その部屋の壁は不思議な模様で覆われていた。
アイボリーの漆喰塗りに藍色で二種類の幾何学模様が整然と並んでいる。模様はどことなく花の形に似ていて、ひとつは尖った四弁の花びらをもつアイリスのように見え、もうひとつはトゲのある輪のなかのひまわりを連想させる。そして床は太いしま模様だった。
ひとりの少年がつぶやいた。
「この模様、さっきも見たかも」
ギュータの里の若き修行者まぞっほは、かるく目を見開いた。
「きみ、鋭いな。その模様は塗料に、それから模様そのものに、魔法力を吸収する力があるんだ。先に通ってきた呪文修行場にも描かれていたよ」
「へえ。この模様の壁には好きなだけメラぶつけていいってことか」
ギュータの里は里の長である賢者バルゴートの方針で、知恵と力を求める者を随時受け入れていた。今まぞっほが案内している少年と少女は、二人とも少し前に下界から修行のためにこの里を訪れていた。
少年はポップ、少女はメルル。二人とも十五歳だと言っていた。
「ポップ君は呪文の修行をしたいのか?導師はもう決めた?」
この里ではクラス単位で授業を行うのではなく、弟子と師匠一対一のペアで修行を進めることになっていた。
「おれ、来たばっかなんで、まだです。あ~、あんまり厳しくなくて若くて美人の女の先生はいませんかね?」
まぞっほはくすっとした。
「そんな先生がいたらわたしがまっさきに導師に頼んでるよ。メルル君は?」
「私は占い師を目指しています」
メルルはテラン王の推薦状をもってギュータの門をたたいている。いわば国費留学生であり、テランでも一二の優秀な学生なのだろうとまぞっほは考えていた。
「瞑想の修行をしたくて……天文学にも興味がありますので……」
伏し目がちにメルルはそう言った。
「天文学なら、一番熱心なのはバルゴート師匠かなあ。師匠はこの里に星見のための部屋を造っちゃったくらいだから」
まあ、とメルルはつぶやいた。
「そうだ、師匠の実験室を見ていくかい?」
「よろしいのですか?」
「正確に言えば、師匠監修のもと、高弟がやってる実験なんだけど。ほら、あれだ」
まぞっほはつきあたりの扉を開いた。魔法力を吸収する壁の前に、大きなガラスの器がおかれていた。器は、サイコロを子供の背丈ほど巨大化したような正六面体で、その中に手の握りこぶし大の何か浮いていた。
「これは……?」
しげしげと見入ってメルルがそうつぶやいた。
「星のプロトタイプ。動く模型」
「え、これが?」
とポップが言った。
「なんでも星の中にはイオの魔素がたくさんあって、絶えず中で爆発してるんだそうだ」
その『星』は内部で何かが絶え間なく弾けているようで、チラチラと輝いて見えた。
「イオの魔素って、一回爆発するとなくなっちまうんじゃないんですか?」
「なくなるさ。でもこの『星』のなかに膨大な魔素が入ってるんだ」
まぞっほは咳払いをした。
「夜空の星の内部ではこういう爆発が絶えず起こり、その結果物質が生み出されている。それをイオ融合と呼んでいるんだが、融合がすすむと星は別の物質にかわってもう光らなくなる、というのが定説だ。けれど、星の中に別の魔素が存在してイオの魔素と均衡していると主張する者が一人だけ……」
「まぞっほさん!」
ポップが叫んだ。
「なんかこの星、やばくない?」
反射的にまぞっほは後ずさった。
『星』は変色していた。チラチラしていた輝きがなくなり、その代わり本体が細かく震えていた。
「まずいな、実験の責任者に連絡」
と言いかけて、まぞっほは絶句した。
三人の目の前で、ガラスの巨大サイコロの表面に亀裂が走った。
「地震か?」
不安そうにポップがつぶやいた。
ガラスの天板が音を立てて壊れた。まるで天井から見えない拳でぶち破られたように見えた。
「そんなもんじゃない、これは……」
実験の責任者の言葉をまぞっほは思い出した。
――イオ融合のための魔素を使い切ったとき、星は自らの重さで崩壊していくはずだ。
――ほうかい?
――星のすべてが、中心部に向かって押し込まれんのさ。ぎっちぎちに詰め込まれていくから、どんな物質もそこから逃げられねえ。光さえもな。だから真っ黒な穴に見えるはず。
ごく、と喉が勝手に鳴った。
「逃げろ!」
一声そう叫んでまぞっほは駆けだした。
「えっ、ええっ?」
その声にガラスが砕け散る激しい音が重なった。キラキラ光りながらガラス片は『星』の中へ吸い込まれていった。『星』は見る見るうちに黒ずみ、握りこぶしの大きさは針で突いた穴ほど縮まっていた。
「きゃあっ」
メルルが悲鳴をあげた。実験棟の中のあらゆるものが『星』めがけて飛んでくる。それを避けてポップたちは床にうずくまった。
「早く!」
実験棟の扉を開けたまままぞっほは急かした。少年たちは床を這うようにして進んできた。メルルの長い髪が『星』のほうへ長く引っ張られていた。
「やばいぜ」
ポップは青ざめていた。
「ポップさん、先へ行ってください」
メルルがそう言った。
「あなた一人なら、早いでしょう」
ひきつったままポップは笑ってみせた。
「冗談だろ、おれのモテ期はギュータで始まる、そう決めたんだ。女の子を、ましてやこんなかわいい子を見捨てられっかよ」
見えない巨人の手が実験室の柱をへし折った。天井の建材がはがれて落ちる。四方の壁がべきべきと音を立てて折り重なった。建材のかけらとほこりが舞い上がったが、すぐに吸い込まれていった。
「きみたち、大丈夫かっ」
廊下からまぞっほは声をかけた。背後からギュータの修行者たちが駆けつけてきたのがわかった。
「まぞっほ!事故か!?」
瓦礫の山と化した実験室の下のほうで何か動いている。修行者たちは数人がかりで引っぱり出した。長い髪の少女、メルルが助け出された。
「まだ中にひとり残っています。ポップさんを助けて!」
あえぎながらメルルは訴えた。
●
魔法事故発生の知らせは里を駆け巡った。
「バルゴートさまは魔法学会出席のため、外出中だ。我々のみで対処しなければならん」
「それはいいとしてまず人命優先では?新入門者の少年が室内に取り残されているというではないか」
「だが、あの部屋は中央の『星』がすべてを吸い込んでいるのだ、少年はどうなっているかわからん」
修行者たちは青ざめた。
「ポップさんは、生きてます!」
メルルが声を上げた。
「実験室の扉の前まで行けば、会話ができる状態です。助けてください!」
「だいじょうぶよ」
と、女の声がした。
「バルゴートの娘、カノン」
と彼女は名乗った。いかにもしっかり者の、毅然とした美人だった。
「入門者は必ず助け出します。大丈夫、心配しないで。あなたはあなたで安静にね」
そう言ってカノンは安心させるように微笑みかけた。
さて、とカノンは鋭い視線で修行者たちを眺めまわした。
「言いたいことはいろいろある。が、まずは」
まぞっほを含め、その場の者たちは身を縮めた。
「あの実験の責任者は?」
気まずそうな顔が並んだ。
「姉者、あのぅ」
とまぞっほは言いかけた。最後まで聞かずにカノンはうすく笑いを浮かべた。
「やっぱりあのクズか!どこ行った!」
カノンが十指を組んでべきっと鳴らすのを見て、まぞっほは青くなった。
「兄者は……一杯ひっかけてくるって」
マヒャドの冷たさの視線が返ってきた。
「探しといで!」
●
針の孔ほどの黒い星に向かって床も壁も天井も吸い込まれていく。そのようすをポップは震えながら見ていた。自分自身も、崩れた壁にしがみついていなければ星に引きずり込まれそうだった。
ドアの残骸越しに外からの声は聞こえた。
「君、大丈夫か?今、瓦礫を取り除いている。こっちへ出て来られるか?」
「無理っぽいです」
とポップは答えた。
「おれ今、ぐしゃぐしゃになった壁に引っ掛かって止まってるだけなんで。ちょっとでも動くと引っ張られます」
丈夫なひもで、とか、ルーラの応用、などと言った言葉が聞こえたが、間もなく静かになった。
「短かったなぁ、おれのモテ期」
こんなことならランカークスを出なきゃよかったか、とポップはひそかに考えていた。
突然、静寂は破られた。
「おい、まだ生きてるか?」
妙にのんきな声だった。ポップはちょっとむかついた。
「生きてるよっ、早く助けてくれっ」
「ま、あせんな」
「命がかかってんだよっ」
「そこからブラックホールが見えるのか?今どうなってる?」
「針穴みたいな黒い穴のことか?」
「それだ、それ」
嬉しそうな声だった。
「針穴ってことは、元の大きさからかなり縮んだんだな?それでなんでもかんでもひきずりこんでる?今までどんなものを吸い込んだ?」
「ええと、でかい本とか、薬品用のガラス瓶とか、三本足の木の椅子とか、小さめのテーブルとか」
「そのていどか?もっと大物は?」
「さっき、折れた部屋の柱を吸い込んだけど、まだ見えてる。大物だと時間がかかるみてぇ……って、さっきからなんだよ、あんた!」
「オレの実験なんだ、そいつは」
えっとポップはつぶやいた。
「監修は師匠だが、実験責任者はオレだ。イオ融合ための燃料を星が使い尽くした時、それまでイオの魔素と均衡を保っていた別の魔素が開放される、って説を実証したくてな」
「まそ、って何?」
「簡単に言うとエネルギーだ。あらゆるものはエネルギーを持ってる。空の星もこの大地もエネルギーを持っていて、その最小の単位を仮に魔素と呼んでいるわけだ」
ずるっと足元の瓦礫が動いた。
「お説教はもういい!早く助けてくれ、また引きずられたぞ!」
「実はな、そいつから逃げる方法はねえんだ」
「なんだってぇ?!」
「まじめに聞きな。今おまえを吸い寄せてるのはもうひとつの魔素、大地のエネルギーだ。おまえさんにロープだのキメラの翼だの渡そうとしても、かなり近づかなきゃならねえ。だが近づいたら二次遭難だ」
「じゃ、じゃあ、おれ、ほんとに……」
死ぬのか、と言えなくてポップは震えた。
「そこで相談なんだが、一か八かの賭けにのらねえか?」
「か、賭け?」
「ああ。そのブラックホールは模型だから小さすぎて、大きなものを吸い込むのに時間がかかる。てぇことは、あるていどの時間があるわけだ。その間におまえがこの大地のエネルギーを魔法力に替えて制御できれば、助かるはず」
「魔法力に替えるなんて、どうやって?」
その答えはひと言だった。
「契約」
「は?」
「呪文使いは最初に契約をするだろうよ。そして例えば熱エネルギーをメラに変換して制御する。それと同じだ」
「大地のエネルギーとの契約なんて、おれ、やったことねえよ」
「だろうなあ。まだ確認されていない魔素だ。このギュータでもオレだけが“ある”と予測した。呪文との契約の成功率は、ふつう、五分。けど、おまえは自分の目でその大地のエネルギーを見てるんだ、成功率はもうちっと高いだろう」
「そんなの、当てにならねぇ」
「そうかい。それじゃ、ブラックホールに吸い込まれて死ぬしかねえなあ」
くそっとポップはつぶやいた。ポップの周りに集まってきた家具や実験機材、柱や扉の残骸が、ぐらっとブラックホールの方へ向かって揺らいだ。
「やるよ!やりゃいいんだろう!」
「話が早ぇな。周りを見て、魔法陣を描けそうな場所を見つけろ。狭くてもいい。何か書くものがあるか?」
あたりは雑多な調度や実験器具類の山だった。途方にくれてポップはきょろきょろした。
いつのまにか、実験室の扉の外には人が集まってきているようだった。
「新入門者に何をやらせる気なのよ!」
「うるさくすんならひっこんでな。オレはブラックホールの観察をしたいんだ」
「この人でなし!ほとんど未知の魔素なのに。そりゃあ契約だけならできるかもだけど、本人の素質がなかったら肝心の呪文は使えないでしょう!」
「そこが賭けなんだが、オレの予想じゃけっこういいとこ行きそうだぜ?」
あのう、とポップは言った。
「でかいフライパンがあった。あと、砂糖の壺。砂糖でフライパンに魔法陣を描いて、メラであぶって焦がせば」
よっしゃ!と答えがあった。
「そいつでいこう!メラの契約に使う魔法陣とだいたい同じものでいい。中央に五芒星、その周りに円、円の左手に太陽、右手に月のシンボル、全体を囲む二重の円……」
指定された通りのものを、ポップは砂糖で描いていき、最後に下からメラの炎をそっとあてた。
「できたか?」
「な、なんとか」
あたりには甘い匂いが漂っていた。
「こっからが本番だ。腹ぁくくって復唱しろ。『大地に眠る精霊たちよ……』」
「ちょっと待った、なんであんたが直接大地の精霊と契約しないんだ?」
「ここからだとブラックホールまで距離があるから、契約の成功率が低い。第一オレぁ忙しいんだよ。エネルギーの観測中だ。この契約もちゃんと観察しときたいしな。ほら、さっさと復唱!」
生還できたら一発殴っていいかなこいつ、とポップは考えた。
「だ、大地に眠る聖霊たちよ……」
なにせ、命がかかっている。ポップは真剣に契約をすすめた。
「我が求める呪文は……あれ?なあ、大地のエネルギーって、呪文名称あんの?」
「いいや?大地の精霊と契約するのは、有史以来おまえさんが初めてだ。そうだな、おまえはこの呪文になんて名をつけたい?」
「キャラメル、いや、ズルズル、なんか違うな……穴へ落っこちる感じだから、ドボンかな」
呆れたような声がかぶさった。
「つくづくセンスがねえなあ」
「うっせぇわ!よし、ベタン、呪文の名称はベタンだ!」
「まあいいか。『我が求めるは、重圧呪文ベタン。大地の精霊よ、契約者として認めたまえ』。さあ、魔法力を死ぬ気で魔法陣へ注ぎ込め!」
「『ベタン!大地の精霊よ、契約者として認めたまえ』」
最後の文句をポップは早口で言い切り、そのまま目をぎゅっと閉じた。
とつぜん、カラメルソースの香りがたった。はっとして目を開けるとフライパンから白い湯気のようなものが盛大に上がり、シュウシュウと音を立てた。
「今だ!大地の精霊に呼びかけろ!」
額の中心が熱くなり、すぐに全身の魔法力が沸騰しそうになった。
「大地に眠る力強き精霊たちよ……いまこそ我が声に耳を傾けたまえ。ベタン!」
●
大賢者バルゴートがギュータの里に戻ってきたとき、里では実験棟だったものの残骸を総出で片づけている最中だった。
カノンをはじめ、修行者たちから事の成り行きを聞いたバルゴートは、自室に実験責任者を呼び出し、仔細を聞き取った。
「ポップはどうしている?」
「……魔力切れを起こして気絶してます。まあ、レベル1でベタンを使ったんだ、仕方ねえ」
ギュータの里が誇る規格外の天才、かつ、生まれついての問題児マトリフは、しぶしぶ答えた。
「実験については評価する」
重々しくバルゴートはそう言った。
「おまえの仮説は証明された。ベタン系魔素は存在する。『星』は重力崩壊を起こし、その魔素は大地のエネルギーとして観測された。だが」
じろりとバルゴートはマトリフをにらんだ。
「実験の責任者としてはまったくの不行き届きだ。イオ融合が終わるまできちんと監視していなかったこと。そして、観測を優先して居合わせた子供に事態収拾を一任したこと」
師の前に座っていたマトリフは口許をへの字にして聞いていたが、がくんと頭を垂れた。
「それについちゃ何も言えねえ……あのままだったら、ブラックホールはギュータどころか世界中呑み込んでも不思議はなかったからよ。罰則でもお仕置きでも課してくれ」
「やけに素直だな」
とバルゴートは言った。
「ではこうしよう。マトリフ、ポップの導師となるように」
「はあ?」
とマトリフは声をあげた。
「あの子供の持参した推薦状は、カールのデ・ジニュアール家の署名入りだ。第一、あの子は魔法使いとしての才能に恵まれている。おろそかにしていい人材ではない」
「待ってくれ、オレが導師?!」
「恵まれていなければ、あの年の子供がまったく未知の呪文の契約に成功できるわけがない。違うか」
「違わないが、そういう問題じゃない!なんでガキのお守りを」
「そういう問題だ。マトリフ、罰を受けると言ったのを忘れたか」
「……導師なんざ、オレにできるはずがない」
いいや、とバルゴートは心中つぶやいた。あの少年、ポップは、並々ならぬ才能に恵まれている。かつて自分、バルゴートが、まだ幼かったマトリフの中に見出したのと同じレベルの力量だった。
「ポップを育てられるのはおまえだけだ」
未来視の賢者バルゴートは、そう言って笑みをかみ殺した。