黄金琥珀 4.第四話

 武蔵の国の晩夏は、黄金色の田んぼのみのりを白銀のススキの穂が縁取り、たいそう豊かで豪華だった。
 野分の前ぶれか、強い風が吹き渡る。眼下の平野はいっせいに金と銀の波に揺れて、この世のものならぬ海かと思えた。
 丘の上は、風に吹きさらされている。頂上にいるのは、双頭の竜だった。豪華な鞍を置き、手綱をつけていたが、野生の本性をむきだしにしてじれったそうに蹄をあげ、土をかいている。
 竜は二つの頭の間に、主の長身をはさむようにして、早く翔んでくだされとせがんだ。
 くつわをつけた鼻面が、白絹の振袖に押し付けられた。どこか遠くを見つめたまま、主人は片手を上げ、竜の長い首をかるく、たたいてやった。
 いっそ、あの竜になりたいもの、かなわぬならば、せめてあの風になり、唇に、ほほにふれ、真珠からつむぎだしたような髪をなびかせてみたい。
 だが、草刈に来る村の娘たちは、遠目でその姿を追うだけだった。
 無骨なまでに厳しい鎧を、なまめかしい流水文様の腰紐が飾っている。その腰紐の先端も、両袖の長いたもとも、豊かな髪も、強い風にあおられていっせいになびいた。その姿はまるで、巨大で艶やかな蝶のように見えた。
 乙女のような赤い唇が半ば開き、なにかつぶやいた。右手を竜の首におき、うろこの生えた身体に体重を預けて、頭上に視線をさまよわせた。竜は、神妙にじっとして、主を支えていた。
 最近あたりに出没するようになった、この若衆姿のもののけに、村の者たちは当然のことながら恐怖心を抱き、そしてどういうわけか、強くひきつけられてもいた。
 だが、村の巫女である楓さまから、触らぬ神にたたりなし、決して近寄るな、と言われている。村の娘たちは、ため息をつくほかはなかった。
 もちろん、彼女たちは近くの森のご神木に長いこと封印されていた別のもののけの姿を見たことはある。(ほんとは、危ないからいけないと言われているのだが、なにせ彼女たちがこどものころから、ぴくりとも動かなかったのだ。)あずまには珍しい、みやびやかないでたちの少年だった。
「でも、あれはこのごろ、うろうろしているわよね?」
「寝てたときのほうが、かわいかったわよね?」
「あんなに乱暴で、口が悪いと思わなかったわ」
というあたりで意見が一致している。第一、とつ国から来た不思議な巫女、かごめ様が、いつもごいっしょだし。
「弥勒様はすてきだけど、つばがついてるみたいだし」
「ちょっと割り込めない雰囲気よね」
「そうすると、残りは、あの子よね?」
「まだちっちゃいけどね」
「絶対、きれいになるわよねっ」
 あの子というのは、美しいもののけの御曹司のおつかいで時々村に現れる、愛らしい童子のことだった。目と髪は若衆と同じ色で、眷属であるらしい。
「ほら、来たわ。楓さまの小屋のほうへ行かれる」
姉様かぶりにした頭をうつむけ、草刈姿を気にしながら、村の娘たちは小さく頭を下げる。藤色の水干の童子は、村の小道を急ぎ、気にも留めないふうで娘たちのそばをすれちがい、ふわりと通り過ぎた。
「っきゃあ~」

 弥勒は、墨をすっていた。目の前には、このあたりの絵図が置いてあった。中心は、楓の守るこの村である。絵図の中には、小さな矢印がいくつも書き込まれていた。
 異世界のしかも過去からやってきた子供たちを、元の時代へ返す方法は、結局来た道をたどる以外にないようだった。その道がどこにあるかについては、手がかりはないに等しい。ただ、小さな殺生丸は、その道を通ったとき、妙な匂いがした、と言った。
 弥勒も人の身、匂いだけではとほうにくれるところだが、犬の一族にとっては立派な手がかりになるらしい。
 小さな殺生丸の現れた森と、小さな犬夜叉のいた森、そのふたつを中心にして、匂いの源をたどる。森はどちらも、楓の村の付近だったので、弥勒たちはここ数日、楓の村に腰をすえていた。
 もっとも殺生丸は絶対に村の中へ入ろうとはしなかったし、りんと言う少女もかたくなに嫌がった。そのため、小さな殺生丸が連絡役をつとめていた。
「楓どの、ご造作をおかけする」
 老巫女は微笑んだ。小さな殺生丸は、水干の膝をそろえて板の間にきちんとすわり、楓の手から竹の皮の包みを受け取っていた。りんの食糧である。
「草もちに、ゆでたわらびじゃ。たいしたものではないが、人間の娘ごが食べるならば、こんなものでよかろ。また取りにおいでなされ」
「かたじけない」
あどけない表情で、少年は言った。
 初めて彼を見たとき、楓は目を丸くし、あとから弥勒に、どちらの大家の若君じゃ、と聞いたものだ。若君は若君でも、妖怪でして、実は犬夜叉の縁の者、と答えると、楓は驚き、感心していた。
「となると、あの犬夜叉が乱暴なのは、生まれではなく、育ちのせいじゃな。きちんと躾をすれば、ああなるのかの?」
う~ん、と弥勒はうなった。
「本人の性格にもよると思いますが」
 弥勒は、筆を取り、絵図に矢印を書き入れた。
「まいりましたな」
小さな殺生丸が、のぞきこんだ。
「なんだ?」
弥勒の書きこむ矢印は、一定の場所を指しているわけではなかった。
「匂いの源が、動いているようでございます」
「そのようなことが、あるのか」
「さて……犬夜叉が、東のほうをたどっていきました。戻ってくれば、また新しい方角がつかめるやもしれません」
「わかった。あの人に、そう言ってくる」
弥勒はたちあがった。
「私もいっしょに出ましょう。弟ごを七宝にまかせてきましたので、心配です」
小さな殺生丸は、竹の皮のつつみを抱いて、いっしょに小屋を出てきた。
「かごめはまだ戻らないのか?」
「そのようですね」
リュックを破かれてしまったかごめは、新しいのを取ってくると言って、自分の国へもどったままだった。
「珊瑚は?」
「山向こうから呼ばれて、出かけております。もう戻るでしょう」
ご神木の森の方へ歩き出すと、村の娘たちと行き会った。ちょっと赤くなって娘たちは頭をさげる。弥勒は片手に持った錫杖を村道につき、片手おがみに頭をさげ、慇懃に礼をした。
「あの娘たちは、さきほどもいたぞ」
弥勒は思わず、笑った。
「おおかた、あなた様を待っていたのでしょう」
「なぜだ?」
「愛らしくていらっしゃる」
小さな殺生丸は、黙っていた。
「どうなさった。見た目のことは、気になさらないのではなかったのですか?」
「気にならぬわけではない。私は」
童子は、口ごもった。
「母に似ている、と言われて育った。母上は、“誘惑者”だったそうだ」
「は?」
仙狐だと、彼は言っていた。
「弟には、“半妖”の名が一生つきまとう。同じように、わたしにも、ついてまわる名があるのだ。“女狐のせがれ”と」
「殺生丸さま」
小さな少年は、真剣な目で弥勒を見上げた。
「わたしが聞こえないだろうと思って、下人たちが噂しているのを聞いた。父上は、母にたぶらかされたのだ、と。その血をひいた私も、“誘惑者”なのだ、と」
弥勒は返事に詰まった。
「わたしは、誘惑など、したくない」
歩きながら、うつむき、小さな殺生丸は潔癖につぶやいた。
「失礼ですが、お母上は」
淡々とした声で小さな殺生丸は答えた。
「母は陰陽師に正体を見あらわされ、弓の名手が母を下野の国まで追い詰めて射殺した。よほど無念だったのだろう、母のなきがらは石となり、今でも毒を放って近づくものを殺めているそうだ」
「那須の殺生石……」
「知っていたか。そうだ」
弥勒は全身に鳥肌の立つのを感じた。
 伝説にうたわれる、白面金毛、九尾の狐。
 唐、天竺では手練手管に長けた美女に化身して、三つの王朝を傾けたと言われる、稀代の妖狐。
 弥勒はあらためて少年の顔を見、その成人した顔立ち…大きいほうの殺生丸の顔を思い浮かべ、頭の中で皇后の衣装をまとわせて、思った。この女のために紂王は、殷一国を炎の中に沈めたのか、と。
 弥勒は深くうなずいた。紂王は国王としては愚かだが、男としてはおそらく、正しかったのだ。
 あの殺生丸が人間一般に悪感情を持っているのも、四魂の玉にまったく興味を示さないのも納得できる。彼は、そんなものがなくても、親譲りの、おそらくとてつもない妖力を体内に貯めているはずだ。あの三日月で封印しておかなくてはならないほどの。
「法師、おまえは仏門にある身、たぶらかされることもないだろう。答えよ。わたしは“誘惑者”か?」
弥勒はしばらくのあいだ、言葉を選んでいた。
「惹きつけられない、と言えばウソになりましょう。大きい殺生丸様も、あなたも、いやおうなく人の心をつかみ、魅了なさる。だが、あなたのせいではない」
「そうなのか?」
「責められるべきは、凡夫の私ども」
少年は、もの言いたげな目で弥勒を見上げた。
「さあ、もう、そのくらいに。わたしのような者がこれ以上うかがうと、大きい殺生丸様からお叱りがあるかもしれません」
「そうだな。話しすぎた」
賢い少年だが、たいそう無邪気なところもある。
 小さな殺生丸が、頭をあげた。
「りん!」
村の小道のそばの木陰から、少女がこちらを見ていた。
「殺生丸様」
りんは、小さな手をふった。
「ほら、お土産。草もちだといっていたぞ」
「ありがとうございます、殺生丸様」
無邪気な笑顔だった。
「もうちっと、育ったらな……」
弥勒は思わずつぶやき、あわてて首を振った。恐ろしい顔を二つ、思い出したのだ。いいなづけの娘と、過保護の妖怪と。飛来骨でぶん殴られ、闘鬼神でなますにされるのは願い下げにしたかった。
 そういえば、あの殺生丸は、この少女をなんと思っているのだろう。
 無邪気な目で少女は、小さな殺生丸に尋ねた。
「邪見様にもわけてもいい?」
「よい」
りんは、うれしそうに草もちの包みを胸に抱き、先に走っていく。
「殺生丸さま、あの娘は、もう一人のあなた様にとって、どのような存在なのですか?」
「あの人はなにも言わないし、今のわたしが、成長したわたしの気持ちを正確に知ることは難しい」
「そうおっしゃらず」
「そなたはどう思う」
「村の者は、その、食らうつもりで連れているのだろうなどと申しておりました。つまり、自走食糧では、と」
少年は眉をひそめた。
「誤解もはなはだしい。それだけはないぞ」
「失礼を。珊瑚は、あの娘は、このあたりのあやかしには多少詳しいのですが、こんなことを言っておりました。狼には、習性として、自分の種族ではなくても幼い動物を保護することがある。犬の一族にもあるいはそのような傾向があるのでは、と」
「あたらずといえども、遠からずか。だが、法師、おまえの意見をまだ聞いていないぞ」
「わたくしは、その」
弥勒は咳払いをした。
「もしや、若紫、ということは」
「『雀の子を、いぬきが逃がしつる。伏籠のうちに籠めりつるものを』?」
ふふ、と少年が笑った。
 りんがまた、こちらへ走ってきた。向こうのほうから、邪見の呼ぶ声が聞こえてくる。
「りん、ちょっと待て、りん!」
ぱたぱたと走ってくると、りんは、弥勒のほうへ視線を向けた。
「あのう、このあいだは、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げた。
「このあいだの、ああ、縫い物ですか」
 先日、集団で移動していたとき、りんの着物のすそがほつれているのを珊瑚が見つけ、かごめの持っていた“裁縫せっと”で、縫い直してやったことがあった。
「肩上げと腰上げがしてあったからほどいたよ。ちょっとすそが長くなってちょうどいいから、全体にまつりあげておいた」
これはどうしよう、と、そのとき珊瑚は、はぎれをりんに見せた。少しほつれていたが、朱色と白の市松模様の、なかなかきれいな生地だった。
「捨てるのもったいないね」
そのとき、横から弥勒が言った。
「照る照る坊主にしたらどうでしょう?」
一人旅が長かったために、弥勒は多少なりとも針を使うことができた。四角く縫って、ありあわせの布を頭に詰めて首のところをひもでくくり、簡単な人形を作ってやると、りんは、ぱっと顔を輝かせてよろこんだ。
「ありがとう、法師さま」
「これなら、お人形遊びの相手になるかもしれません」
りんは、ちょっとうつむいて、首をたてに振った。
 この少女がどうして殺生丸になついているのか、弥勒たちはいきさつをまったく知らないのだが、過去につながる話となると、りんはまったく口を開かなくなるのだった。
「あれからずっと、遊んでいる?」
弥勒が聞くと、りんは困ったような顔になった。
「あの……落としちゃったみたいなの」
「それは、それは。もう一度作りましょうか」
りんは首を振った。
「いいの。せっかく作ってもらったのに、なくしちゃったの、りんだもん。ごめんなさい」
「いいんですよ」
本当に素直で、かわいい。くそっ、と弥勒は笑顔の後ろでつぶやいた。
 小さな殺生丸が、りんの顔をのぞきこんだ。
「あれは、そんなに大切なものだったのか?」
「あ、ええと」
邪見が呼んでいる。
「りん、全部食ってしまうぞお?」
「邪見様、待って~」
小鳥のような娘は、また飛んでいってしまった。
「困った。どこにあるかは、知っているが、あの子に返してやったものだろうか」
「ご存知ならば、ぜひ」
「それが……」
小さな殺生丸は、頭上を見上げた。弥勒はつられて顔を上げ、ひっと息を飲み込んだ。
 彼らが話をしていたのは、村の境界に植えられた大きな木の下だった。境界の大木の枝の上に、片膝をたてて殺生丸がすわっていた。豊かな髪と毛皮、ふくらんだ指貫、左右に流れるたもとのために、ふんわりと優雅に見えるが、黄金琥珀の瞳は、無言の恫喝をしてくる。
 小さな殺生丸は、肩をすくめた。
「ここで別れよう。また何かわかったら、そなたのところへ行く」
弥勒は、だまって頭を下げ、少年を見送った。
 頭上の殺生丸が動いた。華麗な色彩が舞ったかと思うと、彼は姿を消していた。
 弥勒はその場に立ち尽くした。
 見間違いではない。妖怪の御曹司の、襟元。そこにちらりと朱色が見えた。
「なんで、照る照る坊主なんか」
口にするまでもなく、理由に思い当たる。
 長い間りんが身に着けていた着物には、当然、少女のあの甘いような体臭がうつっているはずだ。人間にはわからなくても、犬の妖怪の鼻には、それとわかるほどの。
「真剣に、やばい」
弥勒は、ためいきをついた。
「あの子が守備範囲だったとしても、手を出すのは命がけだ」