パパスとシンデレラ 3.ジュリエットの悩み

「えっ、本当?何だった?覚えてる?」
たたみかけたルークの視線を避けるようにマリアはうつむいた。頬の赤みは目元におよび、マリアは両手で顔を挟むようにした。
「お、覚えてますけど、その……。わ、私はもう修道女じゃなくて、夫のいる女で一児の母ですけど、あの……」
どうした?とヘンリーは妻の顔をのぞきこんだ。熱心にルークが言った。
「覚えてるなら教えてください。ぼくにとっても両親にとっても大事なことなんだ」
マリアは男たちの顔を見上げて、何か言いかけて、またためらった。
「あ、あの」
 そのときだった。ビアンカが立ち上がり、ヘンリーとルークの肩をちょんとつついた。
「どいてくださる?どうやら、女同士で話したほうがいいみたい」
マリアは明らかにほっとして、援軍を得たような顔になった。
「ビアンカさん……」
「さ、こっち来て」
部屋の隅へ引っ張っていくと、女二人は小声で言葉を交わし始めた。
 キツネにつままれたような顔で夫たちはそれを見守っていた。
「てっきり、いつもみたいに君が謎解きをしてくれると思ってたんだけど」
ヘンリーは肩をすくめた。
「おれにだって解けない謎はあるさ。特に女心は永遠の謎だ」
「そんなもんかい?」
「しっ」
 マリアはつっかえながら何か説明していた。
「まあ」
「あら」
「ええっ?じゃ、つまり」
「そんな、お義母様ったら、大胆……」
ビアンカは何かしきりに納得し、うなずいていた。
「おーい、ビアンカ?」
心細げにルークが聞いた。ビアンカが振り向いた。
「わかったわ。さあ、どうやってマーサ様をその気にさせるかだわね」

 エルヘブン最高位の巫女が籠る部屋は、塔の頂上にあった。この部屋で一生を過ごした大巫女はマーサの前に何人もいた。
 心身をきよらかに保ち、霊力を高めることを怠らず。
 魔界の門を監視し、魔物がこの地上へ出でて悪行をなすことを許さず。
 マーサはためいきをついた。 彼女は十七になったばかりだった。もちろん、生まれた時から一族の大巫女になることをマーサは長老たちから予言されていたから、ほかの子供たちが石けりや水遊びに興じる年にはもう特別の修行が始まっていたし、そのことを不満に思うこともなかった。
 去年マーサは改めて、門をつかさどる一族の大巫女の位に就いた。花嫁衣装のような華麗な巫女の正装をまとい、黒地に金糸銀糸の縫いとりのある頭巾をつけ、その上に花飾りをのせ、マーサは儀式の主役を務めた。 そしてその姿のままこの部屋へ入り、以来、公務以外は外へ出ていない。 そして部屋のすぐ外には身の回りの世話をする侍女が、部屋の扉の向こうには護衛の兵士がいた。
 マーサは視線をあげた。大巫女の部屋の窓は開いていた。エルヘブンを屏風のように取り囲む山塊の向こうに空が見えていた。
「グランバニアと同じ空なのだわ」
つぶやいてマーサは唇を噛んだ。 二度と口にしまいと思った言葉だったのだ。
 グランバニア……パパス……外の世界。
 そとの、世界。 自分の心がみっともなく波立ち騒ぐのをマーサは修練を積んだ力で抑えようとした。が、あまり成功しなかった。 あきらめなくてはならないものは、あまりにも大きすぎた。
「私がいけないの」
マーサはきゃしゃな両手で顔を覆った。
「パパス様が好きなのなら、大巫女になんてならなければよかったのだわ。今さらもう、取り返しがつかない」
こんなに好きになっていたとは思いもよらなかった。痛恨の思いを込めてマーサは唇から言葉をもらした。
「二度と、会えないなんて」
 大巫女になる前、”エルバラダイの乙女”と呼ばれる尼僧預かりの少女の一人としてマーサはエルヘブンの外へ祭壇に供える花を摘みに出て、そこで道に迷ったらしい外国人の一行とでくわした。
「このあたりに、町はありませんか」
「こちらです。どうぞ」
かわした言葉はたったそれだけ。だが、その若い旅人の容姿や顔立ち、全身から放つ雰囲気、声、口調、まなざしが、マーサの小さな心を満たし、あふれ返り、それ以外のものをすべて追いやってしまった。
「パパス様」
 あの方が自分のことを長老様に訊ねていたと知って、天にも昇るほどうれしかった、とマーサは思った。一度グランバニアへ帰り、パパスがもう一度エルヘブンを訪れたと知った時も、儀式の予行演習のために大巫女の正装を身につけたマーサを目にしたパパスが驚きとも憧れともつかない表情を浮かべた時も。
「子供だったのだわ。あの方の視線の意味に気付かなかった」
パパスの態度に気付いたのは、マーサのほかのエルバラダイの乙女たちが先だった。
「ちょっと素敵ね。グランバニアの王子様なのですって?」
「マーサを見る目が危ないわ、あの方」
「さらっていきたいのではなくて?」
くすくすと夢見がちな少女たちは笑った。
「そんなことあってはならないことだけど、でも、どんな気分だと思う?グランバニアのお城へさらわれていくのって」
「豪華なお城の広間で結婚式を挙げて、女王様と呼ばれるようになるのだわ」
「グランバニアは大きな国だもの。贅沢しほうだいね」
「お菓子は食べ放題。きれいなドレスも思いのまま」
「ドレスもお菓子も、あたし、いらない」
と一人が言った。
「こんな山ん中から外へ出られるってだけで、最高にうらやましいわ!」
マーサの胸がずきりとした。
「嘘つき。気づかなかったなんて嘘だわ」
マーサは手のひらで胸を抑えた。
「とっくに知ってたじゃないの。パパス様についていったら、知らない世界を見ることができるって」
そんなことは計算済みだった。マーサの心の天秤には、パパス、未知の世界を知る喜び、結婚がひとつの皿に乗っていて、別の皿にはエルヘブン、大巫女の誇りと責任、よくなじんだ生活が乗ってい た。
「私はあとのほうを選んだ」
 マーサが大巫女になると知って、パパスは目に見えて落胆した。が、声を荒くするようなことはなく、じっとマーサを見つめ、肖像画をちょうだいしたい、と申し入れたのだった。
「どうしてあんな目をなさったの」
 恋する男の目を、生まれて初めてマーサは見た。その真摯で狂おしいまなざしをマーサは宝石のように胸に抱きしめ続けていた。それを抱えていることを、長老方、エルヘブンの村人たち、侍女や兵士に見咎められはしないかと常にびくびくしていた。
「大巫女にあるまじきことですもの」
それは間違いない、とマーサは思う。自分を恋い慕うと太い黒文字で書かれているような若者の視線を、我が身に宝石のように飾るなどということは。
 ましてや、その男が肌身はなさぬと無言で誓ったロケットに自分の肖像画を納めるなど、うぬぼれの極み、浅ましいことこのうえない所業だった。
「おことわり、して、しまった……」
鼻がつまったようになり、眼の奥がじんと熱くなった。こぼすまいと心に誓った涙がぽろりと落ちた。
「もうダメだわ、泣いたってダメ!パパス様はきっと私のことなど、お嫌いになったにちがいないのだから」
マーサはエルヘブンの大巫女だが、たった十七の少女でもあった。取り返しのつかないことをしてしまった悔しさと、初恋をもぎはなした自己憐憫をつきまぜて、マーサは熱くしゃくりあげた。
「パパス様、私、どうしていいかわかりません……」
心を穏やかに保つための修行が、ひとつも役に立たない。マーサはむだな努力をあきらめてベッドにうつ伏した。
「こんなの嫌です!あなたのところまで駆けていきたい……」
翼を持たない身をベッドによこたえ、マーサは身悶えした。
「助けて、誰か、ここから、連れ出して!」
 そのとき、誰かが答えた。
「その気持ち、本当ですか?」
マーサは飛び起きた。
「あなたは誰?」
いつのまにか神聖不可侵の扉が開き、外国人とわかる若者がマーサのすぐそばまではいりこんでいたのだった。
「ぼくは、旅人です。でも、グランバニアのパパス殿と知り合いで、ええと」
若者は黒髪で、簡素な服に紫のマントをまとっていた。どう見てもエルヘブンの住人とは違う出で立ちだったのだが、不思議なことに、すごくエルヘブンらしい雰囲気を彼は身にまとっていた。
 マーサの凝視を浴びて、若者は視線を伏せた。
「すいません、入り口の護衛の人にすごろく券をあげたら、ちょっと出かけてくるって」
自分の護衛役の兵士がすごろく好きだということさえ、マーサは知らなかったのだ。
「あ、あの、何かご用ですか」
若者はためらった。
「さきほどから嘆いておられるのを聞いてしまって」
マーサは真っ赤になった。
「私は、あんな……はしたないわ。本気じゃなかったのです」
きっと若者の表情が変わった。
「まだそんなことを!」
その剣幕にマーサの方が驚いた。
「パパス殿のことは、何とも思っていないと言うんですか?」
「パ……」
そうだ、なんとも思っていない、そう答えようとしてマーサの声は急に詰まった。じっと見つめる若者の視線が、マーサに嘘をつけなくさせた。この方、おばあさまに似ている、とマーサは思った。大巫女モーリアンも、幼いマーサがうそをつくと必ず見抜いたものだった。
「わたし……」
そのあとの言葉は嗚咽に消えた。
 優しい手がマーサの肩に掛かった。黒髪の若者がベッドの上、マーサの隣に座って肩を抱き、そっとたたいているのだった。
「泣かないで。取り返しのつかないこと、というわけじゃない」
「うそ。私、嫌われたわ」
「肖像画を描くことを拒まれたくらいでパパス殿の気持ちは揺らぎません。あの人はそういう人です」
「で、でも」
「ぼくは、エルヘブンの長老様たちにお目にかかってきました」
マーサは思わず息をのんだ。
「あの方たちに?」
 いったい誰なのだろう、この人は。大巫女の部屋や長老たちの瞑想室にまで自由に出入りするとは。あらゆる門を開き、境界線を越える、それはまさに門を司る一族の高位の巫女の資質だった。
「キャリダスは、あなたがグランバニアへ行った未来とそうでなかった未来がともに存在していると言ってました。決めるのはあなたです」
「わ、私には、大巫女のつとめが」
「自分に課された責任を果たすのは正しいことです。けれど、それは本当に責任感ですか?変化を嫌い恐れる気持ちを、美化正当化しているのではありませんか?」
「わたし!」
先ほどマーサが自分に問うていたことを、別人の形を取ってこの若者が訊ねている。それは、こわばって堅くなった首筋を強く押したような痛みと心地よさがあった。
「繰り返しますが、決めるのはあなたです」
「どうすれば、いいんですか」
ついにマーサはそう言った。
「駆けていきなさい。パパス殿のところへ。今の気持ちを正直に言えばいい」
マーサは赤くなった。
「ここから連れ出して、なんて、私、言えません、はしたなくて」
若者は真顔で問いかけた。
「はしたないと思われたくない、その感情だけでこの里で一生過ごしますか?」
モーリアンが、そして母のパリラがそうしたように、この里の男を夫にして子を身ごもる。それがあなたにできるのか、と若者は訪ねていた。
「……だめ。だめだわ、あの方でなくては」
あのパパス様でなくては、この身を差し出すことなどできない。そう思ったのと同時に、自分のあさましさにマーサは頬を染めた。
「どうしましょう、私、そんなことまで申し上げなくてはならないのね」
あ、と若者は急に口ごもった。
「巫女様が口にするにはたしかにちょっと」
今までの確信に満ちた口調とはがらりとちがう。こほん、と若者は照れ隠しに咳払いをした。
「え~、ビアンカが言うには」
「ビアンカさんて?」
若者ははにかんだように笑った。
「いつかきっとご紹介することがあるでしょう。ぼくの妻です」
「結婚していらしたのね」
「はい。え~と、つまり、ビアンカは、これを渡したらどうか、と」
若者は服の隠しから、丸いものを取り出してマーサの手に乗せた。
「これ?」
マーサは目を丸くした。それは、なんのへんてつもない、ありふれた果実、赤いりんごだった。
「どうしてこれをお渡しすることが、その、お慕いしておりますと言うことになるのでしょうか」
若者は眼の縁をぽっと染めた。
「よく見ていてください」
若者はマーサの手からリンゴを取り、手首をひらめかせて真上へ放った。次の瞬間、手にした杖を一閃させた。鋭い音がした。若者は手に、半分に切ったリンゴを受け止めた。
「どうか、これを」
しげしげとマーサはリンゴを眺めた。皮は赤いが、果肉は白い。中央に種があり、そのまわりに自然にできた曲線ができていた。
「これが、どうして」
言いさしてマーサは声をのんだ。
「まあ」
ぎくしゃくとマーサはそれを受け取った。
「パパス様は、意味をわかってくださるかしら」
蚊の泣くような声でマーサはつぶやいた。
「大丈夫です」
力強く若者は言った。
「だって、神の塔で見たんだから」
「え?」
若者は大巫女の部屋の扉を開けはなった。
「さあ、お行きなさい。もうすぐグランバニア行きの船が出る!」