パラケルサスの犯罪 16.第三章 第四話

 八時十分前になった。グラン・ウブラッジ病院の総受付は、窓口に白いカーテンがおりて、すでに閉まっていた。元は要塞に詰める兵士たちの集合場だったという。今は、広い空間に柱が立ち、長いベンチがずらりと並ぶ待合室になっていた。
「ぼくが行くよ」
と、アルは言った。
「いたずらかもしれないけど、罠かもしれない。兄さんはぼくが安全を確認してから来て」
エドは憮然としていた。
「まあ、いいか。おまえのほうが強いし。でも、一人っていうのは気に入らない。こいつを連れて行け」
クラウンは取材メモを握り締めた。
「弟さんになんかあったら、飛んでもどって知らせるよ」
 クラウンはほくほくしていた。ニュースソースを明かさなくてはならなかったのは痛かったが、それよりエルリック兄弟と行動を供にできるのがうれしかった。夢の大スクープ、再び!エドがじろりとクラウンをにらんだ。
「ほんとにあんた、その情報提供者が誰だか知らないんだな?」
「そいつと話したのは、うちの編集長だけなんで。そういうときの電話は、たいてい声を押し殺してるから、実際に聞いても分からなかったと思うよ」
「ちくしょう」
「でも、凄いくらい詳しかったって。ケシの花畑のことも輸出用木箱が見つかったことも知ってた」
しっとアルが言った。
「大きな声を出さないで下さい。院長がぴりぴりしてるんだから」
「アル、今はこいつを信用するしかない。おれはこのへんにいるから」
「わかった。じゃ、行ってくる」
 壁に黄ばんだ紙が張り付けられ「簡易宿泊所はこちら」と書かれていた。クラウンとアルは、その張り紙の下を通って、天井の低いトンネルへ入った。
「クラウンさん」
「なに?」
「その情報提供の人のことだけど、他に何か言ってませんでした?」
そういうアルの声は、クラウンの頭一つ上から降ってくる。
「他にって?」
「兄さんが、捜査チームからはずされそうになったこととか」
「いや、聞いてないな。そうなの?」
「あ、ほら、兄さんとぼくが、立ち入り禁止の花畑へ入っちゃったから」
「よっぽど生意気だと思われたんだな、ははは」
「ええ、まあね」
 頼りない灯りの下、じめじめしたトンネルの中をしばらく歩くと、簡易宿泊所が見えてきた。入り口には、小さなフロントがあった。
「あら、お客さん?」
 フロント係は、丸い眼鏡に丸い顔のおばあちゃんだった。机の下で編物をしているらしく、ひっきりなしに手が動いている。
「泊りじゃなくて、面会に来ました。カーティス夫人はいらっしゃいますか?」
年季の入った窓口嬢は、ずり落ちそうな眼鏡をかけ直して宿帳をめくった。
「はい、ご予約入ってますよ。でも、まだ御着きじゃないわ」
「だそうだ。どうする、アルフォンス君?」
アルは考え込んでいた。
「すいません、その予約、電話ですか?」
おばあちゃんは、目をぱちぱちした。
「ええと、この人は宿泊申し込みの伝票を郵送してきたと思ったわねぇ」
「伝票、まだ残ってますか?見てもかまいませんか?」
おばあちゃんは、しばらく探していたが、やがて首を振った。
「ごめんなさいね。もう捨てちゃったみたいよ。ほら、こういうのに書いてまわってきたの」
おばあちゃんは伝票をかざして見せた。いかにも軍部らしい、無骨な伝票は、上部に宿泊申し込み書、と印刷されている。
「たしか、細かいきれいな字だったわ」
アルはつぶやいた。
「師匠でもシグさんでもないな」
「シグさん?」
「本物の師匠のご主人で、師匠が殴り倒したヒグマによく似た男前です。性格も筆跡も、豪快な人ですよ」
「そりゃ、なんというか……じゃ、予約を入れたやつは、君たちのお師匠も、そのご主人のこともよく知らないということだね」
「そうですよね。こんなの、ぼくたちが来ればすぐバレるのに、どうして」
アルは急に振り向いた。アルの顔、兜の中の目の部分が、光ったようにクラウンには見えた。
「もし、あの手紙が、ぼくたちをおびきよせるためじゃなくて、ぼくたちをここへ遠ざけるためだとしたら!」
「なんだって!」
アルは走り出した。
「兄さんが!危ないかもしれない!」
「え、おい、待ってくれ、ちょっと!」
クラウンはアルを追って、狭いトンネルの中を走っていった。

 突如として、視界がぶれた。と、同時に、轟音が鳴り響いた。クラウンは、思わずハンチング帽をおさえてうずくまった。あたりが揺れ動いている。
「記者さん、走って!ここにいたら危ない!」
「うひゃぁ!」
無我夢中でトンネルを抜け、アルとクラウンは、広々とした病院の総受付へ走り出た。あたりは騒然としていた。
「何が起こった!」
「今の音、なに?」
宿直の看護婦や兵士たちが、次々と飛び出してくる。
「兄さんは?」
アルがきょろきょろした。エドの姿がなかった。
「音の原因を確かめに行ったんじゃないのか?」
「どっちへ」
行ったのかな、と言いかけたらしい。その瞬間、二度目の爆発音が起こった。
「ちくしょうっ」
「きゃああっ」
怒号悲鳴が続く。だが、アルは走り出した。
「こっちだ!」
クラウンはあわててあとを追った。
 アルが向かったのは、総受付から地階へ降りる階段のほうだった。
「アルフォンス君、そっちは閉鎖だ!」
「今は開いてます!」
アルは叫んだ。
「木箱見つかったから!搬出のために開けてあるんです!」
クラウンの記者根性が、むくっと頭をもたげた。
「阿片がらみか!」
クラウンは尻ポケットから取材メモを引き出し、びしっと鉛筆をかまえた。
「兄さん、どこ!」
呼びながらアルは階段を駆け下りていく。クラウンは思わず鼻にしわを寄せた。
「花火のあとみたいな臭いだ。火薬?」
ぱちぱち、といういやな音が、下のほうからしていた。息苦しいような空気。焦げ臭い臭い。
 だが、地階は真っ暗だった。誰かが地下室で何かを爆破し、おかげで電気系統がだめになっているらしい。
「こりゃ、もしかしたら」
「黙って!」
いきなりアルが言った。
 小さな爆発音。何かが燃える音。それにまじって、ののしる声がした。
「くそっ」
エドの声だった。金属がぶつかる、鋭い音がした。
「ちくしょうっ、逃げるなっ」
アルが階段の、最後の数段を駆け下りた。
「兄さん!」
「アルかっ。そっちふさげ!」
誰かが舌打ちした。足音が遠ざかっていく。犯人は、逃走径路をもうひとつ持っているようだった。
「兄さん、だいじょうぶ?」
アルとエドが階段をあがってきた。
 エドは、異様な姿だった。右腕の袖が大きく裂け、生身の腕の代わりに金属の義手が見えている。そのひじから下に、長大なブレードが取り付けてあった。数箇所、刃こぼれしていて、激闘の痕跡が残っていた。
 服は他にもところどころ裂け目ができていて、顔の片側に血がついていた。肩で息をして、鎧姿の弟にすがりながら、エドは体を支えていた。クラウンと目があうと、おもしろくなさそうに笑した。
「なんてツラしてんだよ。知ってるんだろ?」
クラウンは、声が出なかった。必死で首を横に振った。大事な取材メモが指から滑り落ちていく。
「きみ、それは」
情けないような声が口をついた。エドはじろ、とクラウンをにらみつけた。
「話は後だ。急げ」
「な、なにを?」
「バカやろう」
苦しそうにエドは言った。
「地下で、火事だ!みんなを呼びに行け!」

 クラウンはついさきほど見たエドの姿を、可能な限り詳しくスケッチブックに描きこんでいた。人間離れした金属の光沢、激しい戦いで傷ついた痕跡、そして何よりも、獣じみた輝きを放つ瞳をていねいに描写して、クラウンは鉛筆を置いた。
 機械鎧は、南部でももちろん普及していたが、東部と大きく違うところがあった。南部では最前線の兵士が負傷して義肢をつけることになるケースが多いのだが、東部では内乱があったために、機械鎧装備者は兵士とは限らない。むしろ、一般市民に装備者が多かった。
 生まれも育ちもセントラルのクラウンなどは、義肢を目にしたこともあまりなかった。ただ、機械鎧の手術のたいへんさや、値段が高価なことは、うわさで聞いている。
「オートメイルか……」