星月夜に髪をほどいて

 茶色の紙袋を抱えてヒュンケルはガソリンスタンドから出てきた。車の助手席に戻ると、袋から緑のガラス瓶に入ったジンジャーエールを取り出し、運転席にいたアバンに手渡した。
「こんなものしかありませんでした」
「いえ、ジンジャーエール、上等ですよ」
 受け取って、首筋に当て、ああ冷たい、とつぶやいた。
「なら、飲んでください。それからこれも」
 袋から取り出したのはホットドッグだった。
 しばらく二人は黙ってホットドッグをかじっていた。こういうとき、アバンはいつも饒舌なのだが、今日は疲れ切っているようだった。ときどき左右の眼がしらを強くおさえる。眼の下にはくまもできていた。
「運転、代わりますか?」
 アバンは手で額を支えた。
「帰りは、頼みます」
 ヒュンケルはためいきをついた。とにかく目的地までは自分で行きたいのだろうと思った。
――そんなに大事な人なのか。

 数日前ラスベガスで、あるカジノのオーナーが自分の車ごと爆殺された。オーナーの名は、ハドラーと言った。
「すぐラスベガスへ行きます!」
 アバンはほとんど血相を変えていた。まず事故現場へ。つてをたどって調べた結果、死亡はほぼ確定だということだった。
 だがアバンはあきらめなかった。事件直前の状況をつぶさに洗い出した。
「独立系のカジノの経営者……巨大ファミリーと対立……何度も事故にあう」
 カジノ併設の巨大ホテルではなく、周辺のモーテルに宿を取ってアバンはタイプライターで調べたことをまとめていた。
「先生、もうやめたほうが」
とヒュンケルは何度かそう言った。
 ヒュンケルがアバンを先生と呼んでいるのは、昔家庭教師と教え子だったためだった。十代でヒュンケルは家族を失い、そのあとのアバンは教師というより養父に近かった。
「ヒュンケル、あなた、大学は?」
「今、夏休みです。先生、バーン・ファミリーのボスは、暗殺のプロを側近にしているともっぱらのうわさです。だとしたら、もう」
ターン、と音を立ててアバンはキーを叩いた。
「信じません。あの男は、生きています」
「先生」
アバンのことは子供の頃から知っている。知っていると思っていた。が、ハドラーという人物とのかかわりは聞いたことがなかった。自分が少し焼きもちを焼いているという自覚もあった。
 アバンはタイプライターから紙を引き出した。
「いいですか、事故は先日カジノの駐車場で起こりました。ルーフのないキャデラック・エルドラドがいきなり火を噴いて爆発四散したのです。そのキャデラックの担当運転手はすぐそばにいて巻き込まれました。救助された先で、車に乗っていたのはカジノのオーナー社長、ハドラーだったと証言しました。彼の死亡とされたのはこの証言のためです。ですが遺体がない。焼け焦げた断片だけしか見つかりませんでした。断片がハドラーのものなのか、そもそもヒトのものなのか、1960年の現在でも、調べようもないことです」
「では、死んではいない、と?」
きっぱりとアバンは言った。
「ハドラーは、ファミリーに殺されるのを回避するため自分が死んだことにして逃走した可能性があります」
そんなバカな、と言いそうになってヒュンケルは言葉を呑みこんだ。
「それなら、その運転手にもう一度話を聞くべきです」
とだけ、言った。
「ふむ。合理的だ。あなたらしいですね、ヒュンケル」

 アバンとヒュンケルは、病院までこの運転手に会いに行った。受付の女性は大きなファイルをめくって該当の患者を探してくれた。
「もう一度、お名前を」
「ブロックさんという人です」
受け付けは顔を上げた。
「その人はもう転院されました」
「どちらへ?」
「レオノール島の施設です。生まれ故郷だそうで。患者さんのお姉さんという人が来て、こちらの会計を清算して、転院の手配をしていかれました」
アバンは新聞記事の切り抜きを差し出した。
「この女性では?」
粒子の荒い白黒写真には、髪をボブヘアにした超然とした美人が映っていた。
「ああ、この人です」
 病院正面の階段を足早に降りながら、アバンがつぶやいた。
「これは……キャスリングだ!」
「キャスリングとは」
あ、いえ、とアバンが珍しくうろたえた。
「行きましょう。ハドラーが生きているとしたら、ブロックとともにレオノール島へ行くはずです」

 転院先の病院はカリブ海の孤島レオノール島にあり、その島はカジノ天国として知られている。合衆国からの定期便はなく、地方空港から不定期で小型プロペラ機が飛ぶのみ。その便が今夜、ブラナ空港から飛び立つ。
 アバンたちはブラナ空港へ向けてすでに六時間以上ドライブを続けていた。あたりは砂漠とまではいかなくても、人の気配のない荒野だった。日は落ちて暗くなっていた。
「古い知り合いなのです、ハドラーは」
 ぽつんとアバンが、そう言った。
「彼がこの世で生きていてくれるだけでいいと思っていました。それなのに。死んだなんて、信じたくない」
 ヒュンケルはためいきをついた。紙袋にごみをまとめ、その上からくしゃくしゃ潰した。
「……行きましょう。先生の推論通りなら、ブラナ空港にハドラー氏がいるはずです。もしいなかったら」
 あきらめますね?という問いをヒュンケルは呑みこんだ。アバンは黙ってエンジンを起こした。

 荒野の中の道はどこか幻想的だった。対向車も後続もない。風の吹きすさぶ夜の荒野を、ヘッドライトを頼りにただ一台で走っていく。
 あたりは完全に暗くなった。フロントガラスを通して地平線から天頂まで見えた。月はないが、無数の星が連なり乳白色の帯となっている。頭上の夜空は白く光り輝いていた。
「星月夜だ」
 小さくヒュンケルはつぶやいた。無言でアバンがうなずいた。
 不定期便の離陸時刻が迫っていた。ブラナ空港が見えた時、アバンはスピードを上げた。空港のエプロンには小型機一機だけがとまっている。乗客が外付けのタラップから順番に乗り込んでいた。
 アバンは車を停めて飛び出した。空港のフェンスに駆け寄って金網をつかみ、一人一人乗客を見つめて、というより、にらんでいた。
 最後の乗客は背の高い男だった。長身の男はタラップの一番上にのぼると、立ち止まってあたりを見回した。トレンチコートのすそが夜風にひるがえった。
 その男が、フェンスのほうへ視線を向けた、とヒュンケルは思った。
 男が片手を上げた。首の後ろに手をかけ、何か取り去った。どうやら、髪を束ねていたひもをほどいたらしく、長い髪が肩に下がり、首筋をおおった。
 満天の星が頭上で輝く。ほの白い光が男の銀髪に反射した。ヒュンケルの横で、声にならない声をアバンが放った。
「ハドラー……」
 互いの顔など見えるはずもない距離だった。声も届かないだろう。それでもこの瞬間、二人は互いの存在を認識したのだと、ヒュンケルは悟った。
 小型機のドアの中にハドラーは消えた。やがて、プロペラ機は風に乗って飛び立った。アバンはフェンスに片手をかけたまま、機影が銀河の中へ消えるまで見守っていた。
「帰りますよ、先生」
 アバンはこちらを見て、やっと微笑んだ。
「ええ、そうしましょう。悪かったですね、ヒュンケル。こんなところまで付き合わせちゃって」
 いつものアバンが戻ってきたのを感じて、少し心が軽くなった。
「そうですとも。一面識もないひとの見送りなんて」
一瞬アバンが絶句して、それから笑顔になった。
「そう、そうでしたね。ええ」
「何ですか?」
「いえ、なんでもありません。なんだか、あなたが事情を全部のみこんでいるような気がしていました」
「事情って、なんです?」
 ないしょです、と言ってアバンは笑った。