黄金琥珀 1.第一話

 その爪は長く、鋭い。
 その足は俊敏そのもの。
 その瞳は金色に輝き、冷静さを保っている。
 その髪は銀糸に似て、首の辺で切り髪となって揺れていた。
 森を縫って疾走してきた藤色の人影が、突然宙を舞った。太い枝を蹴ってさらに高度を得る。真下にむかってその爪を突き出し、彼は追ってきた敵を切り裂いた。
 馬の顔をした雑妖が、頸部を深く裂かれて昏倒した。なんとか起き上がろうとするが、爪から滴る強烈な毒が、たちまち全身にまわっていく。彼は低い姿勢で戦闘態勢を保ったまま、見守っていた。雑妖は何度か痙攣して、動かなくなった。
 冷静にその死を確認して、彼は、立ち上がった。右手を一振りして、雑妖の体液をふりはらった。
「そこにいるな、犬夜叉」
まだ子どもの、幼い声だった。
 犬夜叉は、めまいを感じていた。
「おまえ、殺生丸か?」
犬夜叉は茂みを抜けて、彼の前に出た。
 それはまちがいなく、殺生丸だった。そもそもこの森へ入ったとき、殺生丸のにおいをかぎつけて、いったいどこにいるのかと思っていたのだった。まさか、こんな彼と出くわすとは思っていなかった。人間でいえば、7~8歳の童子の姿だった。
 珍しい姿だったが、犬夜叉はもう一つ驚いた。小さな殺生丸が、犬夜叉を見上げて立ち止まり、目をまるくしたのだった。
「匂いは犬夜叉なのに。なぜそんなに大きい?」
「おれが大きいんじゃない、おまえが小さすぎるんだ」

 小さい殺生丸は、自分は歩ける、と主張した。が、犬夜叉は容赦なく異母兄を抱き上げて走り出した。
「じゃ、なんかヘンなとこを通ってきたんだな?」
走りながら聞くと、殺生丸は、小さな声でそうだ、と言った。
「どうした?」
「早すぎる。気持ちが悪い」
 犬夜叉は足をとめた。腕の中の少年は、赤い水干の袖をぎゅっとつかんでいた。
 弱音を吐く殺生丸というのも、ついぞ見たことがないものだったので、犬夜叉は足をとめて少年をおろしてやり、しげしげと彼を見守った。
「ええと、おまえが通ってきたのは、なんか井戸みたいなもんか?」
「いや。外へ抜け出して川沿いを歩いていた。荒れ寺のようなものの中へ入り込んでおまえと遊んでいたら、急におまえの姿が見えなくなった。匂いも消えた。暗がりを探っていたら、いきなりぐらっとして、それから先ほどの森にいた」
早口に殺生丸は説明した。
「遊んでいたって、おれとか?」
「もちろん、ひどく小さいが。とにかく、犬夜叉を探す。手伝え」
真剣な目で殺生丸は訴えた。
「そりゃ、まあ、いいけどよ」
「あの犬夜叉は、まだ赤ん坊なのだ。どこかで泣いていなければいいのだが」
犬夜叉は頭をかりかりとかいた。
「泣いてるって?おれが?おまえを、恋しがって?」
「ああ」
当然とばかりに殺生丸はうなずいた。
「もう少し行ったところに、風が吹いてあちこちのにおいがまじりあうところがあるんだが」
しかたなく、犬夜叉は言った。
「小さいほうのおれが近くにいるかどうか、わかるかもしれない。行くか?」
腕を差し出すと、殺生丸はおとなしく抱かれ、自分の両腕を犬夜叉の首に回した。
「おまえ、左腕が」
あってあたりまえだった。犬夜叉は小さく舌打ちした。
「腕がどうかしたか?」
あどけないような目で子どもの殺生丸は犬夜叉を見上げた。衝動にかられて、犬夜叉は小さなからだを抱きしめた。
「ごめん……痛かっただろう」
「なんのことだ」
「なんでもない。行くぞ」
さすがにこの子どもに、おれは一回この細い腕をぶった切ったことがあるので、とは言えなかった。

 邪見は、袖で口元を覆ってあくびを隠した。とうに夜半を過ぎている。阿吽の背で、りんもうつらうつらとしているらしい。落ちてくれるなよ、と邪見は思っていた。
 一行は深い森の中を歩いていた。殺生丸が例によって、どこへ行き、何をする、などの説明を一切しないので、邪見には主の意を知るすべもない。が、今夜はそろそろ野宿にしてはくださらないか、と邪見は思っていた。
 突然、前をい歩く主の足が止まった。
「殺生丸さま?」
 さやさやと夜風がこずえをゆすっていく。葉づれの音の中から、殺生丸は何か別の音声を拾っているようだった。
 わずかに落ちる月明かりに、純白の毛皮が光る。右腕の袖が、かすかにあがる。
 いきなり主は、呼んだ。
「犬夜叉、そこにいるな」
きゅっ、と言うような声がした。
 邪見は目を凝らした。殺生丸が見ているのは、森のその辺りでも、とりわけ大きな古木だった。ふしくれだった根っこが地面を突き破って露出し、からまりあっている。一番下の根っこを、小さな手がつかんだ。
「おおぅ!」
思わず邪見は叫んだ。
「せ、殺生丸さま、あ、あれは」
主人は無言だった。
 小さな手の後ろに獣の耳が二つ、そろそろとあらわれた。人の手と、獣の耳。その組み合わせは、まるで。
 耳があがりきると、今度はかすかに光る白銀の髪が、そして、丸い琥珀色の目がでてきた。
「あれは、半妖ではありませんか!」
殺生丸は何も言わずに近寄った。
「び~ぃ!」
甲高い子供の声があがった。樹の根元から、赤い水干を着た、二歳くらいの子供が飛び出してきた。必死の形相で木の根をよじおり、あっというまに殺生丸の足元へやってきた。
「あにしゃま~」
 小さな半妖は両手で殺生丸のはかまをつかみ、わんわん泣きだした。鼻水の垂れた顔を、指貫におしつけようとする。
「こ、こりゃ!殺生丸さまに、何すんじゃ!」
だが、子供は殺生丸を放そうとしなかった。
「邪見さま」
りんが起きたらしい。声を掛けてきた。
「その子、犬夜叉?」
邪見は目をぱちくりした。殺生丸が片手で半妖を抱き上げている。み~、と甘えた声を上げて、ちびすけは殺生丸の肩先に顔をこすりつけた。
「あ、あの、殺生丸さま」
殺生丸は、ふいに向きを変えた。そんな、ばかな。と邪見は心の中でつぶやいた。殺生丸様が、半妖を抱き上げる、だなんて。いったい、どんな顔をしていらっしゃるのだろう?
 邪見の位置から、殺生丸の顔は見えなかった。いつもと同じような、低い冷静な声が上から降ってきた。
「行くぞ、邪見」

 犬夜叉が仲間たちに合流したのは、翌日のことだった。かごめも弥勒も珊瑚も、そして七宝も、犬夜叉の連れてきた子供が彼だとは、最初どうしても信じようとしなかった。
「だって、この子、かわいい…」
「女の子かと思いますね」
弥勒は、指で童子の柔らかなほほにそっと触れた。
「ときどき、そう言われる」
「そう言われるのは、お嫌いですか?」
殺生丸は首を振った。
「私は死んだ母に似ているそうだ。しかたがない」
「さぞかし、お美しかったのでしょうなぁ」
弥勒は、目の前の子どもを通じて、絶世の美女を見ている顔になっていた。
「法師様、目がやらしいよ」
珊瑚は、少年をひったくるようにした。
 かごめは、横目で犬夜叉のほうを見た。おそろしく複雑な表情で、小さな殺生丸を眺めていた。
 たしかにその子どもは、とても素直でかわいらしかった。話し方は、口数の多寡を別にすれば今の殺生丸とあまりかわらないのだが、幼い声で話すので尊大と言うより、ほほえましかった。
「あの子がどんなふうに育ったら、ああなるのよ?」
「おれに聞くな」
 おそらく、犬夜叉も同じことを考えているに違いない。たまにしか顔を合わせないのだが、会えば会ったで、生きるか死ぬかの殺し合いをせずにはいられない、やっかいな異母兄のことを思い浮かべているようだった。
「おまえたちは、人間か?」
「そう。あたしは、珊瑚。こっちは、かごめちゃんと、弥勒法師さま。みんな、あんたの異母弟の犬夜叉の友達」
「そうか」
 童子の殺生丸はやや緊張をゆるめて、ふっと微笑んだ。後年の特徴である、氷のような視線はまだ持っていない。
 初めて会った時の殺生丸をかごめは思い出した。すでにあのころ、冷酷な若者ではあったが、第一印象は“あどけない”という雰囲気だったのだ。
 藤色の水干(ふわふわもこもこSサイズ付き)にたっぷりしたくくり袴のこの少年が、幼い残酷さに満ちた妖怪の貴公子に変貌するまでには、何があったのだろうか、とかごめは思った。
「ねえ、殺生丸、聞いていい?」
少年はふりむいた。
「なんだ?」
「あなた、人間は、きらい?」
殺生丸は、片手で前髪をすくいあげるような仕草をした。顔を隠したのかもしれないとかごめは思った。
「私の母は、人間に殺されたのだ」
かごめは息を呑んだ。
「おい、まじかよ。おれは、知らないぞ!」
殺生丸は犬夜叉のほうを向いた。
「本当だ。おまえは小さすぎるから、そんなことは教えなかっただけだ。いまだに言っていないのか、わたしは?」
「ああ」
「ならば、わたしも詳しくは言うまい」
小さな沈黙がおりた。
「あ、あの」
七宝だった。
「これを、やる」
七宝は、藤色の水干の膝の上に、どんぐりを置いた。
「大きいおまえに、このあいだ世話になったのじゃ。その礼をしようと思ったのだが、おまえは行ってしまったから」
殺生丸は、どんぐりをとりあげた。
「ふん。おまえ、“やこ“か」
「やこ?野狐か。そうじゃ」
くす、と殺生丸は笑った。
「もらっておくことにしよう。不思議な縁だな。私の母は、仙狐だった」
今度こそ犬夜叉が目をみはった。
「なんだとうっ?」
「待て、犬夜叉」
 殺生丸は、風の匂いをかぐような顔になった。
「風下へ回れ、犬夜叉。においがまじってしまう。いや、わかった。あちらのほうだ。おまえのにおいが、もう一つある」
「おれの匂い?わからねぇぞ」
「あいかわらず、鼻がきかぬな、おまえは。もっとも、自分のにおいなど、遠くからかいだことはないか」
「てめぇ、ほんとに殺生丸だな。ほら」
犬夜叉は片膝をついて、背を向けた。
「乗りな。連れてってやる」
 小さな殺生丸が指示したのは、犬夜叉たちのいる草原を南に向かって進んだところで、川沿いの渓谷だった。
 木々の間をしばらく歩くと、小さな空き地に出た。
「犬夜叉、おろしてくれ」
小さな殺生丸は、森の下草を沓の下に踏みしだいて、大木の根元にかけよった。
「起きろ、邪見!」
太い木の根の間に、殺生丸といつもいっしょにいる従者の妖怪が眠りこけていた。
「邪見、わたしだ。起きろっ」
ゆさぶっても、邪見は目を覚ます気配がなかった。小さな殺生丸は、大木の根方にかけてあった人頭杖をかかえあげた。童子の身にはあまるほどの杖で、おもいきりよく彼は邪見をなぐりつけた。
「いてぇっ」
邪見が飛び上がった。
「邪見、わたしだ。犬夜叉はどこへ行った?」
真正面から顔を見て殺生丸は邪見に聞いた。
 邪見は、上から下までしげしげと幼い姿の主人を眺め回し、そのうしろのかごめたち一行を見上げ、一度目をつぶり、また、開いた。
「その、小さな犬夜叉のことでございますな?」
「そうだ」
「りんが、川へ連れてまいりました」
「りんとは、なんだ?」
はああああ、と邪見は盛大にためいきをついた。
「ほんとにもうっ、なんでこんなことになっとるんじゃ」
ずかずかと犬夜叉が近寄り、邪見の襟首をつかみあげた。
「こっちが聞きてえよ。おい、やつはどこだ」
「殺生丸様は、おでかけだ」
「ああ?でかけた?」
邪見は、なんとかうなずいてみせた。
「夕べちびの半妖を森で拾われて、どうなさるおつもりかと思っていたら、朝からどこかへ行ってしまわれた」
「犬夜叉!」
「なんだよ、ちびの殺生丸」
「静かに」
かごめの耳にも、殺生丸の聞いている音が飛び込んできた。甲高い、幼児の声だった。と、同時に女の子の声が“待って”と言いながらおいかけてきた。
 がさがさと下草が揺れた。そのむこうから、1、2歳の男の子がやってきた。
「あにさま~」
赤い童水干の袖を一生懸命前へ延ばし、幼児はちょこちょこと走ってくる。かごめは片手で口を抑えた。
「耳……」
まぎれもない、犬耳を、その子は持っていた。
 小さな殺生丸が呼んだ。
「兄は、ここだ!」
 幼児は、全幅の信頼を見せて少年にすがりつき、みぃみぃと泣き始めた。涙でぐしゃぐしゃの顔だが、それは、犬夜叉だった。
 小さな殺生丸は、その場にしゃがみこみ、探していた弟を胸に抱えた。
「一人で勝手に行ってはだめだと、兄は言ったはずだぞ」
「あにさま」
それは、あにしゃま、に聞こえた。
「ごめなしゃい」
殺生丸は、ためいきをついた。
「おこってない?」
「しかたがない、許す。わたしは、おまえの兄さまだからな。でも、今度一人で行ってしまってはだめだぞ」
かごめの隣で珊瑚がつぶやいた。
「うそ……かわいい」
「う、うん」
かごめは感動していた。乱暴で、ぶっきらぼうで、不器用な、犬夜叉の、なんともたよりない、幼い姿である。
「これがどう育ったらこうなるのよ」
ふと、かごめが目を上げると、木の間に、7~8歳ぐらいの女の子が立って、こちらを見ているのが目に入った。琥珀に殺されかけた、あの少女だった。
「おお、りんか」
「邪見様」
りんと呼ばれた少女は、人なれしていないようすで、おずおずと寄ってきた。彼女が見ているのは、邪見でもかごめでも、犬夜叉でもなく、童子姿の殺生丸だけだった。
 珊瑚が声をひそめて言った。
「桔梗があのちび夜叉を見たら、さらって逃げるんじゃないの?」
「ほんとに、そうかもね」
 かごめはまだしゃくりあげている小さな犬夜叉を見に行った。赤くなった目で殺生丸の袖の陰から、ちび夜叉はかごめを見上げた。
「み~?」
ふっくらした顔の曲線を、かごめは知っていた。月の出ない夜、ふと犬夜叉が見せる横顔の、ひどく幼いようなそのラインだった。かごめはそっと手を伸ばして、幼児の髪にふれた。なじみのある感触だった。
「抱っこ、してもいい?」
殺生丸は、かごめに小さな弟を抱かせてくれた。ちび夜叉はさかんに鼻をすりつけた。匂いをかいでいるらしかった。
「大丈夫よ。いじめたりしない」
ちび夜叉は、童水干の袖を回し、安心したようにかごめの肩に顔をおしつけてすりすりとなついた。
 珊瑚が、あっとつぶやいた。
「かごめちゃん、その子の、おしりに……」
言われてみれば、抱えあげた腕に、なにかやわらかいものがさわる。毛皮のような感触だった。
「これ、なに?」
弥勒が近寄ってきた。
「尻尾ですね、これ」
かごめは首を回してのぞきこんだ。それはたしかに、短めの、子犬のしっぽだった。うれしそうにちび夜叉はしっぽをふりふりしていた。かごめは思わず、犬夜叉のほうを見た。
「あったんだね……」
「ないのが不思議でしたよ」
犬夜叉は聞こえないような顔をしていた。
 かごめは、記憶をたどった。が、犬夜叉が水干の上着を脱いだのは見たことがあっても、はかまをとったところは見たことがない。見せて、とも、ちょっと言いにくかった。
「貸せよ」
いきなり犬夜叉が言った。かごめは、なんとなく犬夜叉の顔を見るのが恥ずかしいような気がして、顔をうつむけながら幼児をそっと渡した。
「み~」
小さな犬夜叉が抗議の声をあげた。当の本人に抱えられながら、かごめのほうへ必死に手を伸ばしている。
「び~、び~」
「黙れ、こら」
ちび夜叉は、背中をそらせて暴れ、大きい犬夜叉の腕から飛び降りた。怒った猫のように地面に両手をつき、ふ~、とうなってみせた。
「てめぇ、見さかいなしに威嚇してんじゃねぇ!」
「要するに、この時分から精神的にあまり育ってないのじゃな、犬夜叉は」
七宝があきれたようにつぶやいた。弥勒と珊瑚は、腹を抱えて笑っていた。
 殺生丸が、やけに静かだった。見ると、りんが、おそるおそる、見慣れない姿の殺生丸に近寄っていた。
「……」
「おまえが、りんか?」
「はい」
小さな殺生丸は愛らしい笑顔を見せた。
「弟が世話をかけたようだな。ありがとう」
りんは、卒倒しそうだった。
「おまえ、人間か?」
「はい」
幼い殺生丸は邪見のほうを振り向いた。
「ええと、殺生丸様がお拾いになった娘で」
「わたしが?」
「はあ」
「なぜ」
「わかりません」
「では、本人に聞くか」
そう言って彼は、空を見上げた。
 ちび夜叉に手を焼いていた犬夜叉も、ん、とつぶやいた。
 森の中を、一陣の風が吹き抜けた。こずえの先をかすめて、竜が舞い降りる。阿吽、と名づけられた、殺生丸の騎獣だった。