女給斬り 3.仇討ち

 あの若いウェイトレスをかぎ爪で押さえつけ胴体に牙をたたき込んだ時、いとも簡単にあばらが折れ、命の火は一瞬で消えた。まだ温かい血で喉を潤した時わずかに感傷的な気分になった。
 口をふさぐつもりで後をつけていたのに、この小娘はなんと“ギザミミ”本人をおびき寄せてくれたのだから。
「金貨一枚で悪かったな、まじめな女中さん」
笑いをかみ殺して彼はそうつぶやいた。
 “ギザミミ”の正体を知ったのは、ごく最近だった。本当は、大神殿から逃げ出した逃亡奴隷の一人や二人、太后様がなぜ気になさるのかと不審に思っていたのだった。
「先王の倅とはな」
 今の太后様の地位を脅かす、とは言えないが、太后様の手ゴマ、デール王子の対抗馬がこの街にいて何かたくらんでいるというのはおもしろくないには違いない。
 しかも“ギザミミ”は一人ではなく、仲間をかなり集めているらしい。近い将来やっかいな存在になる可能性は十分にあった。出る杭なら打っておくに限る。
「奴隷狩りだけであのお方のお覚えがめでたくなるのならそれもよし」
逃亡奴隷を狩りたてて殺すのは、彼にとって手慣れた、簡単な仕事だった。美味しい思いをさせてもらおう。大都市の闇にひそんで、彼はそう思った。甘い汁を吸うのは大好きだった。特に、一人きりでいい思いをするのはたまらない魅力だった。
「待てよ。あいつはどうする」
“ナマイキ”と呼ばれていたあの黒髪の奴隷少年。どれほど痛めつけても鋭い目で奴隷監督や兵士を見据え、時にはその目力でこちらを圧倒してきたあの若者を、彼はひそかに恐れていた。
 あの夜ラインハットの路地へ小娘を追い詰めたとき、“ナマイキ”は現れたのだった。娘が怯えてパニックを起こすのを楽しみ、いざとどめを刺そうとした時、やつが立ちはだかり、彼をとどめた。
“去れ!”
あのとき、足がすくんだ。
「くそっ」
己のふがいなさに彼はそう吐き捨てた。
 あれ以来なかなかそばへ近寄る気になれず、遠巻きにあの娘を観察していたのだった。が、あの朝いきなり“ギザミミ”がフィニアの家にやってきたのだ。やった!と彼は思った。
 自分の幸運が信じられないほどだった。“ギザミミ”とその仲間をとらえれば太后様はどれほどお喜びになることか。大神殿の現場から堂長へ抜擢されたばかりだが、さらに上、本部付きへの栄転はまずまちがいない。教団内での昇進が目前なのを彼は感じた。
 だから、あの若いウェイトレスはもう、必要なかった。
 もともと口をふさぐつもりだったのだ。しかもふらふらとあの娘は一人歩きをしていた。後をつけ、狭い路地へいきなり引きずり込み、ひと噛みにかみ殺した。簡単な仕事だった。
「あとは、“ギザミミ”がひとりきりになるのを待つだけだ」
 教会での葬儀が終わるのを、堂長はじっと待ち続けた。
 しばらくして会葬者が外へ出てきた。午後の遅い時間に始まった弔いは、終わったころには日が暮れかけていた。会葬者は数名でかたまってしばらく話していたが、一人、二人と散っていった。
 やがて“ギザミミ”は、“ナマイキ”と老女といっしょに、下町のほうへ向かって歩き出した。あの娘のことを話しているのか、三人ともどことなく元気がなく、うつむいていた。
 そのとき彼は目を疑った。“ナマイキ”が自分から“ギザミミ”と別れて歩いていく!願ってもないチャンスがめぐってきたのだった。
 人間の姿のままで堂長はいそいそと“ギザミミ”と老女の後をつけた。そのまま“ギザミミ”が仲間の潜伏場所へ案内してくれるはず。それを期待して、彼はこうして今まで襲いかからずに待っていたのだから。
「しかも手柄は俺がひとりじめだ。こたえられん」
思わず舌なめずりが出た。
 “ギザミミ”は特に警戒しているようすもなく、ラインハットの中心にある湖の前の博広場を横切っていく。着古した旅人の服にマントをつけた後ろ姿は、うつむきがちな群衆の中を老女を連れてすいすい通り抜けていった。今日だけは、自分の獲物が傭兵たちに目をつけられないようにと堂長は心底願った。
 “ギザミミ”が歩いて行くのは、あの娘が住んでいた家だった。一番はしの家に老女が入っていくのを見届けて、“ギザミミ”はさらに奥の、町のはずれのスラムへ入っていった。
 そこは傭兵でさえあまり近寄らない地域だった。住んでいるのは、他に行くあてのない孤児や年寄り、病気持ち、足萎えなどである。雨が降れば生きているのか死んでいるのかわからないような者たちが水溜りにうずくまっているような街で、こんなところへ入りこんでも何のうまみもない。奪うものさえ持っていない連中ばかりなので、傭兵もつまらなくてここいらには立ち入らないのだった。
あの大神殿付属の奴隷小屋の、ここはミニチュアだった。
「いい思いつきかもしれんな」
と堂長はつぶやいた。
「こんなところに隠れ家をつくるとは」
悪臭のするごみだらけの路地を、堂長はかきわけるようにして歩いた。
 前方を行く“ギザミミ”はこのあたりの連中の中ではすっかり浮いている。が、それを気にしているようすもなかった。
 同じように光の教団の幹部の僧衣を着ている堂長も、ここいらでは目立ってしまう。一丁ほど距離を置いて尾行していた。
 それが、あだになった。“ギザミミ”が角を曲がったとき、遅れてついていった彼は、姿を見失ったのである。
「くそっ」
堂長は僧衣のすそをひるがえして走った。
「どこへ行った!?」
やっとここまでこぎつけたというのに!手柄を一人占めするために誰も連れてこなかったことを彼は痛切に悔やんだ。
 そこは板張りのおんぼろ長屋の裏手だった。長屋は汚いどぶ川を背にしている。堂長が立っているのは、長屋と川の間の狭い土手だった。小舟でももやってあったか、と彼は思った。
「俺を探してるんだろ?」
びくっとして彼はふりむいた。緑の髪、旅人の服の若者が、退路を断つようなかっこうで立っていた。
「“ギザミミ”か」
“ギザミミ”はわざわざ片方の髪を手で掻きあげて見せた。
「よし。武器を捨ててこっちへ来い」
逃亡奴隷は発見されただけで戦意を失う。“来い”と言う命令が聞けないのは恐怖に足がすくむからであり、たいていの場合その場にひれふして命乞いをした。大神殿はそうするだけの恐怖を十分に植え付ける場所だった。
 “ギザミミ”は、そんな経験ごと堂長を笑い飛ばした。
「口のきき方に気をつけな」
「なんだと」
「お前が今立っているのは、あの場所じゃない。ここは人間の街、ラインハット王が王権によって支配し、守護する土地だ。出て行け、モンスター」
たかが逃亡奴隷にここまで言われたことはなかった。堂長はかっとして言い返した。
「その御自慢の王権、もうがたがただぞ。ラインハットの王だと?誰のことだ、ああ?」
“ギザミミ”ことヘンリーの目が、不審そうに細められた。
「おもしろいこと言うじゃないか」
奴隷ふぜいが何を、と堂長は言おうとして、口をつぐみ、ふりむいた。殺意が吹き付けた。紫のターバンの若者、“ナマイキ”ことルークがそこにいた。
「フィニアは最後に、助けてと言う時間があったのか?」
「フィニア?名など知るか」
いきなり風鳴りがした。いっ、と口走って堂長は硬直した。片側からは剣が、もう片側から杖が、前兆もタメもなしにぬきはなたれ、堂長の顔の両側へつきつけられたのだった。
 昼下がりから始まった尾行はけっこう長かったのだ。そろそろ夕暮れが近い。どぶ川の向こうは薄くもやがかかっていた。もし対岸から見ている者がいたら、滑稽で、かつ緊張した情景を見ただろう。腕を長くのばして武器を突き付ける二人の旅人と、真ん中でほぼ大の字なりになって動けずに、目を見開いたまま長屋の裏側の壁にはりついている僧侶である。
 堂長は、はっはっという自分の呼吸を聞いていた。視線をせわしなく左右に動かし、敵を見比べた。どちらを殺せばいいか彼は迷った。人間の姿からもとの自分に戻れば、あの娘と同じく、ひと噛みで命を奪える。
 だが、“ナマイキ”は恐ろしいが、“ギザミミ”を殺しては報酬が半減してしまう。だが……しかし……どうする!
 そのとき、人声がした。どぶ川の向こう側に下民の女たちが出てきて、何か洗おうとしているらしかった。
「ちょっ、なにやってるんだい、それはあたしの桶だよっ」
「よく言うわ、手癖の悪いメス猫が」
 けたたましい声を聞いて一瞬、両側の二人が視線を動かした。堂長はそれを見逃さなかった。堂長はヘンリーに飛びかかった。跳躍と同時に人の相貌から口が巨大化して狼のそれへと変わり、白い僧衣から毛の生えた太い上腕がぬっとつきだした。ヘンリーの目の中に堂長本来の雄姿が映りこんだ。
「リカント!」
彼はひきつった笑いを浮かべていた。
 ラインハット周辺には山賊ウルフが出没するし海にはシードッグなども出るのだが、リカント/ライカンスロープは、魔界の大地が生み出した古の人狼族だった。はるかに凶暴な姿を見せつけ、リカントは悠々と鋭い爪を振った。が、フィニアの体をなんなくへしおった爪は紙一重でかわされた。
「くそっ」
まるで、予測していたかのような動きだった。
 飛び退った場所でヘンリーが笑った。
「どうした!」
 リカントはかっとなった。力任せに腕を振りあげ、ヒトの二倍近い身長の高みから水車のように振り下ろした。置き捨てられた麻袋が裂け、樽や木箱が砕け散ったが、奴隷のギザミミだった若者には届かない。すべて避けきってヘンリーは叫んだ。
「お前は絶対おれを狙うと思った!」
「予測できたはずがないっ」
「おまえはいつでも一番弱い奴から殺るじゃないか!昔っからそうだ、この臆病者が!」
「よくも」
怒りで目がくらみそうだった。
 腕だけではなく、全身で飛びかかった。さすがによけきれずにヘンリーは剣で受けた。
「八つ裂きにしてやる!」
にやりとヘンリーは笑った。奴隷のギザミミはいつも無表情だった、とリカントは思った。別人のようなその顔でヘンリーは、リカントの後ろに呼びかけた。
「やれ、ルーク!」
しまった!リカントはあわてて体勢を変えようとした。振り向いた先に杖の攻撃を予期して、腕で顔をかばった。
 ルークはいなかった。
 驚きのあまり、一瞬、リカントは動きを止めた。無防備な背中に、鋼の剣が刃を滑り込ませた。
 リカントは吠えた。見くびって、見下して、そして完全に油断させられていたのだった。ほとんど胸にまで剣の切っ先は到達していた。
 “やれ、ルーク”……ひっかけられた、とリカントは思ったが、もう叫ぶだけの体力もなかった。
「とどめはぼくが刺すよ」
「おまえに殺しができるのか?」
「これはぼくがやらなくちゃいけないんだ」
視界はぼんやりと紫に染まった。何かが突き付けられた。実は杖の先端だったのだが、もうリカントにはわからなかった。
「これはフィニアのために」
 夕暮れのもやがかかるどぶ川の土手に、くぐもった悲鳴が短くあがった。悪臭の漂う長屋の裏手のことだった。二人の若者は、とどめを刺した死体を前に、ようやく息を継ぎ、肩を落とした。
「仇は討った。けど、俺たちは、結局フィニアを守り切れなかった」
と、ヘンリーが小さくつぶやいた。こく、とルークはうなずいた。
「だけど」
とルークは言って目を閉じた。
「今サンタローズへ帰ったら、フィニアがいるような気がするんだ」
 懐かしいあの家、遠慮がちなノックに答えてサンチョが勝手口を開けると、無口でまじめなあの少女がきのこや野菜の入った籠を抱えて、少しはにかんだような笑顔で立っているような、そんな情景を一瞬ルークは垣間見たのだった。