真珠白 2.第二話

 かごめは消毒薬を出そうとして、あわてて空を見上げた。奇妙な寒気がする。奈落の発するような邪気とも、瘴気ともちがうが、なにかとてつもない巨大な妖気を、はるか上のほうに感じたのだった。
「ん?」
犬夜叉も首を回して空を見上げた。
「なんだ、あれは」
大けがをした犬の妖怪が、草地の上にようやくすわりなおした。
「お館さまの、お帰りのようだ」
妖気の塊は、天空を疾走してくる。四肢に白雲を踏みちらし、遠い空からこの草原まで、それは一気に駆け下りてきた。
 思ったとおり、巨大な犬だった。背後に二股にわかれた長い尾をなびかせている。真昼の陽光を浴びてきらびやかに輝く毛皮は、殺生丸のそれとおなじく、純白だった。
 この巨大な化け犬を先頭に、もう少し小さめの犬たちが後ろに従っている。小さいとはいえ、かごめの感覚では、一頭一頭が“怪獣”と呼ぶにふさわしいサイズだった。
 ついに先頭の巨大犬が着地した。犬そのものの仕草で一度体をふるわせ、かるく伸びをしたかと思うと、すぐに人の形になった。背の高い、鎧をまとった堂々たる武家の棟梁だった。長い髪を後頭部で高く結い、あとは背中に流している。かぶとも烏帽子もつけないので、彼の顔はよく見えた。
 かごめはおもわず、すぐそばにいる犬夜叉の横顔をうかがった。やはり、似ているところがある。だが、犬夜叉がまだ少年らしさを残すのに比べて、そのひとは青年の覇気と壮年の貫禄を併せ持っていた。
 真珠白の長髪に黄金琥珀の瞳は、彼の血族に共通の特徴らしい。端正な顔立ちは殺生丸によく似ているが、感情豊かな大きな目は、犬夜叉にそっくりだった。
 彼に従ってきた郎党も、地に脚をつけるやいなや、すぐに獣から人の形になり、後ろに粛然と控えている。“お館さま”は、大またで殺生丸のそばへ歩み寄った。
「まさか、殺生丸か」
殺生丸は、不思議な表情をしていた。いつものように、心を硬く閉ざした氷のような態度を保とうとしているのだが、湧き上がる興奮にどうしても心がさわぐ、そんな顔だった。たいていは剣呑に細められている目が、見開き、自分の名を呼んだ人をじっと見つめている。
 手甲をはめた手で彼は、殺生丸の顔に触れた。
「私の小さな殺生丸が、お前に会ったと言っていた」
指先をそっと、顔の刻印に伸ばす。
「この父がいない世界でも、おまえはちゃんと成長していた、と。そう聞いて、うれしかったぞ。だが、実物のお前は、聞いていた以上だ。豪腕、鬼をもひしぐ実力と、玲瓏、玉のごとき美貌……」
かごめはあっけにとられていた。殺生丸が、こんなふうに、誰かに顔をさわられておとなしくたっているところなど、初めて見た。持ち前の傲岸不遜も、人嫌いもなりをひそめている。殺生丸は、ごく自然に頭を垂れた。額が、父の肩のあたりにそっと押し付けられた。
「父上」
満足そうに息子の髪を指先ですき、彼はあたりに聞かせるように声を張った。
「武門の家にあって、世にも優れた世継ぎを持つ以上の喜びが、またとあろうか!」
後ろに控えていた一族の間から、感嘆の声があがった。
 不意にかごめの横で、犬夜叉がみじろぎした。
「おい、行こうぜ」
「だって。お父さんなんでしょ?」
「おれにも感動の再会をやれって言うのかよ。冗談じゃねえ。おれの味わってきた苦労は、たいがいやつがおふくろに手を出したせいじゃねえか。恨みこそあれ、誰が会いたいなんて思うかよ」
「そんなこと、言うもんじゃないわよ」
“お館様”は、殺生丸の体に腕を回そうとして、左腕のひじから下がなくなっていることに気づいたようだった。
「これは、どうしたのだ?」
殺生丸は、右手で袖をおさえた。
「犬夜叉に」
父親の顔で、彼は微笑んだ。
「もう、大きいのであろう。兄弟げんかは慎むが良いぞ」
「はい」
あれって兄弟げんかだったのか、とかごめは思った。
「その犬夜叉はどうした?おお、あそこか」
犬夜叉がびくりとした。
「ちっ、ほんとに行くぞ」
「だめよ!」
“お館様”は、大またで草原を横切ってくる。一族の中から、一人の武士が飛び出して、主人の脇から話しかけた。
「お館さま、お待ちくだされ」
「あとにせよ。成長した息子に会いに行くのだ」
「それをお留め申しております。たったいま、上の若様を跡継ぎとお認めになったばかりではないですか。このうえ次郎君(じろうぎみ=次男)をおかまいになれば、御跡目争いの元にもなりかねませんぞ」
かごめは、むっとした。それ以上に、どきどきした。そっと犬夜叉の顔をうかがった。大きな目に、傷ついた表情が浮かんでいた。
 声を掛けようとして、誰かにそっと肩をたたかれた。弥勒だった。
「おやめなさい。あの家来衆の言うことは、本当ですよ」
「だって、ひどいじゃない。男の子は一人でいい、なんて」
「戦国の世のならいなのです。大家であればあるほど、跡取り以外の男の子は養子に出すか、出家させるのが常識です」
けっ、と犬夜叉はつぶやいた。
「わかってるよ、そんなことは。もういいだろ、かごめ、行こう」
「でも」
ほんの少しはなれたところでは、まだ“お館様”が家来と言い争っていた。
「ふざけるでない。あの子も、わが血を分けたせがれぞ」
「そのような情をおかけになることがそもそも……お待ちなされ、お館さま!」
「あの子は、体の弱い十六夜が、わしのために命がけで産んでくれた忘れ形見だ。口出しは無用にせよ」
背を向けようとした犬夜叉が、母親の名を聞いて動きを止め、ぎこちなくふりむいた。
「なりませぬぞ、お館さま!どうか聞き分けてくだされ」
「くどい!」
ときどき殺生丸が見せる異常に距離のある跳躍を、その父親もやってのけた。ぎょっとして犬夜叉がのけぞった瞬間、“お館さま”は鼻と鼻がふれあうほどの近さにいた。
 そのまま、じっと、彼は息子を見つめていた。ふと、笑った。
「さきほど鉄砕牙を使ったのは、おまえか」
「あ、ああ」
あっけにとられた犬夜叉は、ただうなずくだけだった。
「わしは、お前を育ててやれなかったそうだな。それにしては、良い使い手になった」
犬夜叉の手があがり、腰にさした刀の鞘を、ぐっとにぎりしめた。まるで鞘の震えを抑えるかのようだった。
「どうした?この父に言う恨みがあるのではなかったか?」
犬夜叉は、赤くなった。視線をそらしてうつむき、乱暴に答えた。
「突然だったんで、忘れちまっただけだ。思い出したら、言う」
「いくらでも、聞こう」
そして、その大きな手で息子の頭を胸元へひきよせ、万感のこもった目でつぶやいた。
「わしの大事な半妖」
かごめは口元を手で覆った。
 蔑みにまみれることの多いその呼び名を、そんなふうに優しく使う人を、かごめは初めて知ったと思った。

 子猫ほどの大きさになった雲母を抱き、珊瑚は七宝に声を掛けた。
「行こうよ。うまく行ったらあの屋敷でアリを避けることができるんじゃないかな」
珊瑚たちが犬夜叉のいるところへ近寄っていくと、あのぶちのある大犬だった男が、“お館さま”に話しかけていた。どうやら、主人と家来という関係のようだった。
「留守宅の守り、ご苦労だった。おそわれたようだな。大事ないか、栂ノ尾」
栂ノ尾というらしいその武士は、なんとか平伏した。
「まことにとんだ不覚でございました。幸い、若様がお助けくださいましたので、命に別状はございません」
犬夜叉が面食らった顔になった。人差し指で自分の顔をさして、かごめに聞いた。
「若様って、おれか?」
弥勒がにやにやした。
「まことに似合いませんが、お前でしょうね」
「お坊ちゃまって感じだけはしないもんね」
「おい……」
息子たちと同じ黄金色の目が、ふとかごめの姿をとらえた。
「巫女どの、失礼だが、“かごめ”とおっしゃるのではないか?」
こんどはかごめが驚いた顔になった。
「そうですけど」
「赤子の犬夜叉が、お世話になりはしなかったか?あれはたいそうかごめどのを恋しがっていてな。乳母たちを困らせている」
珊瑚は思い出した。アリの掘ったらしい時間穴を通って、珊瑚たちの時代にやってきてしまった、“やちゃ”こと、赤ん坊の犬夜叉は、周囲があきれるくらいかごめになつきまくっていたのだった。
「じゃあ、やちゃは、ちゃんと家に帰ったんですね?ずっと心配だったんです」
「あれの兄がいっしょだったからな。心配は要らない。さあ、ここで立ち話は危険だ。ひとまず、わしの結界へまいられよ。おまえもだ、犬夜叉」
犬夜叉は、まだどこか気恥ずかしそうなようすを、乱暴な物言いでつくろっていた。
「いいのかよ。行くんなら、おれは仲間全員といっしょでなけりゃ、承知しないからな。人間ばっかだぞ?」
すでに歩き出しながら、館の主は振り向いて、こともなげに言った。
「お招きするがいい」
犬夜叉は腕を組んで、父親の後姿を眺めていた。が、珊瑚たちのほうに視線を向け、行こうぜ、というようにあごを動かして、そのあとを歩き始めた。
 “お館さま”は、歩きながら片手を優雅に差し出して、長子を招いた。
「おいで、殺生丸」
かるく会釈をして殺生丸が来る。その後を邪見と、阿吽に乗ったりんが続いた。
そのときだった。なにげなく、だが、はっきりと、“お館さま”は、その問いを口にした。
「殺生丸、その娘ごは、何だ?」
彼の視線は、まっすぐりんに向けられている。どこから見ても人間の、たよりなげな少女。りんは、竜の背の鞍の上で、ぎくりとして硬直した。
 珊瑚は思わず殺生丸に注目した。珊瑚だけではない。弥勒はおもしろそうに身を乗り出し、かごめは指を組み合わせて緊張している。栂ノ尾をはじめ、犬の一族も固唾をのんで見守っていた。
 珊瑚もどきどきしている。すきらしいすきを見せない殺生丸の、唯一の泣き所に、もしや父君は触れたのではないか……
 殺生丸は、黙って阿吽のそばへ行き、片手でしっかりと少女を抱き上げた。
「あの、あたし」
注目を浴びたりんがとまどっている。だが殺生丸は、彼女を抱えたまま父の前に出た。
「りん、です」
と、短く答えた。
「名前なんか、聞いておらん」
小声で七宝がつっこみを入れた。
「しっ」
ふむ、という仕草で、背の高い武士は小さな少女の顔をのぞきこみ、そして、何を思ったのか、小さく笑みをもらした。
「そうか。よいお子だ」