湖畔に眠る懐中時計と黒い花束

 チェーンに吊り下げられた蓋つきの懐中時計が、目の前で、右に、左に、ゆっくりと揺れていた。
「きみの名前は?」
「……ディーノ。たぶん」
「たぶん?」
「よくおぼえてないんだ。でもみんながぼくを、ディーノさまとか坊ちゃまとか呼ぶから」
「昔のことで、何か覚えていることは?」
しばらく沈黙があった。
「すごく、悲しいことが、あった」
やわらかな頬の上に、透明な涙があふれてきた。
「どんな?」
「思い出せないよ。時計のふたが、しまっているから」
パンッと、手のひらをたたく音がした。
 驚いて目を開けると、目の前に一つ目の小悪魔がいて、顔をのぞきこんでいた。
「やあ!ぼくはピロロだよ!」
ディーノは目をぱちくりした。ピロロは人形だった。その人形を手にしているのは、黒づくめの不思議な男だった。
「お目覚めかい、ディーノ君?」
顔の上半分は仮面に隠れている。が、にこ、と口もとだけは笑っていた。
「あの、どうして人形がしゃべってるの?」
「これは腹話術っていうんだ。ちょっとおもしろいよね?さて、時計を返すよ」
仮面の腹話術師はそういうと、紳士持ちの銀の懐中時計を差し出した。
 あ、とつぶやいてディーノはチェーンごと時計を取り、ポケットにしまった。
「大事なものみたいだね」
とピロロが言った。
「うん、父さんが、持っていなさいって」
「でもそれ、蓋が開かないよ?」
「留め金をきつくしめてるから」
ピロロはあきれたように両手を広げた。
「さあ、行こうか」
と仮面の男が言った。
「もうすぐお父上が帰ってくるよ」

 森と湖に富んだリゾート地の中に、格式の高いホテルが建っていた。
 ドアマンがうやうやしく支える扉を通って、一人の紳士が大股にロビーへ入ってきた。フロックコートにシルクハット、白いシャツにクラバット、そして白手袋の手にステッキをたずさえた正装だが、革靴の底を床にたたきつけるように歩いている。
「待ちなさい」
背後から別の男がやってきた。ロビーにいた他の客たちがひそひそとささやきあうほどの異装だった。修道僧のような頭巾付きの白いローブで全身をおおっていた。
「バラン、君は協力を約束したはずだ」
フロックコートの紳士は片方の目に、鳥の翼のような形の片眼鏡を装着している。その目でじろりと背後を見据えた。
「いかにも。だが、我が子を差し出せと言う命令にまで従ういわれはない!」
あはは、と軽い笑い声があがった。
「およしよ、ミスト。子持ちの竜をつつくと嚙みつかれるよ」
もう一人異装の男がそこにいた。コートもシャツもクラバットも黒づくめで、顔の上半分を仮面で覆っていた。
「坊やとは、ぼくがすこし話をしてみたよ」
バランという紳士は黒づくめの男をにらみつけた。
「死神……息子に何をした?」
「こわい、こわい。おしゃべりしただけさ」
両手の指を組み合わせ、死神と呼ばれた男はくすくすと笑った。
「素直ないい子だ。でも、ほんとに何も覚えてないんだねえ。記憶がないと力も戻らないなんて、こりゃジレンマだ」
ミストと呼ばれた頭巾の男がつぶやいた。
「なぜ記憶を戻さない」
「理由はともかく、方法ならわかったよ。あの坊やは暗示をかけられてる。蓋を閉じた懐中時計を持っていると記憶が封じられたままなのさ。暗示というより一種の呪具だろうね、あの時計は」
「……っ!」
憤怒の表情でバランが一歩を踏み出した。
 おとうさん、と子供の高い声が呼びかけた。同時に子供用の半ズボンと上着の少年が小走りにやってきてバランに寄り添った。バランは片手でその頭をそっと抱き寄せた。
「答える必要はない。記憶と力の戻らないこの子に、用はないはずだ。お引き取り願おう」
 死神が立ち上がった。
「ミスト、今日のところは失礼しようよ。ディーノ君、またね」
そう言って異装の二人は悠々とホテルを出て行った。

 ラーハルトはホテルの裏にある厩舎へ急いだ。
「すぐに出発だ!」
 がっちりした体つきを御者の制服につつんだボラホーンがつぶやいた。
「やはりあいつらは追手か」
もう一人の御者、ガルダンディーが憎々し気に吐き捨てた。
「また逃げるのか?気に入らねぇ!」
 従者のお仕着せのラーハルトは、片手を上げた。
「ディーノ様の安全がかかっている。馬車の用意を急げ」
「しかたがねえな。おいで、ルード、ひとっ走りだ」
馬車のようすを確認してラーハルトはホテル内に戻った。
「ディーノさま、バランさま、こちらへ」
 ディーノは不安そうな表情のままだった。
「心配ない。時計は持っているな?」
「うん……はい、おとうさん」
ディーノの手には、銀の懐中時計があった。
「それでいい。だが、けして蓋を開けないことだ。守れるな?さあ、行くぞ」
 そう言って歩き出そうとしたバランが、一瞬硬直した。直後、爆音が響いた。
「何があった!」
 飛び出そうとするラーハルトに、ボラホーンの声がかぶった。
「敵襲っ!」
ラーハルトは事態を察した。さきほどの異装の二人は、バラン一家が動き出すのを待って、手勢を率いて襲ってきたのだろう。
 すでにボラホーンが厩舎の鎖を取り、頭上で振り回して敵を牽制している。ガルダンディーは馬のルードを敵に向かってけしかけていた。
「今のうちにお逃げください!ラーハルト、頼んだぞ!」

 逃避行の道はすでに決めてあった。馬車が使えるなら街道を港まで走らせる。使えないなら、小舟でホテルの奥にある湖を渡って対岸へ渡る。
 バラン一家は旅行用の荷物を捨て、湖の木の桟橋を目指した。そこに小さなボートがもやってあった。
「お乗りください、ディーノさま、ロープを解きますから」
そう言ったとたん、ラーハルトはぞっとした。それは冷え冷えとした殺気だった。
「ラーハルト!」
 ボートを背にしてバランが立ちはだかっていた。
「その子を対岸へ」
「いやだよ!」
とディーノが叫んだ。
「父さんもいっしょにいこう!」
「バランさま、追手の抑えなら、私が!」
バランは振り向いた。
「今ならば、わかる。どうしてこの子の仲間が命がけでこの子を守ろうとしたのか」
その表情を見て、ラーハルトは声も出なかった。
「私にも最後に、父親らしいことをさせてくれ、ディーノに、そしておまえに」
バランはボートの横腹を強く蹴った。
「行けっ」
 トップハットを取り、上着を脱ぎ棄て、クラバットをゆるめた。そしてステッキに仕込まれていたサーベルをすらりと抜き、敵を待ち受けた。
 封じられた感情があふれだす。身もだえしながら、ディーノは泣いていた。
「いやだよ、もう、こんな!」
その目はバランの背を透かして過去の情景を見ているようだった。
 バランのサーベルが殺到する敵を難なく切り裂く。が、一筋の弾丸がその胸を貫いた。貫かれてなお、バランは目の前の敵を数名屠っていた。
「やめて……やめろ」
幼子の悲鳴が、戦士の咆哮に変わった。
「やめろ!これ以上、おれの仲間に手を出すなッッ!!!!」
空気が震え、雷鳴がとどろく。戦士の額に青い紋章が現れた。

 時は巡り、リゾート地は冬だった。森の木々は葉を落とし、湖の波は黒々として見えた。
「どうして父さんは、あの時おれの記憶を戻すのを嫌がっていたのかな」
ラーハルトにとっては今でもディーノ坊ちゃまだったが、彼は一族の新たな長だった。バンドを巻いた黒のトップハットと黒のフロックコートは、喪の衣装でもあった。
「バラン様をどうか責めないでください、ダイさま」
とラーハルトは言った。
「バラン様は恐れておいでだったのです。『記憶を取り戻したら、あの子は私を許さないだろう』と」
ダイは服の内側から懐中時計を取り出した。あの惨劇の時に留め金は壊れてしまっていた。蓋を開くと、蓋裏に古い細密画がはめこまれていた。まだ若いバラン、ソアラ夫妻だった。しばらく見つめた後、ダイはつぶやいた。
「守ってくれてありがとう。どうか安らかに」
 四本の白百合に黒いリボンをまいて、懐中時計と共にダイは湖へ、あのときバランが倒れた桟橋のそばへ沈めた。時計と花束は静かに水中へ消えていった。