傘のない勝負

 背中に大荷物を背負ったポップは、マトリフの姿を求めてキョロキョロした。
 そこは気温湿度ともに高い密林だった。巨木の根が彫刻を施した石にからみつくのみで、人の気配はまったくなかった。
「師匠!師匠?」
「こっちだ!」
 円形の池の岸辺にマトリフは座り込んでいた。
「これ、アバン先生から」
 ポップは預かってきた荷物をその場に広げた。梱包を解きながら、ポップは首を傾げた。
「なんだよ、これ?変な道具だな」
「観測機器ってやつだ。今夜は月食だからな」
「師匠、また禁呪法か何かやる気か?」
 その年齢にしてなお、大魔道士マトリフは知識の吸収に貪欲な男だった。
「秘法がらみじゃねえよ。第一、日食じゃねえ、月食だ。ポップ、そもそもどうして日食の時に凍れる時の秘法が成立するか、わかるか?」
「え、そういや、どうしてだ?」
 マトリフは長い袖の両手を組んだ。
「月食の仕組みは、知ってるな?」
「太陽の光を地球が遮ってその影が月を隠すから、だっけ」
 その知識はアバン仕込みだった。
「そうだ。それが原因でこの地上の魔法力の原則が狂うのさ。日食の時に時間に干渉できるのもそのスキをついての話だそうだ」
「へえ。原則が狂うって、どうなるんだ?」
「月食の時は呪文が使えねえ。呪文の構築はできるんだが、肝心の魔力が集中しねえのよ」
「ほんとかよ!」
 おう、と老魔道士は言った。
「例えばメラの火球をつくろうとしても、不安定で形になりゃしねえ。やったことはねえが、たぶんメドローアもできねえな。それと月食にはもうひとつ……」
そう言ってマトリフは言葉を切った。
「まあ、いい。テントを組み立てて飯を作っといてくれ。月食は日が暮れてからだ」

 日没と同時にマトリフは片手に観測機器を持ち、片手で何か計算を始めた。天上では、金の円盤の縁が一か所黒ずみ、そこから欠け始めた。
 ポップはブラックロッドを握り締めてあたりをうかがっていた。この森はバーサーカーの巣窟でもある。あたりは真の暗闇、無人、そしてもうすぐ呪文使いが呪文を使えなくなるという時間がやってくる。
 マトリフがつぶやいた。
「始まるぜ」
 二人のいる岸辺から、池が一望できる。天然の池にしてはありえないような完全な円形で、人の手が加わっているのは確かだった。その池の中央に、ゆらめくものがあった。
「ありゃ、巨人か?」
「あいつはデストロール族だ」
とマトリフが答えた。
「とにかく、生きてるときは、そうだった」
 つまり、亡者ってわけだ、とポップは考えた。
 それにしてもでかい。クロコダインとタメを張るような身長と、それにふさわしい厚みのある胸板の持ち主。丸太のような腕をしているが、全体的にストイックな雰囲気がある。トロル族の面影は皮膚の色合いと長い耳にしか残っていなかった。
「よう、ガンガディア」
とマトリフが声をかけた。
 巨大なデストロールは、なぜか眼鏡をかけている。グラスの中で瞳が動き、マトリフへ、そしてポップへと視線を移した。ひとつうなずくと、ゆっくりこちらへ向かって漂ってきた。
「やあ、大魔道士」
「オレを覚えてるのか」
「ここに呼ばれて、記憶がはっきりしてきた。それに、たぶん、この場所への未練も大きいのだろう。彼は?」
「弟子のポップだ」
 ガンガディアが顔を動かすと眼鏡の縁が光った。
「ほう、うらやましいな。君は最高の師を得たようだ」
 ざわざわと背筋に悪寒が走る。
「お、おう。っていうか、なんかおれ、にらまれてるか?」
「気にすんな。こいつは呪文マニアでな。いい勝負になりそうな相手とみるとむずむずする癖がある。だが」
とマトリフはつづけた。
「今夜は月食だ。おまえさんを呼び出すことができたのもそのおかげなんだが、あいにくと呪文も使えなくなる」
 ガンガディアは天を仰いだ。
「そういうことか。残念だ」
 ポップはようやく緊張を解いた。隆々とした肉体のガンガディアは、どこかしょぼんとして見えた。
「まあ、そうへこむな。月食の終わる前に、ひと勝負しねえか」
 マトリフは背後から何か持ちだした。
「チェス盤を持ってきた。ルールはわかるか?」
「知っている。知的遊戯としてはなかなか優れたゲームだ」
 目が輝いている。おもむろに巨体が動き、マトリフの対面に座りこんだ。
「オレが呼んだほうだから、後攻でいい」
 いそいそと駒をならべていく。
「ふむ、あとで後悔しないかね」
「甘く見るなよ?さあ、月食は短いぜ。長考禁止の早指しでいこう」
「では、私からだ」
 長い爪の太い指で、ガンガディアは器用にチェスピースをつまんだ。
 そこからしばらくは、白熱した頭脳戦が続いた。ときどき両側から鼻歌やうめき声があがった。
「そう来たか」
「これでどうだね」
「いいのか、そこで?」
「そちらこそ」
――楽しそうだよなあ。
と岡目八目の立場のポップは考えていた。
 気が付くと、月食は終わりかかっていた。マトリフも気付いたようだった。
「おっと、決着はつかねえな」
 ガンガディアは、駒を取ろうとした手を止めた。
「そのようだ。残念だが」
 青の巨人は、月の光を浴びて姿が消えかかっていた。
「月食はまた来る。その時までこの盤面は残しておくぜ」
 ふいにガンガディアは微笑んだ。
「心配ない。もう暗記した」
 どこか楽し気にマトリフは舌打ちした。
「そういうとこだな、おまえは。また会おう」
「長生きしてくれ、大魔道士」
その言葉を最後にガンガディアは消えてしまった。
 ふう、とマトリフはためいきをついた。
「師匠、チェスなんてできたっけ」
「にわか仕込みだよ。この月食のためにな」
 へえ、とポップは思った。
「ずいぶん入れ込むんだな」
「供養のためだ、しかたねえ。アイツを殺したのはオレだ」
えっと言ってポップは師の姿を二度見した。
「あんなでっかいのを?」
「あのガタイとあの頭脳をもってしても、やつの望みは叶わなかった。いろいろと不憫なやつさ。そのうち話してやるよ」
 マトリフは月を見上げた。
「本当はやつも、傘なしで呪文勝負をやりたかっただろうによ」
「傘?傘なんてどこにも」
と言いかけてポップは気づいた。
 月食の定義は、太陽の光を地球が遮ってその影が月を隠すことだった。
――師匠の言う傘って、地球のことかよ……。