ユグノアの子守歌 2.おてんば姫の冒険

 マルティナはきっとロウを見上げた。
「私、耐えてみせます。イレブンが生きていることを確かめるまで、どんなことでも我慢します」
ロウは目元をやわらげた。
「よしよし。では、明日から二人旅じゃな。さあ、疲れただろう。今日はもうお休み」
マルティナは毛布ごと横たわり、小さな声でつぶやいた。
「あの、ひとつお願いしてもよいですか」
「なんじゃな?」
「子守歌を歌ってください。エレノアさまの歌っていた歌を」
おお、と言ってロウは微笑んだ。
「子守歌もひさしぶりじゃのう」
こほんとつぶやいてロウはささやくように歌った。
「愛しき我が子よ~、この調べに揺れ~、心安らかに~、心地よく……はて、なんじゃったかのう?」
歌詞を忘れてしまったロウはそうつぶやいた。だが小さなマルティナは涙の跡を顔に残したまま、すでに眠りこんでいた。

 港の光景がゆっくり上下しながら遠ざかっていく。小さなマルティナは故郷を目に焼き付けようとしていた。
 ロトゼタシア内海の航路を行く船はいくつかあったが、ユグノア滅亡の影響を受けてどれも満員だった。ロウの人脈につながる船があいにくと見つからず、ロウとマルティナはなんとか船に乗れないものかとあちこちで交渉を繰り返した。
「うっ、うっ、老い先短い年寄りをいたわる心を知らんのか」
とロウが船長を泣き落としにかかると、マルティナは孫娘になりきって心配そうに見上げた。
「おじいちゃん、泣かないで?病気が治らないわ」
「おお、マルティナや~」
「おじいちゃん!」
正直言ってくさい芝居だが、運よく同情してくれる人がいて、二人は貨物室の片隅にいれてもらうことができた。
 ふん、とあとでロウは言った。
「おいぼれのフリも阿呆のフリも、なんだってしてみせよう。ユグノアの先王の誇りは腐りゃせん。生き延びたあとでいいんじゃ」
今は逃げ切ること、そして生き延びることが最優先だった。
 船が沖へ進むにつれて故郷、デルカダールの情景は涙でかすみ、遠くなっていく。船の甲板に立ち、手すりにつかまってマルティナは目をぬぐい、唇を噛んだ。
――必ず帰ってくるわ。
海上の風は冷たかった。緑のチュニックの襟をかきよせ、マルティナは歩き出した。貨物室へ戻ろう。そして、ロウさまに言うのだ。私だって子供のフリ、か弱いフリをしてみせます、王女の誇りは生き延びたあとでいいです。そして私、もっと強くなりたいのです、と。

 農場の主人はかごにいっぱい葡萄を盛ってくれた。
「売り物にならない葡萄だから食べておくれ。好きなだけ持っておいき」
ロウとの二人旅は、常に路銀を工面する戦いだった。農家の手伝いは、なかなかいい仕事になった。
「おじさん、ありがとう!」
「いいから、いいから。うちの息子たちよりよっぽどまめに働いてくれたんだから、これくらいあたりまえだって」
 マルティナは十二歳になっていた。背がかなり伸びて、できる仕事も多くなっていた。
 かっぷくのいい農婦が顔を出した。
「あんた、おじいちゃんと二人旅なんだって?えらいねえ。これはおまけだよ」
そう言って葡萄の籠の上に、丸いパンの塊をのせた。
「うわ、おいしそう!」
マルティナは礼を言ってかごを抱えて歩き出した。
 ロウは河原で一服していた。
「ロウさま、ほら、こんなに!」
「でかした!」
そういうロウは、小さな炉を築いて魚の燻製をつくっていた。
「今夜はここでキャンプじゃ」
昼は短期の仕事をして、夜は節約のためにキャンプ。そして寝る前はマルティナにとって修行の時間だった。
 幼い女の子という非力な条件で最大の攻撃力を得られるのは、腕よりもおそらく、脚。そういう判断のもと、蹴り技を中心にしたドゥルダ流儀の体術、そして薙刀や槍といったリーチで有利な武器をマルティナはロウから教えられていた。
 同時にロウは、自分の知る限りの教養をマルティナに伝授していた。
「私は体術の方が好きです」
そうマルティナは言ったが、ロウは首を振った。
「姫は将来、デルカダールを背負う御立場じゃ。文武を共に学ばねばならん」
マルティナは尋ねた。
「勉強したら、私も攻撃魔法を使えますか?」
今まで追いはぎに襲われたことは何度もあったが、そのたびにロウが撃退してきた。ロウの使うドルマの威力は圧倒的だった。
「こればっかりはな、相性なんじゃ」
とロウが言った。
「相性のいい魔法なら習得できるが、相性が悪いとどうにもならん。魔法の相性というもんは親子、兄弟でも違っておってのう」
マルティナにはぷくぅ、とほほをふくらませることしかできなかった。

 やがてマルティナの身長は急速に伸びた。上着はすぐに短くなった。胸も窮屈になってきた。
 拳法の修行には動きやすさが一番だった。十五歳のマルティナにとって、服など胸に固く巻き付けたさらし、黒のショートパンツとノースリーブのインナー、その上に羽織るくすんだ緑のポンチョだけで十分だった。
 ロウが町の中で調査をしているときは、マルティナの仕事は商家の手伝いが主だった。ロウのおかげで読み書きも計算もマルティナはできるようになっていた。
 ある店の裏手の倉庫で棚卸の手伝いをしていたとき、店の主人の母親だという痩せた小柄な老女が女中を連れてやってきた。倉庫にいた店の主人、跡取り息子、番頭、手代の衆、丁稚等々がびくっとして硬直した。
「お前さん方、表の店を留守にして、倉庫で何をやってるんだい」
息子である店の主人が眼を泳がせた。
「ちょっと、品出しを」
お黙り!と老女が言うと、その場に緊張が漂った。
「手伝いの小娘がそんなに気になるのかい?え?」
いや、その、と男たちはもじもじした。
「さっさと仕事おし!」
彼らは一斉に走り去った。
 残されたマルティナは老女の剣幕に恐れをなしていた。老女はじっとマルティナを見つめていたが、一緒に来た女中にちょっとうなずいて見せた。女中はマルティナの目の前に落ち着いた緑色の塊を置いた。
「スカートと胸当てだよ。着てごらん」
と老女が言った。
 驚いてマルティナは老女を見た。女中はうなるようにささやいた。
「あんた、自分が女だってことわかってないでしょ。店の旦那、若旦那、男衆、みんなあんたを見に来てたのよ」
そういえば、なぜか店の男たちが入れ替わり立ち代わり、どうでもいいような用でやってきたな、とマルティナは思い出した。
「見るって、私の、何を?」
女中はあきれ返った顔になった。
「ほんっとにわかってないの?でかい胸とか、きれいな脚とか」
マルティナはきょとんとした。その顔を見て、女中は深いため息をついた。
「あたしがあんたみたいな体をしてたら、どんな気持ちかしら」
およし、と老女が言った。
「若くてきれいだというのは、女にとって呪いみたいなもんさね」
マルティナは老女を見上げた。
「あんたは何一つ悪いことをしていない。けど、そのかっこうじゃ災いを招くも同然なんだよ」
「はあ」
女中はマルティナの手に服を持たせた。
「パンツとインナーはそのままでいいわ。巻きスカートはいて。ベルトで留めるの。それから胸当ては……」
 その日の夜キャンプでマルティナの新しい服を見たとき、ロウは深くうなずいた。
「大きぅなったのう」
私、とマルティナはつぶやいた。昼間老女に言われたことが、ずっと気になっていた。
「ロウさま、若いきれいな女でいることは、呪いなのでしょうか?」
ん?とロウはつぶやき、ちょっと考え、マルティナの横に座り込んだ。
「わしに言わせれば若くてきれいな女たちは世界の宝なんじゃが、たしかに人によっては呪いにも見えるじゃろうの」
ロウは、しゅんとしたマルティナに話しかける前に自分の髭をひねりあげて考え込んだ。
「姫や、イレブンを覚えておるかの?」
「忘れたことはありません!一日だって!」
「あれからずいぶん経った。どうしておるかのう、わしの孫は。手のアザを、あの子はなんと思っておるだろうか。呪いと思ってはおらぬか」
「そんなことないと思います。勇者の存在は大樹の祝福ですから」
ロウは目を細めた。
「そうじゃな、呪詛か祝福かは見る人によって異なるんじゃよ、のう?」
自分より背が高くなった養い子の頭をそっと撫でた。
「若いきれいな女でいることが呪いか祝福かは、姫が決めるんじゃ」
そしてにやっとしてつけくわえた。
「わしの知る最も強いおひとは、それは美しいおなごでな。魅力も大師さまの強さのうちじゃったよ」
「魅力も強さなのですか?」
「そうじゃとも。美しさ、かわいらしさ、魅力、愛嬌、それをすべてチカラに換えるしたたかさもな」
ふぉっふぉっとロウは笑った。
「さて、と。寝る前に修行を忘れてはいかんな。話のついでじゃ。今夜は拳でいくかの?」
幼女のころに始めた体術と帝王学の修行は今も続いていた。マルティナは丁寧に一礼した。
「お願いいたします」
跳び下がって間合いを取り、マルティナは身構えた。

 十五歳のとき老女についてきた女中から受けた嫉妬、称賛、同情を、マルティナは後からようやく理解した。そしてそのころから、若い女たちのしぐさや歩き方が気になりはじめ、よく観察するようになった。
 老女からもらった服は、すぐに小さくなってしまった。ホルターネックの胸当てと足さばきのいいラップスカートを、防御力を重視して布ではなくレザーでマルティナは作りなおした。そして新たに編み上げのブーツとリストカバー、指無しグローブを装備に加えた。
 成長したマルティナは崖の上から垂らしたロープ一本に足をからめて、頭を下にして宙づりになっていた。崖の途中に貴重な植物が生えているのが下から見えたのだ。ベルトに小さなカマの柄をはさみ、片手の上にかがやき草を乗せ、しげしげと眺めた。
「これはいい値で売れそう」
道具と戦利品を丁寧にしまいこむと、マルティナは体全体をつかってロープを前後にゆすり始めた。谷の真上に体が運ばれる。その瞬間にロープを放し、猫のように回転して眼下の荒野へ着地した。底の厚いブーツならではの芸当だった。
 素材採集は、商家農家の手伝いに比べてかなりいい金になった。十八歳のマルティナは体術を駆使してかなり危険な場所で素材を集め、町で売り払うのが日課になった。身長も体力も、十年前とは比べ物にならないほど伸びていた。
 マルティナはロウの滞在している町へ戻り、素材を売りに道具屋へ向かった。店にいたのは気難しい主人と、同じくらい難しい顔をした職人だった。
「採ったばかりのかがやき草があるのだけど、引き取ってもらえますか」
初老の道具屋はじろりと彼女を見て、無言で店のカウンターを指でたたいた。ここへ出してみろ、ということらしかった。マルティナは輝き草をいくつかそこへ並べた。
「本物か……?」
頑固そうな職人が、じろじろとかがやき草を検分した。
 道具屋の主人はむすっとした口調だった。
「あんたみたいに飛び込みの人は、いつも来る人と違って信用が浅い。本当なら断るとこだが、ひとつ百Gなら引き取らないこともない」
かがやき草の卸値は、ふつうその倍だった。
 マルティナは肩をすくめた。
「そう。じゃ、信用ができたらまた来ます」
目を見つめ、くすっと笑った。道具屋の主が、なぜか赤くなった。
「おい、そう急ぐな」
マルティナは片手で長い髪をかきあげた。汗に濡れたうなじが見えるのを承知で後ろへはらった。
「早くお金に換えて、お宿へ行きたいの。汗かいちゃった」
こほん、と職人が咳払いをした。
「なかなかいい品じゃねえか。採るの、たいへんだったんだろう、お嬢ちゃん?」
そりゃあもう、とつぶやいてマルティナは肩をすくめてみせた。
「わ、わかった。二百出そう」
「ありがとう」
マルティナはたっぷりの笑顔をふるまうことにした。

 馬車の列が森の中の街道をようやく抜けた。日没前だった。先頭の馬車から号令が伝わってきた。今夜はここでキャンプにする、と。
「男衆は水汲みと夜盗防ぎの柵をたててくれ。女衆は火を熾して食事の支度だ」
彼らはキャラバンだった。定住を嫌い、地方から地方へと商売をしながら回っていく。彼らのキャンプは手慣れたものだった。
「手伝うことはありませんかの?」
キャラバンの客の一人、小柄な年寄りが焚き火の周りに顔を出した。人のいい中年女たちが、笑顔を向けた。
「お孫さんに手伝ってもらってるから気にしないでいいんだよ、おじいちゃん」
「そこへ座ってご飯ができるのを待っててね」
火のそばの席をわざわざつくってくれた。
「こりゃ申し訳ない」
にこにこしながらその年寄り、ロウは席についた。
 マルティナはかいがいしく野菜の下ごしらえをしていた。二十一歳の現在、長年の旅の経験でこの手の野外料理は彼女の得意な仕事になっていた。
「これでいいでしょうか?」
料理女たちは喜んで野菜を受け取り、鍋へ投じた。
「ほんとにマルティナちゃんはいい子だねえ」
と女たちは口々に言った。
「美人でお祖父様孝行で料理上手で」
「なんでもできるのに偉そうな顔ひとつしない」
「こんな気立てのいい子、めったにいないさ。息子の嫁にほしいくらいだよ」
「あらっ、眼をつけたのはうちが先だよ?ねえ、マルティナちゃん、あんたさえよけりゃ、このキャラバンに入らないかい?」
「あんたのお祖父様ごと引き取るからさ」
中年女たちの騒ぎを、男衆もぬかりなく耳に入れている。少し離れた地方まで同乗する客のはずが、マルティナはすっかり人気者になっていた。
 ふぉっふぉっとロウは笑った。
「申し訳ないが、孫にはいいなづけがおりましてな」
と柔らかくロウは言った。
「わしらは婚礼の相談のために婿殿に会いに行く途中なのですじゃ」
ありゃー、残念、などという声がかかるなか、マルティナは料理のためにグローブをはずした片手をほほにあて、恥じらうような、困ったような笑みを浮かべたまま、決定的なことは何一つ言わなかった。
「えっ、マルティナちゃん、結婚するの?」
キャラバンの男たちが悲痛な声をあげた。
 その時だった。風に生臭い臭いが混じった。キャラバンリーダーが立ち上がった。顔が険しくなった。
「まずいぞ」
リーダーの動揺がメンバーに伝わった。
「モンスターか!」
「なんか強そうだな」
「女子衆は馬車に隠れろ!戦える男は集まれ!」
 ロウはマルティナと視線を交わしてうなずきあった。
「あぶないよっ、早く、馬車へ!」
マルティナは振り向いた。
「ご心配なく」
闇を透かして前方を睨みすえたままブーツの紐をしめあげ、グローブをはめ、ふちをくわえて引き、手になじませた。
 鳴き声を長くあげて、三頭のプテラノドンが飛来した。白い体色がかすかな月光に輝いた。
 マルティナは走り出した。長い髪が後ろへなびく。助走をつけ先頭にいたプテラノドンめがけて高く蹴りを放った。ドゥルダ流の蹴り技のひとつ、ムーンサルトだった。いきなり蹴りあげられてプテラノドンが悶絶した。ギャオと鳴いて地に落ちた。渾身の蹴り上げの勢いを宙返りで殺してマルティナも着地した。
「一匹!」
一度下がってそうカウントしたマルティナに向かって闇から何か飛んできた。マルティナは落ち着いてそれ、愛用の槍をつかみとった。
「わしは右のを」
槍を投げ渡したのはロウだった。
「では、私は左」
百戦錬磨の魔法使いと槍を構えた武闘家が前線へ躍り出た。
「リーダー殿」
ドルマを放つ体勢でロウが声をかけた。
「食費は用心棒代と差し引きにしてもらえんかのう?」