パラケルサスの犯罪 13.第三章 第一話

 「セントラル絵入り新聞」の編集部は、その日の原稿を全部入稿してしまい、独特の穏やかさが漂っていた。
 ブロンドをショートカットにした速記タイピストが、甘い声でジョン・クラウンに話し掛けてきた。
「新しい映画、見たくない?」
「『ハエ男の呪い2』?文化部に頼めば、チケット手に入るよ」
「いっしょに見に行きましょうよぉ」
「いいねえ」
このところ、クラウンの書く記事が、連続して採用されている。編集長のおおぼえもめでたく、クラウンは仕事が楽しくてしかたなかった。
「ついでにお食事もどう?」
「ますますいいねえ」
調子に乗りやがって、と脇のほうで先輩記者がつぶやいていたが、クラウンは気にもとめなかった。
 電話が鳴った。先輩記者がとって、編集長へ回した。直後、編集長の声がテンションをあげた。
「なんだって……?」
 編集部全体が耳をそばだてた。何か大きなネタにつながりがあるかもしれない。案の定、受話器を置いた編集長は、血相が変わっていた。
「ウブラッジ・ケースのことで、またたれこみがあった。とてつもないヤマだぞ、これは!」
クラウンは思わず取材メモを握り締めた。
「ねえ、ジョン?」
「ちょっと待って」
「もう、バカ」
編集長は、だみ声をはりあげた。
「かつての英雄のからむ殺人事件?小さい、小さい、軍部の陰謀と阿片禍の恐怖、院長の野望ときたもんだ!」
ベテランの記者たちが、口々に取材に行かせてください、と騒ぎ始めた。
「ごめん、映画、またね」
クラウンはそう言うと、ずいと前に出た。
「このヤマは、ぼくのもんです!」
ちっと、ベテランの誰かが舌打ちした。編集長は鬼のような顔で笑った。
「言い切ったな、新米。よし、出張費を出してやる。よっく洗い出してこいっ」

 マスタング大佐は、耳と肩で受話器をはさんだ。
「どうしてそんな、バカなまねをしたんだ」
「いきおいってやつさ。大尉に行くなと言われたら、つい、ね」
大佐は、書類に書き込む手をとめて、ためいきをついた。
「とにかく院長先生の虎の子の阿片粉末が見つかったのなら、ほとんどケリがついたようなもんだな」
「やっぱり大佐、阿片の件知ってたな?」
「知らいでか。ホレイショ・ヘイバーンは、出世のためならなりふりかまわない男だ」
「あいつ、大佐に言われたくないと思うぜ?」
「いっしょにしないでくれたまえ」
受話器の奥で、くすくすと笑う声がした。
「で、さ、この間の件、調べはついた?」
「連続作動練成陣の研究か。最近は成果があがっていないようだ。リストを作ろうにも、この問題で論文を書いた者はだいたい故人になっている。が、一人だけ、ドナルド・ロングホーンという名に心当たりはあるか?北方司令部の軍属で国家錬金術師志願者なのだが」
「ああ、グラン・ウブラッジへ来てる」
「5年ばかり前に、ロングホーンが錬金術師の国家試験のために、この分野で論文を書いてる。結論は“不可能”だ」
「不可能か。そうか」
しばらくエドワードは黙っていた。
「じゃあ、もうひとつ。南方司令部がらみの阿片中毒者のリストが欲しい」
「そんなもの、どうするんだ」
「ここの“横領”グループの、動機だ。もしかしたら、社会的な義憤だけじゃなくて、阿片中毒で死んだ者の身内じゃないかと思ったんだ」
「といわれてもな」
マスタング大佐はためいきをついた。
「この五、六年で、阿片中毒は激増しているんだ。野戦病院ではよく阿片を鎮痛剤として使うから、最も危険なハイリスクグループは、実は前線兵士というわけだ。軍にとってあまり名誉になる話じゃないから、そんなリストは作られてさえいないだろう」
「そうか。あんたなら、そういうリストも見られると思ったんだけどな。前に言ったろ?セントラルの調査部に有能な知り合いがいるって」
「ヒューズか」
「そんな名前だっけ。よろしく言ってくれ」
「私はどうなんだ?」
「てめぇは仕事しろよ」

 アルは駅舎の出口でエドを待っていた。
「お待たせ。帰ろうぜ」
 数日前にこの駅舎に着いたときは、こんな面倒な事件になるとはアルは思っていなかった。道は、草の生い茂る古戦場のわきを、舗装もない一本道としてグラン・ウブラッジへ続いている。空は穏やかに晴れ、春の風が伸び放題の草むらを揺らしていた。
 駅の向こうの農場で飼われている羊の鳴き声が、風にのってかすかに聞こえてくる。昼さがりに病院を出てきたのだが、もうそろそろ午後も遅いようだった。 アルの斜め前に長い影ができていた。少し短い影が、その先を動いていく。
「やっぱり、電話、グラン・ウブラッジの中じゃまずいの?」
「おれが院長だったら盗聴する」
「全部の他人が自分と同じくらい性格悪いと思わないほうがいいよ」
「けっ」
先に立って歩きながら、エドは言った。
 アルはこんなとき、よく師匠を思い出す。兄の性格のかなりの部分は、錬金術の概念や体術とおなじく、師匠譲りなのではないかと思うのだ。
「あのさ」
「なんだ?」
「例の輸出用阿片、どうしてあそこにあるとわかったの?」
エドは肩をすくめた。
「実は、はったりだったんだ」
「ええっ」
「可能性を絞っていったら、あそこしかないと思ってさ。それに、おれがめくったあの鉄板、ちょっと変色してた。練成反応のあとみたいだな、と思ったんだ」
「それだけなの?」
「おう」
まだ髪があったなら、かきむしりたいところだった。
「もし見つからなかったら、どうなってたんだよ、まったく兄さんのやることときたら!」
「いや、結果オーライということで」
さらりとエドは言う。
「でも、あの、阿片のことは、本当なんだね?ぼく、知らなかったよ」
エドは、軽く小石を蹴った。
「阿片で痛みを抑えたのは本当だけどな。運のいいことに、おれの主治医は、ばっちゃんだった。きっちり管理してくれたさ。痛いことは痛かったが、おかげで中毒にはならなかった」
アルは、ばっちゃんことピナコ・ロックベルの渋い表情を思い出した。
「感謝しないとね」
「まあな」
「今度の仕事が終わったら、一度リゼンブールへ帰ってみようか」
「意味ない。あそこにはもう、何もないんだ」
アルは空を見上げた。
 そろそろ夕暮れになりかかっていた。ちょうど南西にあるグラン・ウブラッジは黒い大きなかたまりとして、夕焼け空の中にそびえ立っていた。
 空はどこまでも広く、雲は筋になっている。流れる雲はすべてグラン・ウブラッジへ向かっているように見えた。
 かつて大量の血を吸い込んだ戦場は、静かな草原として眠りについている。その中を行く旅人は、遠くから見ると草の海を行く船のように見えるはずだ、とアルは思った。
 エドとアルは、夕暮れの草原を、何も言わず、もくもくと歩いていた。一本道を荷馬車がゆっくり動いてアルたちに追いついてきた。荷台の上から、誰かが声をかけた。
「乗っていきませんか」
ペインター大尉だった。
「あれ、車は?」
「ガイドを首になったんで、とりあげられましたよ」
あっけらかんとした笑顔だった。エドが苦笑を返した。
「じゃ、世話になるか」
 兄弟は大尉と並んで荷馬車の荷台の、じゃがいも袋の陰にすわった。御者が馬に声をかけ、野菜を山と積んだ荷馬車が、がたがたと音を立てて動きはじめた。
「聞いていいか?」
「はい?」
「なんでグラン・ウブラッジに配属になったんだ?おれたちのガイドなんて、ひまな仕事をやるようには見えないんだけどな」
はは、と小さく大尉は笑った。
「正直言うと、ひまだったんです」
「うそだろ?南部は、最前線で緊張が続いてるって聞いた。大尉も前は前線勤務だろ」
「実は戦友に、目の前で死なれまして」
淡々と大尉は言った。
「そのとき少々取り乱してしまったのがもとで、前線勤務をはずされて、こっちへ回されました。今は、グラン・ウブラッジ管理部所属です。院長の護衛から糧秣の仕入れまで、何でもやってます」
「もったいない気がしますね。大尉さん、強いでしょう、実は」
アルが言うと、大尉は照れくさそうな顔になった。
「人間、向き、不向きがあるんでしょう。自分はこっちへ来てよかったと思っています」
 アルは、花畑侵入の件をもう一度謝ろうかと思った。だが大尉を困らせるだけかもしれなかった。あたりはしだいに暗くなっていった。草原の向こうの駅舎に灯りがついた。三人は無言で、荷馬車に揺られていた。
「その機械鎧、もう痛くないんですか?」
つぶやくように大尉が言った。エドは肩をすくめた。
「雨が降ると、ときどき。リウマチみたいだろ?自分でもじじぃくさいなと思うよ」
はは、と大尉は笑った。
「けがをして、手術して、阿片で痛みをとめて、それでじじぃくさいていどなら、いいじゃないですか」
荷馬車は、グラン・ウブラッジに近づいていた。
「ここでいいですか?」
荷馬車が止まったのは、グラン・ウブラッジの裏口、一般職員食堂厨房の搬入口だった。
「ありがとう。助かった」
食堂のおばちゃんたちが、わらわらと出てきて野菜や卵をおろしている。
「ムシ食ってないんだろうね!」
「早く、早く。みんなメシ待ってるんだから」
あたたかみのある黄色い光が、厨房の内部を照らしていた。コックが、大声で指示をわめき、包丁を使う音、お湯の煮立つ音などでいっぱいだった。あたりにいい香りがたちこめている。
 もうまもなく一般食堂は、一日の疲れを癒しに来る客でごった返すのだろう。アルたちは、厨房を抜け、広い食堂に入った。もう客が並んでいた。
「ばっちゃんのとこも、料理のときはたいへんだったっけ」
にや、とエドの唇のはしが上がった。
「ウィンリィ。おぼえてるか?あいつ、不器用なガキだったくせに、にんじん切るって言ってきかないで」
「あのクリームシチュー?」
大尉が言った。
「おや、料理、失敗だったんですか?」
「うまかったぜ。すげぇでかいにんじんがごろごろしてたけどな」
「胃袋に入っちゃえば同じだよ、って、ばっちゃんはびくともしなかったよね」
「火が通ってねぇっつーの」
大尉は笑った。
「ここでも出ますよ、そういうの、たまにね」
看護婦たちが数人、ペインター大尉に声をかけてきた。
「今日のごはん、なんですか~?」
「うまいヒラメが入荷したみたいでしたよ」
大尉が愛想よく答えると、看護婦たちはきゃあきゃあと笑っていた。
「お食事、一緒にいただきましょうよ、大尉」
「いい女は、ロッティだけじゃないわよ?」
「あ、ちょっと、仕事が」
「もお、つれないわね」
グラン・ウブラッジは、この人たちのものだ、とアルは突然思った。
「ここ、この人たちの町なんだね」
「ああ。ふうがわりだけどな」
エドは、複雑な視線で大尉たちを見ていた。強い憧れと、哀しみの交じった表情だった。兄が自分と同じことを考えているのがアルにはわかった。
「ここは、あいつらのもの、あいつらの町なんだ。院長が何を言おうと、やつのもんじゃない」
ぼくたちの、でもないけれど。
 エドは黙って歩いていく。アルは、食堂が開くのを待っている、うきうきした気分の客たちの横を、かるく会釈して通り過ぎた。
 こんな夜は、エドは無口になる。アルも強いて話をしようとはしなかった。その晩、エドは、クラッカーをかじったていどで、旅行に持ってきた本に読みふけった。
 アルは、自分も読書しているふりをして、時間をつぶした。ついにエドが目をこすりこすりベッドに入ったとき、はじめて声をかけた。
「おやすみ」
「ん」
言葉にならない音で返事をして、エドは目を閉じた。その肩の上に毛布をかけなおしてやり、アルはベッドサイドの大きな椅子に身体を沈めた。そこが毎晩、アルの居る場所だった。
「なあ?」
エドの声だった。
「なに?」
「やっぱり、いつか、リゼンブールへ帰るか」
“いつか”なんていう日がなかなか来ないということは、アルにもわかった。それでも、アルは小さく返事をした。
「そうだね」
それっきり、ベッドから声はしなくなった。