女給斬り 2.二人の用心棒

 

それから何日か、フィニアは楽しい日々を送った。出会った翌日の朝、窓を開けると紫のマントが見えた。入念に髪をとかしつけ、古いショールのふちのほつれを気にしながら、フィニアは外に出た。
「おはよう!」
ルークは、ぱっと微笑んだ。
 店についても心が弾むような気持ちは続いていた。酔っ払いにからまれても、平然としていられた。そして閉店の時間、店の裏口にルークは姿を見せ、おずおずと腕を差し出した。
「今日はどうだった?」
その腕に自分の手を預けてフィニアは答えた。
「全然聞こえなかったわ」
しつこい足音も悪意を込めて牙を鳴らす音も、フィニアは耳にしていなかった。
「あれはあたしの気のせいだったのかもしれない」
はにかみながらフィニアは言った。が、ルークは真顔だった。
「でも油断しちゃだめです。この街にはモンスターがいる」
「え」
ルークは真剣だった。
「本当です。ぼくも友達も見ました。フィニア、気を抜くとほんとに危ないんですよ、ぼくたち」
フィニアはうなずいた。そして、“ぼくたち”という言い方にうっとりした。
 一日に二度、店と家の間一緒に歩くだけだったが、フィニアはとても幸せだった。ルークが彼自身のことをあまり話さなかったので、主にフィニアがしゃべっていた。家族を失って一人で生きていくようになってから、ずっと無口で通してきた。その分を取り戻すようにフィニアはよくしゃべった。
 そんな日が何日か続いたあと、ルークが言いだした。
「明日の送り迎えなんだけど」
「はい?」
「ぼくの代わりに友達が来てもいいですか?」
フィニアは驚いた。
「お友達が、そう言えばいたのね」
「用ができて、ちょっと町の外に行きます。だから、友達にフィニアさんの送迎を頼んだんだけど、かまわないですか?」
フィニアは正直、がっかりした。
「ごめんなさい」
「しかたないわ」
ルークのしてくれる送り迎えに、フィニアはまったく報酬を出していない。完全に彼のボランティアなのだ。
「でも、町へ戻ってくるんでしょ?」
「明日一日で用は終わるから、明後日の朝はぼくが来ます」
「なら、いいわ」
ルークはほっとしたようだった。
「友達の名はヘンリー。背は僕と同じくらいで、髪の色は緑です。頼りになるやつで、ぼくにとっては兄弟みたいなものです」
「緑の髪のヘンリーね。わかったわ」

 次の日は、どんよりした曇り空だった。フィニアはためいきをついた。ルークは来ない、天気は悪い。まったく!
 そう思ってドアを開けたときだった。すぐ近くで誰かが口笛を吹いた。
「おはよう、お嬢さん。思ったより美人だなぁ!」
あわててフィニアはふりむいた。背の高い若者がドアの真横にはりついてこちらを見下ろしていた。
「ルークの奴ガキだと思ってたのに、考えを改めないとな。初めまして。おれはヘンリー」
ルークの言ったとおり、緑の髪の若者だった。肩にかかるくらいの長さだが、前髪だけは額のあたりでそろえてある。だがフィニアはめんくらった。なんとなくルークと同じ、口数の少ないはにかみ屋の若者をイメージしていたのだった。
「フィニアさんだろ?」
どうした?という表情を彼はしてみせた。
「そうですけど」
ヘンリーは気取ったしぐさで片手を差し出した。
「ただいまお迎えに参上いたしました、姫」
やっぱりヘンだ、ルークと同じで。フィニアはつい笑いが出た。
「お迎えって。ただの居酒屋ですけど」
「地の果てまでもお伴いたします」
仰々しくお辞儀をしてみせ、顔をあげてにやっと笑った。
 空はいっこうに明るくなる気配はなかった。だが、いつもの道をフィニアはいつのまにか、ヘンリーと屈託なくしゃべりながら歩いていた。話すことはたわいのないことがらだった。知り合いのヘンな癖、町で見かけた笑える物事、そしてルークの天然っぷり。彼はルークとは全然タイプの違う性格だが、歩く間に何度もフィニアは笑い声を立てた。
「あら、もうついた」
「いい店じゃないか。今度ルークとふたりで、お客で来るよ」
「ありがとう。約束ね」
ヘンリーの腕に巻き付けた手を、フィニアは自分から抜いた。そうするのがちょっと名残惜しいくらいだった。
「じゃあ、また、夜にお迎えお願いします」
「二人っきりで夜道を寄り添って?楽しみだなっ。仕事がんばって」
ぱっと笑い、片手を振ってヘンリーは行ってしまった。
 フィニアの短い一生の、最後の一日が始まった。

 ヘンリーはラインハットの下町を急いでいた。今のラインハットは、真昼間も安全とは言えないが、夜はこの街に巣食う人外の生き物が大挙して現れる時間だった。
「そういうことなら、われわれが参ります!」
と、潜伏場所に使っているかもめ亭でオレストは言ったのだった。
「わかんねえやつだな。ルークは俺に頼んだんだ」
「とはいえ、今おひとりで町に出て光の教団の手先に見つかりでもしたらどうなさる!せめて人をおつけください」
「今晩だけだ。フィニアはサンタローズへ帰りたがっているんだ。その願い、かなえてやりたい。おまえらには話しただろう?今のサンタローズがどんなありさまか」
「それは……わかっていますが」
現にオレストの元同僚も何人か、サンタローズ強襲に動員されてその手で地獄絵図を描いてきたのだった。
「あの娘を守ってやりたい。ルークはそう思ってるし、おれだってそうだ。わかってくれ」
「どうしておひとりで行かなくてはならないのですか!」
「堂々巡りかよっ!」
ヘンリーはいらだった。
「誰かつけるって言っても、具体的にどうするんだ?みんな手一杯なんだぞ」
ラインハットを支配している現太后を倒すために、ヘンリーたちは同志を集めているところだった。倒すべき相手は巨大だが味方は哀しいほど少ない。みな、いくつも仕事を抱えていた。ヘンリーの問いにオレストは答えに窮した。
「ですが」
「すぐ帰るっ」
これ以上は問答無用、とヘンリーはかもめ亭を飛び出してきたのだった。
 大通りを避けて周囲に警戒しながら、石畳を敷き詰めた暗い夜道をヘンリーが行く。後ろから誰かが追いかけてきた。
「ヘンリー?」
ヘンリーはほっとした。
「ルークか?」
暗がりから紫のターバンが現れた。
「早めに戻ってきたら君が一人で行ったってオレストさんが怒ってたから、追いかけて来たんだ」
「悪いな!あいつ、心配性なんだ」
「こんなこと頼んだぼくのほうが悪いんだよ。とにかく、行こう」
そう言うと、ルークが先に立った。

  いつもの迎えの時間に少し遅れて二人はフィニアの勤め先にたどりついた。
「フィニアなら、さっき帰ったよ」
初老の料理人はぼそっとそう言った。
「えっ、そんな」
「今日は半月遅れで給金が出たんだ。あの子は何か買いたかったんだろう」
料理人はしげしげとフィニアを迎えに来た若者ふたりを眺めた。
「ほお。男前だな。あの子はたぶん、あっちの通りで遅くまで店をやってる古着屋へ行ったんじゃねえかな。ずっとぶっきらぼうだったのに、このごろ妙に身なりを気にしてたから」
ルークたちは振り返った。道ひとつへだてた通りは確かにこの時間までにぎやかだった。
「もうちっと待ってたら、めかしこんで帰ってくるかもしれないぞ」
「女心としては、まあ、わかるけどな」
ヘンリーは言ったが、ルークは胸騒ぎがした。
「いや、やっぱり心配だ。行ってみよう」
ルークは先に立った。
 飲食店街を少し進んで曲がると屋台の集まっているところがあった。引き車の上に古着を並べただけの店が数軒あり、どれもけっこう客が来ていた。
「フィニアは?」
フィニアと同じくらいの年恰好の女性もかなりの数だった。
「いないな。そっちは?」
ルークはあせりを感じた。胸の内に妙な確信がせりあがってきた。
「店へ戻ったんなら、あっちの方角か?」
二人はフィニアを探して屋台を一軒一軒、路地をひとつひとつのぞいてまわった。
「おい、あそこ!」
低く叫んだのはヘンリーだった。いかにも暗い、建物と建物の間の狭い隙間から、布が見えている。フィニアのスカートと同じものだった。その瞬間、ルークは胸にほとんど物理的な痛みを感じた。
「フィニア」
今まで走り回って探していたルークは、やっと立ち止った。荒い息を整え、慎重に近づいた。血の匂いが鼻につきあげてきた。
 後ろからヘンリーが、屋台の一つから借りた蝋燭を掲げた。淡い光の中にフィニアの姿が現れた。
 出勤した時と同じ長いスカート、胴着、別付けの袖、前かけ。頭巾代わりのショールがなくなり、髪は乱れて地面に広がっている。彼女は眼を開いていたが、もう何も見えていないのは明らかだった。
 地厚の胴着が鋭い牙のようなものでめちゃくちゃに噛み裂かれていた。内側のブラウスがめくれ、血で染まっている。胸の傷はざっくりと割れていた。
「フィニア」
地べたへ投げ出した片手は、縁どりにレースを使った新しいショールをつかんでいる。そのすぐわきに革の小袋が落ちていた。口を縛る革ひもはほどけ、中身の金貨がろうそくを反射して光っていた。
「ひと足ちがいだったんだ!」
食いしばった歯の間からルークはつぶやいた。フィニアの体が横たわる地面はまだ乾いていて、血もひろがっていなかった。手を伸ばしてルークはフィニアの瞼を閉じさせてやった。
「フィニア、フィニア、くっ」

 サンタローズへ帰れなかった哀れな娘は素朴な棺に納められ、ラインハットの町中の小さな教会堂へ託された。そこの神父とは、ルークとヘンリーは知り合いだった。
 ささやかな葬儀が営まれ、ルークたちはひそかに参列した。仕事熱心で無口な娘のために、二人のほかに店の料理人と貸家の大家である老女が立ち会った。
「おれがあのとき引きとめていりゃあな」
弔いが済んで参列者が教会堂の外に出た時、さらに老けたような顔で料理人がそうつぶやいた。
「いくらしっかりしてるっても、まだ若い娘が小金を握って夜道を歩いてたんだ。物取りにはカモだったろうよ」
「あなたのせいじゃないんです」
ルークはそれだけ言った。
 フィニアがもらった給金は、あの革の巾着のなかにショールの代金以外はそっくり残っていたのだった。金が目的の殺しではない、とルークもヘンリーも思っていた。
「物取りだって?あんな傷、どうやってつけたんだ」
遺体の胸に残されたのは、厚手で重い、しかも研ぎ澄ました刃を数枚重ねてたたきこんだとしか見えない傷口だったのである。
「ひでぇことしやがる」
とヘンリーがつぶやいた。
「人間がやったんじゃないんだ」
初めてルークが出会った夜、フィニアは何かに追われていた。ルークはあのとき暗がりの中で確かにその気配を感じたのだった。
「音だけのモンスターってやつか」
「うん」
暗闇から響く足音、それも肉球が触れるぺたぺたという音。牙を鳴らすがちがちという嫌な響き。そして、なんとも言えずに悪意のこもった意志が暗がりからフィニアとそしてルークを狙っていたのだった。
 すぐそばで、ぐずっと鼻をすする音がした。大家の老女だった。
「まいった、まいった。払いのいい店子だったのにさ」
言葉は冷淡だったが、赤くなった鼻と潤んだ目を見れば、老女が強がっていることは明らかだった。
「は、初めてだったんだよ。あの娘が家賃を払う前に自分のものを買うだなんてね」
老女は袖口を引っ張って、目をぬぐった。
「すいません。ぼくたち、フィニアさんを守り切れなかったんです」
ルークは頭を垂れた。
 いやいや、と老女はしみの浮いた手をいそいで振った。
「あんただね。フィニアが、あの子がさ、あんたのことを話してたんだよ」
「え」
老女は鼻をすすった。
「最近浮き浮きしていてね。“近頃、仏頂面はどこやったんだい”って言ってやったらさ、ほんとにこないだ笑ったんだよ、あの子。“おもしろい人に会ったんです”だってさ」
ぼくのことか、とルークは思った。
「“こんな下町にいるのに王子様みたいなの。送り迎えをしてくれるって。ヘンな人”って、うれしそうにしてた」
老女は真剣な顔で言った。
「あんた、自分を責めるんじゃないよ。あんたはあのさびしい娘の最後の何日かをおとぎ話にしてやったんだからさ」
「ぼくは……そんな……」
ルークは指で顔をおおった。
 温かい手がルークの肩をそっとたたいた。顔を見なくても、ヘンリーだとルークにはわかった。
「奥さん、ひとつ、お願いがあるんですが」
とヘンリーは言った。
「こんな婆さんでよけりゃ聞くよ。なんだい?」
「おれたち、できればフィニアの仇を討ってやりたいんです」
ほっ、と老女は奇妙な声をあげた。
「縁もゆかりもないみなしごの娘の仇討ちかね。あんたもまあ、そうとう変わり者だね!」
「こいつとおれは押しかけ用心棒だったんです。それなのにあの子を守り切れなかった。第一犯人が野放しになってるんだ。当然ですよ」
「で、あたしゃ何をすればいいんだい」
「何かあの子のことでおぼえてることはありませんか」
「あの子が誰かの恨みを買ったかって意味だったら、悪いけど心当たりはないね。ほんとに無口であまり人付き合いのある方じゃなかったんだ。仕事場で何かあったかもしれないが、あたしには話さなかったね」
ヘンリーがルークの方を見た。どうする、話すか?ルークはうなずいた。
「あのね、奥さん。おれたち、フィニアを襲ったのは人間じゃないと思ってます」
ひぇっと老女は叫び、口もとに手を当てた。
「あんた、めったなことを言うんじゃないよ」
「あの子はこの町中にいるモンスターにやられたんだと、俺も相棒も思っています」
「そりゃあ、余計に心当たりなんてないよ」
途方に暮れたように老女は言った。
「じゃあ、変わったことはなかったですか。ルーク、おまえが初めて彼女に会ったのは、いつだっけ?」
「今月の最初の日だったよ」
老女はますます首をかしげた。
「それじゃあ、その前の日だよ、あの子が家賃を払いに来たのは。少し話をしたんだけど、そのときはモンスターのモの字も言ってやしなかったね」
ルークは小さくためいきをついた。
「悪いね、力になれなくて」
と老女は言った。
「いえ、とんでもない」
老女は、じゃあ、と言って下町へ続く道をとぼとぼと歩き始めた。
 そのおぼつかない足取りがふと、停まった。そしてよたよたと引き返してきた。
「あの子のことで、ひとつ思い出したよ」
「はい?」
とルークは言った。
「あの子が家賃を払いに来た時だけどね。店に来た客が悪だくみをしてたと言ってたよ」
ルークは目を見張った。
「それ、どんなお客さんかわかりますか!」
もしフィニアが聞いてはいけないことを聞いてしまったのだとしたら。
「光の教団の坊さんだとさ」
はっとしてルークとヘンリーは顔を見合わせた。
「その坊さんたち、どんな悪だくみをしてたんですか?」
「それがねえ。とんとわからないんだよ」
老女はくやしそうに口ぶりになった。
「あたしにはちっとも悪だくみに聞こえなかったんだから」
「というと」
「なんだかよくわからないけど、“ギザミミ”が町に入ってきたんだってさ」
ルークは立ちすくんだ。すぐそばで、ヘンリーが、目を見開いたまま硬直していた。
「ヘンリー」
押し殺した声でルークが呼んだ。が、彼は聞こえていないようだった。
 ヘンリーの片手があがり、自分の髪に触れた。
 その手がそのまますべり、片方の耳を覆った。
 指が頭髪の中へもぐりこむ。
 その手がゆっくり、上へずれていく。
 いつも長めの髪で隠している耳が露出した。
「ヘンリー!」
 狂った奴隷監督がゲタゲタと笑いながら少年奴隷の顔を岩壁に押し付け、有無を言わさず、鋭い刃でうれしそうに、その柔らかい耳を切り刻んで行く……。
 ヘンリーの耳の輪郭は切れ込みをいくつも入れられたせいで、滑らかな曲線ではなくなっていた。血が止まり傷は固まっても、形はもう、戻らなかったのだ。その事件があってから、あの場所でのヘンリーの呼び名は、“ギザミミ”になった。
「その“ギザミミ”が」
そして、ルーク自身の呼び名もあった。
「“ナマイキ”といっしょにいたっていうんだけど、なんのことだかねえ」
ルークとヘンリーは、お互いの顔を素早く盗み見た。ルークは、老女の正面に立ち、その肩に両手を置いた。
「知らない方がいい」
老女は目を丸くした。
「今のことも、誰にも言わないでください。いいですね?」
老女がうなずくまで、真顔のままルークはその顔を見つめていたのだった。