真珠白 4.第四話

 遠くから見たとき、この屋敷はまちがいなく草原の真ん中に立っていた。だが夏の館に一歩入ったとき、そこは深山幽谷だった。
 渡り廊下は、苔むした巨岩巨木の間を縫うように進んでいく。岩の間を、渓流が真っ白なしぶきをあげて走っていた。
 中門廊を過ぎ、寝殿の庇の間へ入って、かごめたちは思わず声を上げた。普通、白砂の庭と池があるべき空間に、見上げるような岩山と、そこから流れ落ちる滝があったのである。滝つぼは深い碧色で絶え間なく飛沫が上がっていた。
 蔀戸をすべて掲げ、御簾をまいて、庇の間から寝殿まで、部屋は境をなくし風通しをよくしてあった。春の館よりも気温が高いような気がするのだが、吹き抜ける風はここちよかった。
 庇の間の、庭を見渡す位置にある太い柱に背中を預けて、犬夜叉は腰を下ろした。ふう、というためいきが、その唇からもれた。複雑な表情だった。無理もない、とかごめは思った。
「失礼いたします」
若い女房たちが、膳をささげてやってきた。但馬が笑いかけた。
「なにもございませんが、冷えた瓜と麦湯でございます。どうぞお召し上がりください」
「あ、すいません」
 一人で庭を見ている犬夜叉は置いて、かごめたちは寝殿に集まった。女房たちが、かいがいしくお給仕をしてくれる。彼女たちのほとんどが半妖であることにかごめは気づいた。これほど多くの半妖を見るのは、かごめにも初めてだった。
「ええ、殿方は、法師様と、野狐殿のお二方でいらっしゃいますね?」
と、但馬が言った。
「西の対にお部屋をご用意いたしましたので、お使いくださいませ」
弥勒は合掌した。
「お言葉に甘えましょう」
但馬はにっこりした。
「ご婦人は、東の対でよろしゅうございますか?」
かごめが答えた。
「あ、はい。大丈夫です。ね、珊瑚ちゃん」
「いいよ」
但馬は困ったような顔をした。
「あの、かごめ様も?」
「え、もちろん」
「かごめ様は犬夜叉様とごいっしょに北の対にお部屋をご用意いたしましたの」
「ごいっしょに、って」
夫婦扱いされていることに気がついて、かごめは赤くなった。
「まあ、いいんじゃない、たまには」
「あやつ、一人でよい目を見おって。珊瑚、私たちも同室にしてもらいましょう」
「おことわり」
珊瑚と弥勒の会話も心臓に悪い。
 そのとき、ちょこちょことちび夜叉がやってきた。さきほどまで、瓜の中に顔を突っ込むようにして、汁とタネを飛ばしながらうれしそうに食べていたのである。口の周りに、まだ瓜の汁がくっついていた。
「かおめ、おんも行く?」
お日様のような笑顔でかごめの服を引っ張り、庭のほうへ連れて行こうとした。 寝殿から見える大きな滝や、夏の館全体を取り巻く深山のような森は、どうやらちび夜叉にとってかっこうの遊び場のようだった。このぷくぷくした手で蝉だのカブトムシだのを、二回や三回は捕まえたことがあるに違いない。
「まだよ。ほら、いらっしゃい。お口のまわり、拭いてあげるから」
腕白坊主をひざの上に抱いて、ハンカチで口の周りをぬぐってやると、ちび夜叉は神妙にじっとしていた。
 ほ、ほ、と但馬が笑った。
「まあ、不思議なこと。そうしていらっしゃると、十六夜さまと犬夜叉様のようですわ」
「おふくろは、ここに住んでたのか?」
庇の間の柱から、犬夜叉が顔だけこちらのほうを向いてそう聞いた。
「はい、お方様は、お輿入れ以来、こちらの北の対でお過ごしでした」
但馬はなつかしそうな口ぶりだった。
「秋のお館の北の方様はお亡くなりになっていましたし、お館さまもよくこちらへ通われていましたから、本当ならばこの院全体の押しも押されもしない家刀自様(=奥方様)でいらしたはずなのですが」
小さな殺生丸は、十六夜の方は表立ったところへは出てこないと言っていた。
「人間だったからか」
但馬は視線を落とした。
「どうか、お父君をお責めにならないでくださいまし。お方様は、十にも満たないお年頃からお館さまが陰になり、日向になり、また公達のお姿で、そして変化を解かれても、ずっと見守っておいでになった姫君なのです。が、十六夜様の兄上という方が妹姫の意に沿わぬ結婚を勧めようとしていらっしゃるのを見て、ついにこの院へお連れになったのでした」
弥勒が小さく、男の夢ですなあ、とつぶやいた。
「そうすると、こちらの大殿が十六夜さまを見初められたのは、姫君がずいぶんと幼いころ、ということになりはしませんか」
但馬は指をほほにあてた。
「なんでも、小さな十六夜さまが迷子になって泣いておられたのを、白い大犬の姿のお館さまがお助けになって、ご実家までお連れになったのがなれそめだとか。背中に乗せて空中を駆けると、怖がりもせず、きゃっきゃっと喜んでおいでになったそうです」
かごめは、さきほどの殺生丸とりんを思い出さずにはいられなかった。
「……すてきなお話ですね」
でもどうにも、ロリなんですけど、とかごめは思った。

 秋の館の寝殿から見る庭は果てしなく広がる林泉だった。高低差を設けた庭の中にいくつもの池をつくり、その間を水流が流れていく。楓の大樹が何本も植えられ、池を取り巻いていた。真紅の葉が舞い散り、苔むして深緑色になった地面を埋め、深い池の暗い水面をおおう。池の水面は、鯉でも飼われているのか、時々波紋がおきた。
 もちろん、対の屋にはそれぞれ、萩や桔梗、菊の坪庭があり、あるいは一面に尾花を植えて月の出を待つような趣向の庭もあるのだが、主庭園は、空気の中に水の香りを含んだしっとりとした空間だった。
「りん、おいで」
「はい、殺生丸さま!」
大きな池には、太鼓橋がかけられていた。藤色の水干姿の小さな殺生丸は、池を見下ろす橋の上で歩みを止め、少女がおいついてくるのを待った。
「こんなにきれいな、赤い葉っぱがたくさんあるの。どれが一番きれいか、決められないくらい!」
小さな袖の中に紅葉をたくさん入れて、りんはうれしそうに走ってきた。
「ここは、気に入ったか?」
「はいっ」
りんは元気よく答えた。
「とっても、きれいだもの」
「そうか」
小さな殺生丸は、笑顔になった。
「この橋は、庭の中でも高いところにあるのだ。ごらん、秋の館が見えるよ」
りんはふりむき、そしてぱっとうれしそうになった。紅葉を抱いていないほうの袖を高く掲げ、大声で叫んだ。
「殺生丸さまぁ」
西の釣殿に、大きな殺生丸がいた。知ってか知らずか、弟と同じように柱に背を持たせかけ、ゆったりと座り、何も言わずに眼下の池と庭をながめている。そのそばに、唐津が控えていた。
「まあ、あのように大声で。品のないこと」
殺生丸は何も言わなかった。いつものように、表情らしい表情もない。だが、彼の視線は、幼い自分自身と人間の少女から離れることはなかった。
 少女は、連れの少年にむかって、無邪気にたずねた。
「殺生丸さま、このお庭は、どこまでつながってるの?」
「わからぬのだ。この院全体が、父上が妖力でつくられたものだ。父上にはひとつの空間を、どこか別の場所につなげるお力がある。だからこの庭も、どこかとんでもないところへ続いているかもしれない」
りんは、目を丸くした。
「父上はときどき気まぐれに、庭を変えておしまいになることがある。夏の館でいつぞや、朝、目がさめたら、庭先が海岸になっていたそうだ」
「お部屋の中から海が見えるの?お魚が取れるね!すぐ遊びにも行かれるし」
「弟もそう思ったらしい。それで砂浜に足跡をつけて喜んでいたのだが、あっというまに波にさらわれてしまったそうだ」
「たいへん!どうなったの?」
殺生丸は池の上を指差した。
「あそこに浮かんで流れていくのを、釣殿から父上とわたしが見つけて、つかまえた。たっぷりと水を飲んでいたが、無事だった」
「つながってたんだ!」
「そうらしいな。紅葉があれほどなければ、すぐに見つかったのに」
少女はくすくすと笑った。
「もう少し先まで行こう。集めた紅葉を焼いているところがあるから」
「こんなにきれいなのに、焼いちゃうの?」
「そうしないと庭が埋まってしまうもの。それに、紅葉を焼いた焚き火でお酒を温めるのだ」
秋の館独特の、風雅な酒の楽しみ方だった。
「だから、ほら」
寝殿から釣殿へ至る長い廊下を、美しい女房たちが静々とやってきた。紅葉を焚いて燗をつけた酒を持ってきたのだった。唐津は、杯を、美貌の主の前にささげた。
 長い指が杯をとり、無言で唇に運んだ。馥郁と香る酒よりも、唐津以下の女房たちは、殺生丸の横顔に、うっとりと酔っていた。
「お酒飲むんだ、殺生丸様って」
りんがつぶやいた。
「りんは、もう少し大きくなったら、飲むといい」
りんは、真顔で首を振った。
「焚き火なら、りんはお芋焼くのがいいです」
あははっ、という笑い声が庭からあがるのを聞いて、なにごとかと唐津は首をひねった。