紫の夜空に真紅の満月が登ろうとしていた。
その地は荒野に見えた。真っ黒なシルエットと化した森と、月光を受けて朱色に輝く奇岩の世界だった。
奇岩の上には、祭壇が築かれていた。細長いテーブルで、上から刺繍のある黒い布がかけられている。刺繍はそれぞれ太陽、山岳、魔力のシンボルであり、同じ文様が祭壇の前に立つ人々の法衣にも染め付けられていた。
ギュータの里の修行者たちだった。
「準備はこれでよろしいでしょうか」
中央に立つ白髪の老女はうなずいた。
この異形の荒野は、かつて魔力をもってバルゴートが作り上げ、現実に存在するギュータの里の上に重ねた異空間だった。
「上出来だよ」
そう言われたのは、まだ少女のように若い女の修行者だった。
「お供えの料理を作ったのはおまえだね。魔力空間に幻獣を召喚して、その祝福を得て空間を安定させる儀式、そんな難しい術を、良く理解して実践したものだ。ああ、よく出来たよ」
少女はほほを赤らめた。
「あたしは一度、失敗したことがある。あの時は月餅だった。食材を吟味して、言い伝えにのっとって作り、加熱の間に複雑な召喚呪文をこめた。それなのに、幻獣は来ななかったよ」
「そんなことって……でも最後には成功なさったのですよね」
「成功、したよ。くやしいけど、マトリフのおかげさ」
「どなたでしょう?」
不思議そうな顔の少女に、カノンは微笑みかけた。
「知らないか。知らなくても無理はないよ。お化けのようなものだもの」
「お化けですか?」
おや、とカノンは言った。
「自分から連絡手段を断ち切って音信不通になるのをそう呼ばないかね?『あいつはゴーストしやがった』って」
●
赤い月の荒野に、黒い風が巻いた。
「よう、何やってんだよ」
修行者たちもカノンもその場に固まった。月餅を捧げての召喚儀式が明らかに失敗した直後だった。
そこにいたのは、ギュータの里の天才にして問題児、長らく里を出て行方不明になっていた男だった。正装の一部であるギュータの帽子を、マトリフは脱いで片手に抱えた。もう片方の手で、祭壇の月餅をつまみあげてかじった。
「ひとつもらうぜ~。なかなか美味いな」
かッとしてカノンは怒鳴りつけた。
「ふざけんじゃないよ!こんなに長い間行方不明になったあげくに、どの面下げて戻ってきたんだい。すっかりゴーストを決め込んだくせに。儀式の途中でなきゃ、こんがり焼いてやるところだ」
マトリフは閉口した顔であとずさった。
「落ち着けよ、オレだって連絡しようにも身動きできなかったんだ」
「言い訳は聞かないよっ!第一、どうしてこんなところへ顔出しにきた?」
「儀式がうまくいってねえってまぞっほのやつが、いや……そのことはいい。それで?儀式は?」
カノンは顔をそむけた。
「幻獣は料理がお気に召さなかったようだね。作り直す」
「何がいけなかったんだ」
カノンは深く息を吸い、吐き出した。
「それがわかればね。材料はすべて伝承通りだし、言い伝えを守って、召喚呪文も正統なのに」
マトリフは指についた月餅のかけらをなめた。
「材料、伝承、呪文。それ以外の要素ってことか」
「そんなもの、あるかい!あんた召喚術は不案内だろう。いいかげんなことを言うんじゃない」
腕を組んでマトリフは笑い声をあげた。
「まったく優等生はこれだからよ。料理だよ、足りない要素は」
「だからあたしは!」
その目の前にマトリフが差し出したものがあった。
「使ってみ?」
カノンは半信半疑で、それを受け取った。
「まさか、こんなもので?」
マトリフはにやっとした。
「召喚のお供えってこたぁ、つまり幻獣さまを料理で誘惑するんだろ?」
「……でも、うまくいかなかったら」
「そうしたら別の要素を探す。ひとつずつ要因をつぶすしていくしかねえ」
カノンは顔を上げた。
「それしかないね。みんな、作り直すよ」
●
召喚が成功したことは、ほとんど瞬時にわかった。魔力が噴きあがり、渦を巻く。やがてその中心に巨大な影が現れた。
ふっくらした身体は小山のようで、全身をおおうのは白銀の毛皮だった。動く毛皮の山の中に、長い耳と紅玉のような目がある。
「おいでを感謝します、玉兎よ」
太陽の化身金烏と並んで、月の化身とされる幻獣、玉兎だった。
真っ白な巨大うさぎは鼻先を祭壇に寄せ、ひくひくと動かした。動きに連れて細いひげが揺れた。ゴマの香りのする月餅の大皿に近づき、そのひとつをぱくりとのみこんだ。白い毛におおわれたほほがふくらみ、もぐもぐ動いていた。
「玉兎よ、どうかこの世界に祝福を」
満足そうな玉兎は、後ろ足で身体を支えて伸びあがった。巨大なゴーレムほどもあるその体で見事に飛び上がり、空中で一回転してみせた。
人々は目を見張った。大地から新たな魔力が沸き上がる。その力を受けて赤い月が煌々と輝いた。
●
修行者の少女が言った。
「いったい、どんな要素が召喚を可能にしたというのです?」
カノンは片手で口元をおおった。その目がおかしそうに細められていた。
「あのときマトリフがあたしに手渡したのは、人参だった」
「ニンジン!」
「そう。みじん切りにして、月餅のあんに混ぜたのさ。うさぎを誘い出すなら、好物を使えってことだろうね。伝承も呪文の正統性も関係ない、誘惑料理なんだから」