パパスとシンデレラ 2.ロミオの諦観 

 南の大国グランバニアの王子にしては、パパスの身なりは簡素なものだった。布の、それも絹ではなく麻のチュニックに毛織のマント、使い込んだ革のベルトと剣帯、ブーツ。今のルークよりもまだ若いかもしれない。独身時代の父を目の前にして、ルークは少し複雑な気分だった。
 エルヘブンの女長老に仕える巫女のお仕着せを着た中年の女性は、口元をぐっと引きしめた。
「もう一度申し上げます」
と堅い口調で巫女は言った。
「マーサ様は、肖像画を描くことをお許しになりません」
 パパスが感情を抑えようとしているのは、傍目にもわかった。
「何かのお間違いではないか。私はエルヘブンの長老様方からじきじきにお許しをいただいたのだが」
パパスはまだ口元にひげを生やしてはいない。だがルークの覚えているのと同じ、よく響く声だった。
「長老様方のお考えとマーサ様のお心が必ずしも一致するとは限りません。御放念ください」
「直接マーサ様にお目にかかれないだろうか。肖像のお許しをいただけるように説得する自信がある」
巫女はいらだったようだった。
「無駄でございます。このままお国へお帰り下さいますように」
「しかし!」
「マーサ様は、エルヘブンの大切な巫女姫様です。どなたにも会われません。ましてや、外つ国の殿方に!」
見下したような眼でそう言い放つと、彼女はそのまま部屋を出て行った。
 パパスの両手がぐっと握りしめられるのをルークは見た。が、十指はやがて弛緩し、だらりと垂れた。
「申し訳ない。せっかく持ってきてもらった絵の具とペンが、無駄になってしまった」
激した感情をなだめたのか、そう言うパパスの口調は誠実だった。
「これは何かのまちがいです」
とルークは、期せずしてパパスと同じことを言った。
「そうですとも。わたしゃ、賭けたっていい!」
 絵師マティースは憤慨していた。
「あの巫女ばあさんの独断ですよ。マーサ様は、長老様方が絵を描いていいっておっしゃったとき、特に嫌がっちゃいなかったじゃないですか」
「そうだな。私は長老様方の前で確かに言葉を交わし、許しをいただいた」
パパスは首を振った。
「出会ってから三度めの出会いでそのように願うのは、やはり、ぶしつけだと思われたのだろうか」
マティースは肩をすくめた。
「女の気まぐれですかね。それにしてもわからん!たいていの女は絵を描いてもらうのが好きなもんですよ。どんなに頭のいい女でも、本質的にうぬぼれやですから」
「マーサ殿は、ちがう」
パパスがさえぎった。
「あの方は、お使い殿が言われたとおり、エルヘブンで最も神聖な巫女姫だ。あの若さ、あのきゃしゃなお姿で、たいへんな重責を担っておられる」
パパスはつぶやいた。
「肖像画をペンダントにしてずっと身につけていられればと思ったのだが」
その手には、何も入っていないロケットが握られていた。
「幸い、あのお姿は目に焼き付いているのだ。一生、忘れまいよ」
潔くパパスは言った。
「思い出だけでいいんですか?」
とルークは言った。
「思い出はいつか薄れる。第一、マーサ様はどうなります?今あなたがあの人を連れ出さなかったら、あの方はエルヘブンの頂上で一生を過ごすしかないのです。それがあなたの望みでしょうか、本当に?」
「やめてくれ!やっとあきらめようとしているのに」
苦い口調でパパスは言った。
「マーサ殿が私とこれ以上関わることを選ばれなかった。それがすべてだ」
パパスは想いを振りきるように口調を変えた。
「旅人どの、あなたは本当はエルヘブンの方ではないのか?」
ルークはどう答えようかと迷った。
「……片親がエルヘブンの出身でした。が、なぜそんなことを聞かれるのですか?」
「マーサ殿と似た、不思議な瞳をしておられる」
ルークは思わず片手を顔にあてた。前にも一度、パパスはそう言ったことがあったのだった。いや、前ではない、未来にパパスはそう言うのだ、私の妻に似た目をした人よ、と。
「エルヘブンの民ならばわかっていただけるだろう。この里がどれほどマーサ殿を大事にしているか。せつないさ。この身が裂けるかのようにつらい。だが、私は明日の夜明けには船に乗り、故郷へ帰るとしよう」
おとうさん、とあやうくルークは口にしかけた。パパスは、こんな若き日にあっても、やはり潔い男だった。
 失礼する、と言って、パパスは部屋を出ていった。誰かがパパスに話しかけた。
「パパス様、こんなところにおられたのですか?もう明日は帰るんですからね。荷物をまとめていただかないと!」
ルークはびくっとした。廊下で父に向かって話しているのは、間違いなくサンチョだった。
「エリオス様は雲隠れですけど、まあ、あの方は、明日の朝になったらけろっとして出てこらえるでしょう」
「ああ、悪かったな。船に乗り遅れたら、またあのガミガミ屋にうんと怒られる」
静かに応じたパパスの声にサンチョは何か感じ取ったようだった。
「何かございましたか。大事なことなら、済ませてください。なに、ヴェルダー殿が何を言ってもこのサンチョがどんとかまえて文句なんぞつけさせません!」
「いつも忠義なサンチョ」
パパスはほほえんだようだった。
「いや、いいのだ。明日は帰ろう。おまえがいてくれてうれしいよ」
 部屋の中で絵師はのろのろとパオームのインクを片づけ始めた。
「自慢で言うんじゃないんですが、マーサ様を描くことができたらけっこういい作品になったと思うんですよ。なんか、絵になるお方なんだ。雰囲気ありますよねえ」
あ?とマティースはつぶやいた。
「そういえば、旅の人、あなたも」
ルークは一歩ひいた。
「すみません、用を思い出しました。ぼく、これから長老様に会ってきます。会って、マーサ様を説得してもらいます!」

 門を司る一族の長老は四人いた。すべて高齢の女性だった。ルークはなんと呼びかけようかと思って戸惑った。自分の知っている時代の女長老たちと今目の前にいる彼女たちは同じ人物か、別人か?見かけ上、まったくかわっていないのだが。
 長老たちはドーム天井をもつ部屋の中に、みじろぎもせず座っていた。二人づつ向かい合うようにして二組、全部で四人だった。
 この部屋は不思議だ、とルークは思う。天空城の清浄さと魔界の暗黒が隣り合わせに存在するのに、戦うことなく共存しているのだ。ドーム部分から床までを覆うタペストリは色糸で絵模様が描かれている。そのなかにデフォルメされたマスタードラゴンと、頭と腹に二つの顔をもつ醜悪な巨人をルークは見て取った。
「よくおいでになった、旅の人」
長老の一人がそう言った。
「瞑想のお邪魔をして、すみません」
はるか下の位置から見上げてルークはそう挨拶した。
「われわれの瞑想は、そなたのことでした。案ずるには及びません」
すらすらともう一人が言った。
「ぼく、ですか?」
「まぎれもなく」
四人の女長老たちは一斉に目を開いた。
「ようこそ、グランバニアのルーク」
「ようこそ、マーサの子、ルーク」
「ようこそ、勇者の父、ルーク」
「ようこそ、時の旅人、ルーク」
ルークは口もきけずに立ち尽くした。
「あ、あなたたちは、全部知ってて、それで……、それなのに!」
「落ち着きなされ」
と最初に口を開いた長老、確か名はキャリダスが言った。
「マスタードラゴンがあなたをここに送り込まれたのだ。私たちはそれ以外のことを知らぬ」
「いや、ぼくは妖精城の」
言い掛けてルークは納得した。世界を見守る竜のほか、誰があんな絵を用意できるだろう。
「マスタードラゴンも長老様方も事情をご存じなら、どうか母を父に託してください。そうしないとぼくも息子のアイルも存在できなくなる」
「それはできぬ」
「どうして!」
長老アネイタムは重々しく言った。
「我らの前に分岐がある。ひとつの道では、マーサはこの里を出て行った」
フィーレイが続けた。
「もうひとつの道では、マーサはこの里にとどまった」
ペリグリンがあとをひきとった。
「どちらの道もいまだ明暗さだかではない。我らはどちらの道を選ぶこともできぬ」
 ルークは呼吸を整えた。
「ぼくは、ここにいる。マーサはまちがいなくこの里を出てグランバニアへ行ったのです。だから、最初の道が正しい」
四長老は目を閉じ、だまりこんで瞑想にふけった。しばらくして再びキャリダスが口を開いた。
「選ぶことあたわず。どちらの道も等価である」
「そんな!」
キャリダスが目を開いた。
「時の旅人よ。我々はそなたの手助けはできませぬが、そなたの邪魔をすることもありませぬ」
「すべてマスタードラゴンにゆだねましょうぞ」
うんうんと長老たちはうなずきあった。

 ビアンカが羊皮紙片を取り出した。
「いろいろな点から見て、今回のエルヘブン滞在がパパス様の独身時代の最後の航海だということはわかってるの。どう考えてもマーサ様はこの船でグランバニアへ行かないと花嫁になれないのよ。出航は明日の夜明けだわ」
うーん、とヘンリーはうなった。
「時間の流れが同じだとして、今夜のうちにマーサ様が突然心変わりして駆け落ちを承知してくれた、それ以外に可能性がないというわけか」
「そんなことが起きるのかな、本当に。もし母さんが心変わりしなかったら、父さんと母さんはどうなるんだろう」
迷子の子犬のような目でルークが見上げた。
「いや、その、落ち着け」
 あのう、とマリアが言った。
「心変わりは難しいと思います。マーサ様は聖なる乙女として御育ちになったのでしょう。私も短い期間ですが修道院で暮らした経験があります。マーサ様にとっても周りの者にとっても、代え難い価値を持っていると思いますのよ……純潔は」
ヘンリーは妻の肩のまわりに自分の腕を巻き付けた。
「それなのにマリアはおれを受け入れてくれたんだね」
腕の中のマリアが真っ赤になった。
「あたくし、あの」
うつむき、口ごもり、だが幸せそうなバラ色のほほを夫の胸に押しつけてマリアは答えた。
「自分をだませなくなったのです。素直に、なりたい……と」
あー、いー匂いだー、と思ってヘンリーは顔を寄せた。
「ルーク、あたしたち、お邪魔みたいよ?帰りましょうか」
とビアンカが言った。
「ビアンカ、ちょっと待って」
とルークが言った。
「覚えてるかな、ぼくたち、前に、神の塔へ入って冒険したことがあっただろう?あのとき一階で幻を見たよね」
「おお、覚えてるぞ?おまえの父さんと母さんだった。ね、マリア?」
「そうでした。思い出しましたわ」
「あのとき父さんたちは、すごく仲良しみたいだった、と思うんだけど」
「ラブラブだった。うん。こう、ぎゅうっと抱きしめあう瞬間だったな」
はあ、とルークはため息をついた。
「ああなってほしいんだ。あれは魂の記憶なんだよね?本当にあったことなんだよね?何がどうなってラブラブへもつれこんだのか、それをつきとめたくて聞きに来たんだ」
「おれに?」
うん、とルークはうなずいた。
「二人は何か言ってたっけ?母さんは父さんに何か渡してたような気がする。ヘンリーなら覚えてないかなと思ったんだ」
ルークの視線は真剣だった。
「ぼくがエルヘブンで見たのは”問い”で、神の塔で見たのが”答え”だ。そのあいだをつなぐきっかけを、頼むよ、思い出してくれ」
 ヘンリーは記憶を頼りに語り始めた。
「マーサ様は何か手に持っていた。両手の中に何か捧げて、それをパパス様に向かって差し出しているみたいだった。あれはいったい何だったんだ……角度が悪くて、マーサ様の手のなかのものまでおれは見えなかったんだ。
 マーサ様は真っ赤になって何かを告げた。最初パパス様はそれを信じなかったみたいだ。でもマーサ様の態度が変わらないのを知って、そばに近寄って、手に持ったものと顔を見比べていた」
「あのとき二人はなかよしって言うか、駆落ちしてもおかしくない雰囲気だったよね?」
「少なくともパパス様の方はぞっこん、めろめろって顔だとおれは思ったね。そのとき、パパス様の方から何か言ったんだ、確か。マーサ様が何か答えた。そしたらいきなりパパス様が、手にしたものごと白魚の手をつかんで、こう、ぐっと引きよせた」
ふう、とルークがため息をついた。
「母が手渡そうとしたもの、父の言ったこと。それが鍵なんだ」
ん?とヘンリーが言った。
「マリアは見えてたよな?」
え、とマリアがつぶやいた。
「あのとき『だからあんなものを渡しておられたのかしら……』って言ってた。マリアのいたところから、マーサ様の手の中が見えた?」
 ぽっとマリアのほほが染まった。
「はい、見えましたの」