真珠白 8.第八話

 眼下の光景は、まぎれもなく戦場だった。見渡す限りの大地が、黒く変色している。駆り集められた化け物アリだった。一匹一匹がトラックほどの大きさがあるので、かごめの目には大地が揺れ動いて波立っているように見えた。
 あたりは、中央を流れる谷川へ向かって切り込んだ、高低差の激しい谷間だった。アリの一族の太母の住処とあって、あたりは酸で変色し、緑の影すらなかった。
 向こう岸の高い丘から、大犬の一団が現れた。白く輝く凶暴な牙で、爪で、アリの群れに襲い掛かり、むりやりに群れをこの谷間の土地へ誘導している。群の中には、背中に羽を生じた大きな女王アリもいたが、大きさで遥かに勝る犬たちは、女王アリすら意のままに追い立ててきた。
 逃げようとする個体の前には、一族の用意した炎の壁が立ちふさがって、それを許さなかった。
「凄い。一匹残らずって、本当なんだわ」
栂ノ尾は炎を避けて谷の上空を旋回していた。
「お館さまは、常日頃はひとなつこいようなお人柄ですが、戦場では厳しいお方です。あの方が一匹残らずとおっしゃったときは、確実に根絶やしです」
かごめはぞくっとした。かわいそうだから一匹残してやって、などというのが感傷だとはわかっていたし、それをやればまた、同じことが繰り返されると知っていても、どこか寒気をおぼえずにはいられなかった。
 栂ノ尾の背に同乗している犬夜叉は、黙ったまま谷を見守っていた。
「長老方です。あちらはそろそろ、けりがつきますな」
栂ノ尾が言った。見ると、一族の長老たちがそれぞれ家中の者を率いて、群れを襲っている。黒いアリの群れは、見る見るうちに切り裂かれ、あとには累々と死骸が残った。
 少し離れた河岸段丘の一番上で、一族の長がじっと立ったまま、戦況を見守っていた。そばに伝令や小姓が控えている。ときどき彼らに何かを言いつけはするが、本人はほとんど動かなかった。
 そのとき、谷の一箇所で、一匹が動いた。大きめだが、体色が薄く、羽が縮こまっている。孵ったばかりの、若い女王アリらしい。周囲のアリたちが彼女を守って逃げようと動き出したのだった。
 一族の一人が、逃すまいと刃を向けた。その男に向かって、アリたちがいっせいに酸を吐きかけた。
 目をやられたらしい。一族の男は、顔をおおって、うずくまっている。
「わしの、刀を」
族長だった。太刀持ちの小姓が、鉄色の地に雲竜を織り出した錦の袋の覆いをさっとはずした。柄頭に碧玉をはめこんだ、大きな刀が現れた。族長は、長い指でその柄をしっかりと握った。一呼吸ほどの間をおいて、族長は刃を引き出した。
「叢雲牙だわ」
かごめは思わずつぶやいた。
 族長は大またに歩いて、谷の中央を見込んだ。上段に刃をかかげる。異界の空に、黒い風がうなりを生じて巻き始めた。
「親父、やる気だ」
 伝令が走ったのか、犬の一族が負傷者を連れて退避していく。化けアリで満ち満ちた巨大な谷間に向かって、長は長大な刃を構え、気合を込めて虚空をたたき斬った。
 漆黒の渦が谷を席巻した。ぐしゃり、みしり、と気味の悪い音をたてて、化けアリの鎧のような手足が巻き込まれ、ばらばらになって吹っ飛ばされていく。
 一瞬ののち、谷は死骸で埋まった。
 なんて、荒々しい……かごめは声も出なかった。
 族長は、振り切った姿勢からゆっくりと戻った。鞘に剣をおさめ、かちりと音を立てると、ふっと息を吐き、また小姓に預けた。
「みなのもの、油断するでない」
あちらこちらから、おう、と声が上がった。谷の向こうでは、また新たな化けアリの群れが、勢子に駆り立てられてこの谷間へ集まってきたのだった。
 長老の一人が家中を連れてそちらへ向かおうとした、そのときだった。聞き覚えのある地鳴りが起こった。
「かごめ、気をつけろ。来るぞ!」
谷が揺れていた。河岸段丘の一箇所に地割れが走った。栂ノ尾がそちらへ向かって飛んだ。雲母に乗った弥勒と珊瑚が、後ろから追随してきた。
「出てくるよ!」
巨大な岩盤がめくれあがるようにして谷川へ落ちていく。そこから空中へ飛び出した一団があった。犬の一族がどよめいた。
 大き目の化けアリの一群だった。その中心に、一族の太母、女王アリを産む女王アリがいた。普通の女王アリと比べてもまだ大きいその体躯は、年を経て硬度を増し続けた、黒光りのする鎧に覆われていた。
 女王は、彼女の一族を滅ぼそうとしている敵を、憤りをこめて見下ろした。
「ひるむな!」
長の声が響き渡った。
「われわれは、アリどもの殲滅に専念すればよい!」
太母アリの威容に浮き足立ちかけた一族が、長の下に再び結集していく。あの戦評定のとき、一族の前においてあった大きな絵図面は、この世界のアリの分布図のようなものらしかった。勢子役の大犬たちが次々と化けアリの群を追い立ててくる。狭い谷に追い詰めて、一網打尽にしていく。戦闘力の低い一族の小者、雑兵たちは松明を手に走り回って、破壊をまぬがれた卵がないかどうか調べて回っていた。
 一番高いところに立って、長はほとんど動かない。が、一族の士気を支え、勇気を奮い起こして巨大アリに立ち向かわせているのがこの人だということは、かごめにもわかった。
 族長は、まっすぐに犬夜叉たちのほうを見上げた。
「あれは、まかせたぞ」

 殺戮の谷を見下ろす丘の上に、太母アリとその親衛隊は着陸した。吐きかけてくる酸をかいくぐって、犬夜叉たち別働隊が殺到した。
 栂ノ尾の背から飛び降りた犬夜叉と、あとからきた殺生丸が、次々と化けアリをほふっていく。
 戦場に居る犬の一族の目を、かごめは痛いほど意識した。特に、対岸の高い丘からじっと見守っている族長の視線を感じる。
「……はずせないわ」
弓を引き絞ってかごめは太母を狙った。が、かごめの矢は太母アリの親衛隊に阻まれた。化けアリの胴の関節につきささって、震えている。化けアリとはいえ、邪気でできているわけではないらしい。矢の効きめがいまいちなことに、かごめは小さくしたうちをした。
「ここはまかしといて!」
かごめの真横を雲母が飛び去っていく。珊瑚は彼女の武器を高く掲げ、女王の親衛隊を狙った。もともとそういう性格なのか、弱点を狙うということはない。真っ向勝負、飛来骨は化けアリどもの鎧に襲い掛かり、次々と引き裂いた。
「珊瑚ちゃん、さすが!」
かごめは、つい抑えきれずに、犬の一族のほうをちらっと見てみた。あの戦評定のとき、馬鹿にしきっていた一族の若者たちが、あっけに取られた顔でこちらを眺めている。ちょっと、気分がよかった。
 雲母の上から、弥勒が声をかけた。
「かごめ様、あの取り巻きさえ倒せばいい。あとは犬夜叉たちの仕事です!」
「わかった!」
かごめは二の矢をつがえた。気持ちが高揚してくる。一本残らず打ち尽くしても犬夜叉を援護する、そう心は決まっていた。

 親衛隊をつとめる化けアリが全滅したとき、本当にかごめの矢は尽きていた。かごめは栂ノ尾の、珊瑚弥勒組は雲母の背に乗って戦場を旋回している。今、川を見下ろす丘の上では、殺生丸と犬夜叉の兄弟が、化けアリの太母一匹に立ち向かっていた。
 殺生丸は、自分よりはるかに大きな相手に肉薄していた。太刀を大きく振り上げると、空気の渦を切り裂く鋭い音が響いた。思わずかごめは片手で耳を押さえた。耳鳴りがする。
 これはたぶん、人間の剣技とちがうのだろう、とかごめは思う。物理的な武器でダメージを与えているのではなく、彼自身の妖力そのものが敵を襲うのだ。
殺生丸が自分自身を武器として刃を振るうとき、敵が無傷でいられたのをかごめはほとんど見たことがなかった。今までは。
「!」
殺生丸の、柳のような眉がぴく、と動いた。太母アリは、攻撃をしのいでいた。
「かわしたんじゃねえのか!」
犬夜叉が、信じられない、という口調で言うのをかごめは聞いた。なんだかんだと仲が悪くても、殺生丸の実力は犬夜叉が一番よく知っている。
 紅唇をきっと噛み、再び殺生丸は、刃を舞わせた。甲羅を経た大女王は、あざ笑うように殺生丸を踏み潰そうと大木のような足を踏み下ろしてきた。その足に捕らえられるような殺生丸ではなかった。長い髪とたもと、肩の毛皮が、風になびいて、きれいな渦巻きになった。
「くそ、おれも!」
鉄砕牙を引き抜いて犬夜叉は思いきり化けアリの上に振り下ろした。高い音が鳴ったが、見事に弾かれた。真っ赤な複眼が、じろりと犬夜叉をにらみつける。
「愚か者が!」
殺生丸が叫んだ。
「そのような斬撃が通用するか!父上に何を学んできたのだ!」
「くそっ!」
犬夜叉は大刀を正面に構えた。ヒュウ、という音がわきおこる。刀身を中心に、風が巻いているのだった。
「しごかれた成果を見せてやるぜ!」
きっさきをなめらかに左下方へ滑らせ、一気に真横へ薙いだ。
「くらえっ」
風の傷が、太母アリの、前足の付け根に襲い掛かった。さしもの巨体が揺らいだ。
「やった!?」
かごめは叫んだ。が、犬夜叉は小さく、くそっとつぶやいた。
「効いてねえ」
そのときだった。恐ろしく鋭い妖力の刃が、前足の付け根、まったく同じ場所を切り裂いた。
 ギギギギ、というような、ひどいきしみ声をあげて、太母アリの肩が突然下がった。太い前足の一本が、ちぎれ落ちていた。
「あの野郎、いいとこどりかよっ」
「そういうこと、言わないの。ほら、協力すれば勝てるわ!がんばって、犬夜叉」
栂ノ尾の背中の上から、かごめは声をかけた。
 機嫌悪そうに眉をしかめながらも、犬夜叉は兄のすぐ背後に位置を取った。
「今度おめえやれよ。俺がしとめっから!」
「きさま、指図がましいぞ」
 そのときだった。奇妙な匂いが漂ってきた。
「何これ?卵が腐ったみたい」
犬夜叉がさぞまいっているかと思い、かごめはのぞきこんだ。案の定、犬の兄弟は、それぞれ大きな袖の袖口をつかんで、鼻にあてがっていた。だが、彼らの表情は不快、というよりも、あきらかに驚愕だった。
「何、いったい……」
視線を追って、かごめはぎょっとした。硫黄じみた匂いは、太母アリから、切り落とされた前足の付け根から漂っていた。じくじくとした切り口から、なにか黒いものが顔を出そうとしている。つやつやした新しい、漆黒の前足だった。
「まさか!再生してるんだ!」
栂ノ尾がうなった。
「虫ですからね。それにしても、たまらん……!」
かごめはそっと栂ノ尾の背をたたいた。
「これだけ臭いと、辛いでしょ?下へ降りて」
「申し訳ございません」
栂ノ尾は少し離れたところへ降下していく。
 一方、犬夜叉たちは、それぞれ武器を取り直していた。
「再生する力があるというのなら、頭を砕いてやるまで。何度も同じところを攻めれば」
と、殺生丸が言う。
「金剛槍破をうまく使えば、あいつの鎧は突破できる。速さの勝負だ。ぎったぎたにしてやれば、再生なんか、間に合うか」
と、犬夜叉は言う。
 かごめは頭にきた。
「なんであんたたち、バラバラの戦略たててんのよ!」
そのとき、突風にあおられて、思わずかごめは悲鳴をあげた。
「なんなの!」
太母アリが、巨大な翼を広げて、大きく羽ばたいたのだった。さすがの女王が危険を感じたらしい。狡猾にも、射程外から攻撃しようと考えたようだった。
 殺生丸がふりむいた。その視線に誘われるように、双頭の竜が、彼をめがけて飛来してくる。さっと飛び乗って殺生丸は空中を駆けた。
「てめえ!ぬけがけしやがって」
「犬夜叉!」
かごめは駆け寄った。
「いいかげんにしないと、怒るわよ?」
う、とつぶやき、犬夜叉は上目遣いになった。
「だってよ……」
上空の戦場では、火花が飛び散るようだった。片手のないことなど、微塵も感じさせない手綱さばきで、彼は阿吽をあやつっていた。唇に手綱をくわえて鞍から腰を浮かせ、太刀をかまえてすれ違いざま、攻撃を加える。それは常に、太母アリの頭部、眉間を狙っていた。
 二度、三度、妖気の刃は太母アリを襲った。巨体に似合わない小回りで、太母アリは苛烈な攻撃を避け続ける。時折、岩を砕くようなあごを広げて、襲い掛かってきた。
「危ねぇっ」
犬夜叉が叫んだ。振袖の袂、その左袖が、食いちぎられたのだった。殺生丸の眉間にしわが刻まれた。
「阿吽が、疲れてきてる」
主人の闘志に応えようと、竜は懸命にがんばる。が、体力の差はどうしようもないらしかった。
 下の戦場では、またアリの群れが追い立てられた来た。もうだいぶ個体の数も少なくなってきている。何度目かの闘志をふるって、犬の一族が群れを殲滅にかかった。
 太母の大きな複眼が、きら、と光ったようだった。突然翼をたたみ、太母は死骸で埋まった谷へ急降下しようとした。
「ちっ」
殺生丸が阿吽を急がせたが、竜はもう、激しくあえいでいる。
 上空から犬の一族に迫る太母に、まず族長が気づいた。再び叢雲牙が吼えた。太母アリは危ういところで黒い竜巻を逃れ、警戒するように上空を回った。
「かすったか……」
族長は冷静につぶやくと、上空を見上げた。
「どうした、わが子よ!お前たちの力は、そんなものか!」
怒りのあまり、ひゅっと音を立てて殺生丸が息を飲み込んだ。阿吽はもう、へとへとになっている。
「てめえ、射程距離まで降りて来いっ。ぶった斬る!」
地上では太母アリに向かって、犬夜叉がわめいていた。
 殺生丸は何を思ったが、突然太刀を鞘に収めた。あぶみの上に立ち上がり、右手一本で手綱をつかんだ。
「邪見のところへ戻れ」
阿吽に指示を与えると突如手綱を放して大気に身をゆだねた。まず仰のけに、それからまっさかさまに殺生丸が落ちていく。
 かごめは息を呑んだ。そこは、谷間の真上。かごめと犬夜叉のいる崖の上よりも、はるか下のほうに大地がある。たたきつけられたら、いくら彼でも命がないのではないか……
落下しながら、殺生丸はかっと目を見開いた。
「犬夜叉!」
大声で弟の名を呼んだ。
「犬夜叉、来い!」
犬夜叉はうなった。
「くそう、それっきゃ、ねえか!」
言うなり、断崖にむかって犬夜叉は走り出した。
 かごめは思わず悲鳴をあげた。
「やめて、飛び込む気なの!?」
返事もせず、犬夜叉の素足ががけっぷちを蹴った。
 きゃああっ、とかごめが叫んだのと、犬夜叉の体が谷の下のほうからあがってきたのと、ほぼ同時。かごめはぺたりとすわりこんで、呆然と見つめた。
 犬夜叉は、白い大きなものにまたがっていた。あまりにも大きいので、全体が谷から姿を現すまで、時間がかかった。真紅の瞳、純白の毛皮。長い尾をたなびかせる、巨大な化け犬、殺生丸だった。
 夜風に乗って天へと駆け上がるその姿を見上げて、彼らの父親が、ふっと口元をほころばせた。

 太母アリの巣であった渓谷は、はるか眼下に遠ざかっていく。上空の風は容赦なく顔面に襲い掛かってきた。かなり、風が冷たい。冷涼な空気が、犬夜叉の髪を長くなびかせる。水干のあわせから、身ヤツ口から、冷気は流れ込んできた。が、不思議と寒いとは思わなかった。視界の中心には、あの太母アリを捕らえている。何度か、犬夜叉たちの斬撃を浴び、獄竜破までかすったというのに、まだ闘志満々だった。
 最初小さかった化けアリの太母は、みるみるうちに視界いっぱいにのさばってきた。殺生丸が変化をといてこの姿になっても、太母アリは倍近い大きさがあった。しかし、的はでかいに越したことはない。太母を見据えて、犬夜叉は叫んだ。
「よしっ、正面だ。もっと上がれ」
「物言いに気をつけろ。振り落とすぞ」
殺生丸の声は、頭の中に響いてくる。けして機嫌はよくなさそうだった。
「この兄が背を貸してやるなど、金輪際ないと思え」
「おれだってな、好き好んで」
「前を見ていろ、バカ者」
「バカ言うな!おれだって、協力するのは今だけだ」
犬夜叉はじっと前を見つめ、毛皮の上に低く伏せている。
「あれは、こざかしい。一度失敗すれば、近寄ってこなくなるかもしれぬ」
「わかってる。あいつを逃したら、元も子もねえ。一撃必殺でしとめてやる」
犬夜叉は、鉄砕牙を鞘から引き出した。柄を逆手に持って、巨大な刃を体側に隠すように構える。殺生丸は一筋のためらいもなく、化けアリにむかってつっこんでいく。
 ついに大女王は、鋼鉄のあごを大きく開いた。いやなにおいが漂ってくる。
「あいつらの、酸……?いや、妖気の匂いがする」
ぐっと構えなおした。
「ちょうどいいや、爆龍破をお見舞いしてやる」
つんと来る異臭とともに、妖気の渦が襲い掛かってきた。
「頭さげろ、殺生丸!」
すさまじい風圧をこらえて、犬夜叉は立ち上がった。
 次の瞬間、どっと風にあおられて身体が浮いた。
「うわっ」
空中に放り出された犬夜叉の上を妖気の竜巻がすれすれにかすめていく。殺生丸は敏捷に竜巻を避け、急降下して弟を背中で受け止めた。
「この、おおばかものがっ」
「うっせぇ。だいたい、わかったんだ。もう一回やる」
殺生丸は、腹立たしげにいきなり方向を変えると、再び太母アリにむかって猛進を始めた。
 犬夜叉は、兄の首筋から耳にかけての豊かな毛皮をぐっとつかんで、ほとんど彼の頭に覆いかぶさった。再び刀を構え、風圧に耐えて半眼を開き、ターゲットを見つめる。
 もう眼下の谷では、殺戮はほとんど終わっていた。化けアリの群れは殺しつくされて、物言わぬ姿で文字通り谷を埋め尽くしている。犬の一族の者たちにも、疲労の色が見える。が、一人族長は、腕を組み、じっと天の戦場を見上げて動かなかった。
 太母アリは、再び怒りを込めて、あごを開き始めた。
「来るぞっ」
すでになじみになった匂いが漂ってきた。満々とたたえられた妖気は、すでに渦を巻き始めている。
「まだだ」
犬夜叉はつぶやいた。早すぎては効果が薄く、遅すぎると死ぬ……
 何かに引っ張られるようにして犬夜叉は刀を振り上げた。妖気の渦が勢いよく噴出してきた。
「いけっ、まきこめ!」
 真一文字になぎ払った。
 真下でかごめが、叫んでいるような気がした。
 雲母が低空で旋回しているのを見たような気がした。
 そして、谷の対岸で、父が見守っているのをなぜか意識した。
 突然、雷鳴のような音が響き渡った。異種の妖気がからまりあい、互いを押し合っている。
「ふりきれ!」
兄が叫んでいる。
「くそっ」
犬夜叉は気合を入れた。
 妖力の力比べは、実際はまばたきするほどの間しか続かなかった。耳をつんざくような轟音とともに、化けアリの大女王は青光りする妖気を全身に浴びて、砕け散り、空中に四散した。

 かごめは、ほっと息をついた。先ほどから上を見上げすぎて、首が痛くなるほどだった。自分の矢の届かないところで犬夜叉が一人で戦っている。それは、狂おしいような気持ちだった。
「いぬやしゃーっ」
聞こえるかどうかわからないが、かごめは叫び、手を振った。殺生丸の頭の上から、犬夜叉が手を振っているのが見えた。
 殺生丸は、まっすぐに降下してきた。犬夜叉と何か、言い争っているらしい。突然大犬は巨大な頭を振りたてた。うわっと叫んで、犬夜叉が落ちてきた。もうだいぶ低いところまで降りてきていたのでケガはしなかったらしいが、地面から起き上がって、痛そうに腰をさすっている。
「大丈夫?」
「ああ。あのやろう、降りろって」
かごめは思わず笑った。
「しょうがないわよ。りんちゃんの特等席を貸してもらってたんだから」
殺生丸は憤然と尾をたなびかせ、空の上を駆け去っていく。
 谷の対岸では、一族の小者たちが、大きな木の樽をいくつも転がしてきているところだった。その中身を、谷全体にぶちまけている。族長が片手を一度挙げて、さっとおろすと、八方から谷に火が放たれた。黒煙がもうもうとあがり、化けアリの死骸が累々としている谷間は炎の海と化した。
 かごめたちの背後に、弥勒と珊瑚が無言でやってきた。犬夜叉を含め、4人は、しばらくの間、戦争の終焉を黙って見つめていた。
 ふとかごめが見上げると、族長と目が合った。ふっと口元に微笑を刻んで、何も言わぬまま、彼はきびすを返した。