の人たちやゴンゾら若い騎士たちが手で拍子を取り、声援を送っている。
 夜空には遠く命の大樹が浮かび、波の音に交じって楽の音が響く。傍らに友が歩み、未来のことを何も知らないまま無邪気に笑っていた。
 グレイグにとって、夏と、ソルティコと、ゴリアテと、青春は、ほとんど同じ意味の言葉だった。そのすべてが、もうまもなく過ぎ去ろうとしていた。

エピローグ

 ふふっと羽の男こと、ゴリアテは笑った。
「そうよ。おどろいた?」
どうしてひと目見たとき、気付かなかったのだろう。ゴンザレスは泣きそうになった。成長したゴリアテは、彼の母、肖像画の貴婦人によく似た面差しだった。
「ゴリアテさま……ま、まさかお帰りになる時が来るとは……。おなつかしゅうございます!」
伝説の歌姫の顔でゴリアテは微笑んだ。
「今まで屋敷を空けていてごめんね。……ねえゴンザレス、屋敷を見てまわってもいいわよね?」
「もちろんです、ゴリアテさま!どうぞごゆっくりなさってください!」
彼が向きを変えると、華やかな背追羽根がふわりと揺れた。
「ですって。行きましょうか、イレブンちゃん」
 かつてゴンザレスの知っていた銀のカナリヤは、歌すら忘れて爪を研いでいた。若いハヤブサとなったとき、ソルティコから飛び立って、ゴンザレスの手の届かないところへ行ってしまった。
「じゃ、パパに会ってくるわ?」
そう言って彼は肩ごしにふりむき、片目を閉じた。
 あれから何年たったのだろうか。世界が滅びかけたこのとき、ゴリアテは帰ってきた。もうカナリヤではない。ハヤブサでもない。
 堂々たる体躯に極彩色の羽毛と魅力をいっぱいに湛え、その魅力の見せ方を熟知した、豪華絢爛たる極楽鳥、バード・オブ・パラダイスだった。