黄金琥珀 6.第六話

 かごめは、弓をかまえたまま、夜の村の中を走り出した。
「あれが、追いついてきたんだわ!」
「見たことあんのか!」
すぐそばを犬夜叉が走る。
「井戸の中……時間の流れの中にいたの。流れを食って、穴を開けていた!」
それはかごめの直感だった。
 青く澄んだ時間の流れを、食い破り、穴を開け、黒く変色させていたもの。
「あれは、蟻じゃないか!」
ぞっと身震いして珊瑚が言った。確かに蟻だった。ただし、一匹一匹が民家ほどもある。それが群れを成してご神木の森から村へ這い出てきたのだった。
「骨食いの井戸を貫通させたのも、こいつらなのかしら」
「それはわからねーけど、やるしかないみたいだな!」
犬夜叉の手が、妖刀の柄にかかった。
「待って!」
高い声がした。小さなほうの殺生丸が、外に出て、巨大な昆虫をにらみつけていた。
「殺生丸、小屋にいて!」
だが、少年は戦列まで走ってきた。
「こいつだ!私が時間を越えたとき、焦げ臭い匂いをかいだ。あいつらから同じ匂いがする」
「なんだと?!」
弥勒がうなずいた。
「それで匂いの源が、移動していたのですか!」
「けど、どうすんだ?」
小さな殺生丸は、じっと巨大な虫を見ていた。
「私なら、できる」
少年は犬夜叉を見上げた。
「あいつらはどこかに、“穴”を持っている。そこへ入れれば匂いをたどって私は館へ戻れる」
「本当か!?」
「生まれ育った場所の匂いを忘れるものか!」
「よしっ」
犬夜叉は鉄砕牙を引き抜いた。
「あの虫けらども、ぶった切ってやる。そうしたら“穴”を探せ」
「わかった。私は、弟を連れてくる」
小さな殺生丸は、小屋へ駆け戻っていった。
「村の人はみんな逃げたわ。犬夜叉、やっちゃって~」
「おう!」
巨大な刃のまわりに、風が巻きはじめる。巨大蟻の群は、丸太ほどもある足をとめ、危険を感じたかのようにうずくまった。
「くらえ!」
白く輝く竜巻が、側面から大蟻に襲い掛かった。風の軌道は、黒光りする体にまともにあたり、頑丈な外殻を引き裂いた。
 後ろのほうでは、すでに飛来骨がうなりをあげ、法力のこもった札が乱舞している。
 かごめも矢をつがえた。
「あたれ!」
念じるまでもない。的はなんとも巨大で、矢はおもしろいようにあたった。一匹が、見るからに恐ろしい顔をねじ向けて、かごめのほうを見た。悪意、とかごめはとっさに思った。
 次の瞬間、蟻は音を立てて何か吐き出した。飛沫がかごめのところまで飛んできた。
「きゃあ!」
「なんだ、毒かっ?」
犬夜叉が飛んでくる。しぶきが飛んだのは、かごめの制服の袖だった。
「ううん、毒じゃないけど」
腕を動かして、かごめはびくっとした。
「あ、いたっ」
「かごめちゃん!」
珊瑚が腕を抑えた。
「大丈夫よ。袖に穴が開いただけ」
「これ、毒じゃない。酸だ。蟻は、酸を持ってるのが多いから、この化け物も、たぶん」
それでぴりっとしたらしい。かごめは唇をかんだ。
「みんな、注意して?特に弥勒様、風穴開いちゃだめよ?」
「ええ。虫は、どうも鬼門だ。が」
弥勒は複雑な顔をした。
「札が、つきました」
「あたしの矢も、残り少ないわ」
倒しても倒しても、大蟻は仲間の屍を踏み越えて向かってきた。気がつくと、かごめたちは完全に取り囲まれていた。
「これだけの数、どこから沸いてきやがる!」
「だから、どっかにあるのよ、“穴”が」
村人の、つつましい小屋を遠慮もなく踏み砕いて、蟻は集まってくる。
 じゃら、と音を立てて、弥勒が数珠を解きはじめた。
「しかたがない」
「待って、あそこ!」
楓の小屋の出口に、小さな人影があった。
「殺生丸とちび夜叉!どうしよう」
「おい、こっちだ!」
 藤色の水干姿の少年は腕に幼児を抱え、おぞましい虫の群れを見て、一瞬ひるんだ。が、意を決したかのように少年は跳んだ。俊足も跳躍距離の長さも、半妖の比ではない。不快そうに眉をしかめたまま、彼は跳び続けた。が、大蟻も数だけは地を埋め尽くすほど多い。波が寄せるような勢いで、少年を求めて大きく動いていく。
 ちっ、と小さな殺生丸がつぶやいた。片手だけでなんとかちび夜叉を抱くと、もう片方の手を懐に入れ、何か取り出し、蟻の群れに向かって投げつけた。
 轟音が響いた。巨大な火柱が立ち上がる。何十、何百という蟻が、あっというまに黒焦げになった。
「なに、あれ?」
答えたのは、七宝だった。
「あれも、狐火なんじゃ」
かごめは目をむいた。
「あれが?」
そういえば、狐の一族の血を彼はひいているのだ、とかごめは思い出した。それも、一族のおそらく最高位に近い血統を。
「今投げたのはたぶん、おらのやった、どんぐりじゃ。じゃがおらと殺生丸とでは、どんぐり一個にしこめる妖力のケタがちがうんじゃ」
まだ燃え続ける火柱の上を、何かが飛び越えてきた。
「阿吽が来た!」
大きな殺生丸は鞍から飛び降り、少年の自分と弟を竜の鞍の上のりんの後ろへ乗せた。
「行け!」
阿吽はまっすぐに舞い上がった。
 珊瑚はふりむいた。
「雲母、お願い!」
妖猫はあっというまに巨大化した。
「乗って。とにかく、村にいちゃだめだ。場所を移そう!」
弥勒は珊瑚の後ろへ飛び乗ったが、犬夜叉は首を振った。
「おれは、残る」
「犬夜叉!」
「あいつが残ってんのに、おれが逃げられるか!」
「あんたが行かなかったら、かごめちゃんどうするのよ!」
かごめは顔を上げた。
「あたしは大丈夫。子供たちを、お願い」
かごめが言う間に近寄ってきた一匹を、犬夜叉が切り捨てた。
「早く行け、珊瑚」
「珊瑚、ここは言うとおりにしましょう」
 雲母は四肢に炎を生じている。ふわりと舞い上がった妖猫の上から、珊瑚は声をかけた。
「きっと、迎えに来るから!」
「大丈夫。行って!」
 純白の大猫は、暗い夜空をまっしぐらに駆けていった。何匹か、蟻がぎちぎちと音をたて、雲母に頭を向けた。酸を吐きかけるつもりらしい。かごめは貴重な矢の一本をつがえた。
 いきなり、ずん、と腹に響くような音がした。鎧でできているような蟻の頭が、二つ、三つ、ころがり落ちて、体液を撒き散らしながら地べたに転がった。
「殺生丸」
かごめはつぶやいた。蟻の群れの向こうに、幅広の無反りの太刀を手にした殺生丸が立っていた。
 半眼閉じて夜風に吹かれている。舞扇が似合いそうな手には、闘鬼神が握られていた。
 右手があがる。
 太刀が空間を水平になぎ払う。振り切った刀の切っ先から、刃、柄、白魚の指、毛皮におおわれた肩、一筋の乱れ髪がかかる首筋、そして横顔まで、一直線にそろった姿は、ぴんと張り詰めた美しい止め絵だった。
 その直線に沿って、次々と化け物蟻の首が転がった。
「かっこつけやがって」
けっとつぶやいて犬夜叉は、自分の得物を握りなおした。
「こっちも行くぜ!」
言い終わる前に鉄砕牙が吼えた。
「……」
かごめが矢を使う機会などない。蟻の大群も、半分以上やられ、残った個体は逃げ腰になっていた。
「よし、もうちょっとだ」
そのとき、殺生丸の目が、かっと開かれた。顔を夜空へ向け、険しい表情で何か探っている。
「来る」
「ああ、わかってる!」
犬夜叉の声も、警戒するように低い。犬耳がぴく、と動いた。
 とたんに耳鳴りがした。
「何これ!」
うわ~ん、とでも言うような、低い、いやな音だった。巨大なモーターがすぐ近くで回っているような気がした。
「まさか」
殺生丸が、機敏な動作で振り向いた。
「女王蟻か」
 地鳴りのような音は、巨大な羽を振るわせる音だった。付け根にある強靭な筋肉が小山のような体を支えて、飛んでいる。はじめに出てきた蟻たちの優に3倍はあるだろうか。鉄板を張ったような黒光りする体躯は、戦国のこの夜空には比べるものもないくらい大きい。表情の読めない複眼が、じろっとかごめたちの上にとまった。
 まさに、女王蟻だった。
 ぎちぎち、と彼女の臣下たちが騒ぎ、女王の下へ集まっていった。 ぎ、ぎ、と女王蟻は鳴いた。古い鎧兜をむりにこじ開けているような音だった。
「かごめ、下がってろ!」
犬夜叉は大刀を振り上げた。やや離れたところで、殺生丸が無言で太刀をかまえている。地擦り下段、だが、闘志はまんまんとしていた。
 ぎ、ぎ、という音が高くなった。いきなり女王は妖気を吐きつけた。
「爆竜破のえじきになりな!」
むしろにやりと笑った犬夜叉が、妖気を巻き込んで逆にたたきつけた。同時に殺生丸が、剣先を一気に跳ね上げる。剣圧と気の渦が、女王蟻に襲いかかった。
 女王蟻の巨体は、あわれ引き裂かれる、とかごめは思った。
「なんだと!」
叫んだのは、犬夜叉だった。小さなほうの蟻たちは、爆竜破のまきぞえになって吹き飛んでいた。が、女王蟻は、堂々と攻撃に耐えていた。爆竜破を浴びたはずの黒い体は、傷ひとつない。だが、前足の一本が、付け根からもぎ取られたようになっていた。
「あそこにあたったの?」
「いや、あれは、殺生丸だ。あの化けもん、しのぎやがった!」
ふいに殺生丸が、近寄ってきた。
「あれを足止めしろ」
「なんだと?」
「あの体が、“穴”だ」
はっとしてかごめは女王蟻を見た。
「倒す必要はない」
「だって、くやしいぜ!」
「頭を冷やせ、うつけが」
しゅ、と音を立てて殺生丸の右手が上がった。次の瞬間、女王蟻の前足が、また片方、もげていた。女王蟻は、怒ったようにぎりぎりと鳴き、ふくらんだ腹の部分を地面に向けた。ぶよぶよした白いものが、ぽとりと落ちた。
「卵、産んでる!」
冷静に殺生丸が言った。
「おまえにまかす」
「くそっ」
風の傷を切り裂く一閃で、卵は粉々になった。
「かごめ、ちびども、連れてきてくれ!」
「わかった!」
けして仲のよくない兄弟に背を向けて、かごめは走りだした。

 寝ぐずっていたちび夜叉が、ぱっと跳ね起きて草地の上を走ってきた。
「かおめ!」
ふりふりする尻尾、信頼しきった顔。かごめは、小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「かごめちゃん、村は!」
「もう、女王蟻だけよ」
珊瑚にそう答えて、かごめは小さな殺生丸に顔を向けた。
「“穴”が見つかったみたい。来て?」
「わかった!」
小さな殺生丸は、珊瑚たちに声を掛けた。
「世話になった!」
弥勒と珊瑚は、小さく笑った。
「お元気で」
「兄弟なかよくね」
殺生丸は、ふりむいた。
「りん」
驚いたように、少女は顔を上げた。今の今まで、邪見といっしょに、阿吽の陰にすわっていたのだった。
「私はもう、行く」
「……」
「私と、来ないか?」
「え」
りんは目を丸くした。弥勒があわてたようすで口を挟んだ。
「殺生丸様、その子は、大きいほうのあなた様の、若紫、と」
 『雀の子を、いぬきが逃がしつる』。それは、古文のテスト範囲だった。源氏物語、若紫の巻、19歳の光源氏が、のちに源氏の妻、紫の上となる少女を見初めるシーン。今のりんとあまり変わらない年齢の幼い若紫の姫が、物語の舞台、北山の寺に初登場する時の台詞である。
 つまり、小さな殺生丸は、りんはもう一人の自分にとって自走食糧でも、単なる保護欲の対象でもなく、未来の花嫁、と言っていたのだった。
「でも、私も“殺生丸”だ」
かごめは思わず、りんの顔を見た。りんは、自分が紫の上に擬せられていると知ってか、知らずか、小さく首を振った。
 まだ少年の殺生丸は、ちょっと肩を落とした。
「私では、まだ、だめなのだな」
「ごめんなさい」
「あやまることはない。私はまだ未熟すぎて、りんの孤独の深さに比べると浅すぎるのだろう」
「そんなこと!」
「まだりんは、わからなくてよいのだ。けれど、あの人の寂寥を埋めることができるのは、りんだけだぞ。おぼえておいておくれ」
少女は、じっと少年を見詰めて、はい、と言った。小さく手を振って、殺生丸はふりかえった。
「行こう、かごめ」

 鉄砕牙を振り回して犬夜叉はわめいていた。
「降りて来い、このやろう!」
女王蟻は、地上戦を不利と見たのか、かなり上空へ浮き上がっている。だが、羽は傷ついてふらふらしていた。
 殺生丸は、息も乱していない。冷静な目でかごめたちのほうを見た。
「“穴”は、あれだ」
無言で小さな殺生丸がうなずいた。かごめは、ちび夜叉を渡そうとした。
「み~」
幼児はしがみついてきた。
「だめよ。ととさまのいるおうちへ、帰るんでしょ?」
「かおめ~」
ぐしゃぐしゃの顔でちび夜叉は見上げた。
「かおめも。いっちょ」
思わずかごめは、ちび夜叉を抱きしめた。
「ごめんね」
「び~」
思い切ってかごめは、犬耳をなめてみた。ぴくん、とちび夜叉が動いた。はむ、はむ、とかごめは耳を食べた。
「あふ……」
あくびをひとつして、ちび夜叉は眠り込んでいく。
「ごめんね、やちゃ」
かごめは髪をなでつけてやった。
「あたしはもう、やちゃに会えないの。でも、もしあなたの世界で、あなたが誰かに封印されたりしたら、あなたを起こすのは、きっと、あたしよ」
自分の服にしがみつく小さな指をそっとはずして、かごめはささやいた。
「500年を越えてでも、必ず“かごめ”が行くわ」
藤色の水干の袖に、かごめはそっとちび夜叉を託した。小さな殺生丸は、眠る弟を抱いて、立ち上がった。
「もういいのか」
「ああ」
返事を聞くが早いか、殺生丸は抜き身の闘鬼神を片手に進み出た。
「やるぞ、犬夜叉」
「ふん!」
 上空めがけて、妖刀を構える。大きく振り上げて、殺生丸が妖気の刃を放った。
 その威力は、鉄砕牙を上回る。女王蟻の眉間が縦に裂けた。ぎぎぎぎぎ、と耳障りな音を出すと、女王蟻は地面に転げ落ち、巨大な羽を打ち振って暴れた。腹がびくびくと収縮している。痙攣にあわせて、卵がいくつも卵管を落ちてきた。
「けっ、後始末がおれかよ!」
だが、鉄砕牙のひとふりで、卵はすべて、かききえた。
「急げ。“穴”は、長くは持たん」
女王蟻は、絶命の息を長く吐いた。小さな殺生丸がその姿に向かって走り出した。結界が侵されたときのような、くらっとした感覚が走り抜けた。次の瞬間、子供たちは姿を消していた。

 凛とした白い梅。華やかな紅い梅。春の館の主人の書院からは、紅白の梅の古木が見えるように配置されていた。その向こうには桜と桃が咲き、もう少し先には花盛りの藤棚がある。
 主人が妖力にまかせて作り上げた、春の庭だった。
「お館さま」
主はふりむいた。小姓が一人、かしこまっていた。
「若様が、おいでになりました」
「ん?」
 若様こと、殺生丸の住まいは、春の館に隣接して立つ、秋の館だった。春夏秋冬の名をつけた館が点在する、広大な“院“のすべてが、主人の結界の中にある。
「あれが自分から来るとは、珍しい。通せ」
小姓が下がっていく。主人は、書きかけの書状を置いて、脇息にもたれた。
 殺生丸は、模範的な跡取り息子だった。かわいそうなほど聞き分けがよく、生真面目で、責任感が強い。だが、殺生丸がどれほどがんばっても、一族の長老の中には、がんとしてこの子を次期当主と認めない者もいて、あからさまな態度をみせつける。不憫な息子だった。
「父上、殺生丸です」
藤色の水干姿の殺生丸が、御簾の向こうから律儀に告げた。
「入れ。どうした?」
少年は、きちんと膝をそろえて、父の前にかしこまった。唐突に殺生丸は言った。
「お話したいことがあります。どうか、お人払いを」
主が手をたたくと、小姓たちは下がっていった。
「どうしたのだ?おお、犬夜叉はどうした。いっしょに遊んでいただろう」
「さきほど、夏の館へ連れて帰りました。今は眠っています」
思いつめたようすで少年は顔を上げた。
「わたしがこの院を出たのは、数日前でした」
「なに?」
この子が弟といっしょに春の庭にいるのを見たのは、今朝のことだったのに。
「父上の御覧になった私たちは、今頃、院の外の荒れ寺で遊んでいます。もうすぐ、時間の穴へ落ちて、別の世界へ運ばれていきます」
「そなた」
思わず主は口を挟んだ。
「まさか、行って、帰ってきたのか」
「はい。ただいま戻りました」
それきり、何も言わない。
「どうした?」
「向こうの世界で」
言葉を選んでいるようすが、ありありとわかる。
「父上は、すでに亡くなっておいででした」
主は絶句した。
「死因は、竜骨精が関係しているようでしたが、それも、数百年前のこと。私が行った先の世界には、成長した私と、弟がおりました」
真剣な口調だった。そもそもこの子が、父をからかったり、作り事を楽しむ性格ではないことは、よく知っていた。
「無事に、育っていたのか、おまえたちは」
なんとか、それだけ、言った。
「苦労したであろうよ」
「はい」
小声でそう言ったまま、長いこと殺生丸はうつむいていた。
「これ」
主は優しく言った。
「妖怪とても、命に限りはある。そなたの母の例を引くまでもなく、この父も、いずれ命を落とすやもしれぬ。ならば、悔いのないように生き、望むままに死ぬまでのこと」
さっと幼い殺生丸は顔をふりあげた。
「父上は、自らの望むままに死地へ、と、成長した私が、申しておりました」
「そうか」
「でも!」
目の中に、ひどく切羽詰った、真剣な光があった。
「そうだとすれば、向こうの世界の私は、父上をお見送りしたはず。それが、どんな気持ちであったことか」
「取り乱したと?」
「いえ、けっして!」
語気も荒く、殺生丸は答えた。
「この殺生丸に、そのお疑いは心外でございます。未練なことは何も言わずにお送りしたと存じます。ですが、あちらの世界の私が、そのときに何と申し上げたかったか、私には、わかります」
「言うてみよ」
小さな手が、水干の膝のあたりをぎゅっと握り締めた。
「“行かないでくださいませ”と」
主は目を見張った。子供の唇が、震えていた。
 別の世界にいたという、もう一人の己のために、小さな殺生丸は、ふだんなら口が裂けても言わないことを、必死で告げようとしている。
「“どうかこの殺生丸を、哀れと思し召して”」
同情など、この子にとっては常に、侮辱に等しいものを。
「“お見捨てにならないでくださいませ”」
常に長男として、自分を厳しく制し、表情さえ殺していた子が、感情をほとばしらせ、血の出るような言葉に代えて、父にぶつけている。
「“父上がお袖の陰にかばってくださるのを”」
視線はそらさないが、声がうわずる。切れ長の目元に、涙の玉がふくれあがる。主は思わず膝を進め、子供の体を抱き寄せた。
「“まだまだ頼みにしておりますのに”」
必死で泣くまいと身を硬くしていた殺生丸が、肩をふるわせ、あえぐようにつぶやいた。
「“寂しうございます”」
小さな殺生丸は三日月の封印の浮かぶ額を、強く父のふところにおしつけた。
 浮世ならば、冬の終わり、すべての花に先駆けて梅は咲く。凛然とした気高さの白い梅は、だが、馥郁とした香りを放ち、自ら崩れて散っていく。
 書院の主人は、あやすように長男を抱きあげ、長いこと気に入りの梅を見上げたままだった。