ダークネイション物語 4.第四話

 紳士用の黒い靴が、恐ろしく高い位置を蹴り上げた。スラムの住人は、硬いかかとで喉をえぐられ、壁際へふっとび、喉を押さえてあえいだ。喉の高さで停止した脚を、ツォンは、優雅な軌道を描いておろした。長く、しなやかで、強靭な生きた兵器。アーモンド型の目が、遠巻きにしている男たちをじっと見つめていた。
 ツォンの後ろにはルーファウス、さらにその背後をDNが守っている。
 あのとき、高速道路の上で車を襲ってきたのは、5,6人だった。両側のドアが一斉に開いたとき、ツォンがすかさず射殺し、反対側からうっかり頭をつっこんできたのは、DNがあっというまに屠った。車の外にいた者も、ツォンが撃退したが、そこで弾丸が尽きてしまった。
「もう大丈夫だな」
ツォンは首を振った。
「応援を呼びに行ったのがいました。ここにいてはだめです」
「では、本社に連絡して」
携帯に手を伸ばしかけたとたん、ツォンはその手をつかんでとめた。
「だめです」
「なぜだ!」
「これまで何度も誘拐されかけて、あなたの外出ルートは、今では機密扱いのはずだ。それなのに彼らは待ち伏せできた。内通者がいるはずです。カンですが、おそらく一般パトロールの中にいるかもしれません。今救助を呼べば、先にそいつらが来るでしょう」
ルーファウスは、唇を噛んだ。
「打つ手なしか」
「今は逃げるしかありません。プレートの下へ降りましょう」
プレートのメンテナンス用の細いはしごをつたって、ルーファウスたちはこの、高層スラムへと降りてきたのだった。
 ずいぶん古いビルのようだった。上塗りがはげてぼろぼろになったビルの壁は、ゴミ袋や古タイヤ、モップの柄、木箱などに埋め尽くされている。等間隔で引き戸になった入り口があるが、どれも赤錆におおわれて、動くのかどうかわからないくらいだった。
 天井を縦横に走る細いパイプの群れから、ときどき水滴が落ちてくる。ガラスの破片だらけの廊下にあちこち水溜りができて、油膜が浮いていた。廊下の上のほうに、ちいさなガラス窓が並んでいて、そこからわずかに午後の日差しが入ってきた。
 窓から、魔晄炉が見えた。つい先ほどまで眼下に見下ろしていた魔晄炉の、なんと巨大なことか。吹き上げる蒸気が空へ登っていくのを、ルーファウスは呆然と見上げた。
「●×△◆※?」
スラムの男が一人、奇妙な言葉で話しかけた。ウータイの言葉だとルーファウスは思った。神羅一族も混血を重ね、祖先の文化から遠ざかって久しい。だが、スラムの男たちは、どうもツォンに、自分、ルーファウスを引き渡せと言っているようだった。
「▼□§★、◎△■!」
彼らと同じ言葉でツォンが答えた。
 このスラムは、ウータイ系の住人のコロニーなのだろうか。曲がり角ごとに漢字のプレートが貼ってある。汚い壁にも、ペンキで漢字や記号が殴り書きしてあった。
 さきほど蹴り飛ばした男が手から取り落とした山刀を、ツォンは拾い上げた。豚でもさばくらしい、鋭利な刃物だった。刃を彼らに向けて構え、ツォンはつぶやいた。
「さあ、誰からだ?」
言葉よりも、態度で意味がわかったらしい。襲ってきた男たちは、あわてて逃げていった。
「あいつらは、先ほどの連中の仲間か」
「おそらく、関係はないでしょう。ただ、あなたを見て、身代金目的の人質にする気になったのだと思います」
 廊下の突き当たりは、下り階段になっていた。一段ごとにタイルが敷いてあるのだが、どれも壊れてコンクリートがむきだしになっている。手すりはぐらぐらだった。降りた先も、先ほどと似たような長い廊下。だが、上の階と違って、人が暮らしている。
 開け放ったシャッターの中は、猫の額ほどの店であるらしい。毛をむしられた豚の足らしいものが、店先にぶらさがっている。蛍光灯がわびしい照明をとぎれとぎれに放っていた。
 その下に、店の主人らしい男がうずくまり、じっとこちらに視線を向けてきた。目が慣れると、その階の奥にもいくつか妖しげな小店や非合法すれすれの零細工場らしいものがあるのが見えた。
 廊下のあちこちに、住人は立ったりすわったりしている。小さな碗に口をつけて老婆が中身をすすっている。音質の悪い、ラジオらしい放送の音楽にまじって、その音がずず、と響いた。
 一人として口を利かない。じっとルーファウスたちを見ていた。
「気に入らない目つきだな」
「あなたが珍しいのでしょう」
小声でツォンが言った。
「またか!私はネギを背負って歩くカモか?」
ルーファウスは、ぐっとあごをあげた。両腕を払うと、白い上着のすそがさっと広がった。
「冗談じゃない。ルーファウス・神羅をなんだと思ってるんだ!」
金髪の貴公子は、誇りにかけて魔窟の中へ足を踏み出した。小さな苦笑を浮かべてツォンが従う。二人の前にDNは飛び出し、あたりを威嚇しながら先導した。
「気づいていらっしゃいますか、ルーファウス様」
ツォンがささやいた。ふりむかずにルーファウスが答えた。
「ああ。なにをしゃべっているんだ、あいつらは?」
「方言がきつくてわかりにくいのですが、だれかに、あなたがここにいることを連絡しているようです」
「くっ」
「そのまま、まっすぐ歩いて」
ツォンの声がわずかに緊張を帯びた。角を曲がった瞬間、ツォンはシャッターのひとつを開けて、中へもぐりこんだ。木箱やダンボールが、乱雑に積み上げられた、倉庫のようなものらしかった。
「ここでやりすごしましょう」
「大丈夫か?」
ツォンの額に脂汗が浮いていた。シャッターの向こうを、どたどたと走っていく音が聞こえた。
「長くは持ちません。一軒づつ家捜しされたら、見つかってしまいます。なんとか部下に連絡が取れればいいのですが」
ルーファウスは、そばにいたDNに声をかけた。
「おまえしか、いない」
両手でDNの頭をつかみ、ルーファウスが話しかけた。
「私もツォンも動けないんだ。おまえが本社へ戻って、“味方“をここへ連れてきてくれ」
ぐるぐる、とDNは喉を鳴らした。
「いいか、おまえが持っているデータの中で“味方”として認識している人間だ。連れて来い、急げ!」
DNはさっと身を翻し、シャッターの外へ飛び出した。

 走るDNを見つけたのは、レノだった。いくらミッドガルに戒厳令が出ていると言っても、タークスの使う黒い車を停めるような、身の程を知らない兵士はいない。車のほとんど通らなくなった道路を、黒いオープンカーは検問にもかからずに走っていた。
「停めろ、ルード!」
車は急停車した。黒い獣はその中へ、ひと飛びに飛び込んできた。
 いきなりルードにのしかかると、頭をべろべろなめ始めた。
「お、あ、う」
「じっとしてろ。クロは今、おまえを認証しているところだ」
ひとしきりなめると、DNはレノの方を向いた。レノは、自分のシャツの襟を、左右に押し広げた。
「来いよ、クロ。おれはレノだぞ、と」
DNはほとんど襲い掛かるような勢いでレノの首筋にでかい頭を押し付けた。頚動脈のあたりを熱心になめ回した。
「くすぐってぇ……」
レノはまもなく、がまんしきれないようにもがいた。
「もういいか?おまえ、ツォンさんのとこから来たのか、と」
DNは頭を下げ、レノの上着のすそをくわえて引いた。
「よし、案内して欲しいぞ、と」

 四番街はスラムの中でも“取り残された”地域だった。市当局が特殊な文化を持つ住人が不法に占拠する高層スラムを、怖くて撤去できないのである。その魔窟の内部は複雑に入り組み、住人以外の人間の立ち入りを頑強に拒み、内部は非合法薬物の工場や、犯罪者の潜伏場所だらけと言われていた。
 年年歳歳、魔窟は拡大を続け、特にその地域ではプレートに到達するほど高く、地上20階ほどまで建て増しされていた。
「ここから降りられる」
DNが二人を連れてきた場所を見て、ぽつんとルードが言った。プレートのメンテナンス用に、はしごがついているところだった。
「ルード」
「あ?」
「もし、ツォンさんが死んだら、おれがタークスの主任になるかもしれない」
ルードは無言だった。
「だから、何が何でも、ツォンさんを助けるぞ、と」
にやりとルードは笑った。
「了解」
 エンジンの音がした。交通警察の白い単車が一台、すぐそばに停車した。制服の警官が降りてきた。
「タークスの方ですか。副社長捜索でしたら、何かお手伝いいたしますが」
レノはうなずいた。
「人手がほしいぞ、と。あんたのチームを呼んでくれ。いっしょに降りるぞ、と」
警官はさっと手を上げて敬礼した。
「はっ」
そのときだった。DNがうなった。
「クロ、どうした」
警官はもう、オートバイについている機器で連絡を取っている。
「もうだいじょうぶだぞ」
だが、DNは、交通警官に向かって歯をむき出して威嚇を続けた。
「レノ、変だ」
レノは立ち上がり、その警官の顔のすぐ前に、ロッドをつきだした。わっと言って警官は飛びのいた。
「何をするんですか」
「おまえ、どこのもんだ」
「は?」
「どこの署だ、と聞いてるんだぞ。今は全市で警戒は神羅軍が行っている。一般の警察官が、ここでなにをやっているんだ、と」
「自分は……」
と言いながら、警官は目を泳がせた。さっとバイクに駆け寄り、エンジンを点火した。
「ばかめ」
ルードは落ち着いて狙撃用のライフルを車から取り出し、無造作に構えた。銃声が響いた。遠くのほうで、バイクが転がっていくのが見えた。
「まずった。あの野郎、応援をよびやがった」
「すぐ、ここにやつの仲間が押しかけてくる。おれとおまえで、そいつらをくいとめなくちゃならない」
レノは、DNのほうをふりむいた。
「クロ、ひとつ頼まれてくれ。おれたちにも応援がいる。おまえの信頼できるやつを連れてきてくれ」
ぐるる、とDNは喉を鳴らした。レノは手を伸ばしてDN=クロの頭をなでてやった。
「カツブシ、好きか、と」
びしっと触手で、DNはレノの手をふりはらった。