10年目の奇跡 4.第四話

 兵士たちは鯨のように飲んでいた。さきほどまで殴り合いがあったので、あちこちに杯や椅子だったものがちらかっている。ラインハットへ帰れなかったのがくやしいらしく、いつもは止めに入る兵士長までが、ひどく荒れていた。
「もう、いや。あたし、お店、たたもうかしら」
やけのように女将は自分も一杯ついで、ぐいと飲み干した。
そのとき、店に誰か入ってきた。
「今日はお店は、もう終わりですよ」
ヒューは声をかけた。
「あ、いえ、兵士長さんに用があって」
チェスの母親だった。
 ヒューは、チェスの父親と言う人をほとんど知らない。チェスがものごころつく前に病気でなくなったと聞いたことがあった。チェスはひとり息子で、女手ひとつで育てた母親に、完全に支配されていた。
 チェスの母親はおそるおそるラインハットからきた兵士長に近づいていった。
「なんだ、あんたか。昼間はごちそうになったな」
ろれつのあやしいようすで、兵士長は言った。チェスの母親は引きつった笑いを浮かべた。
「あの、お話したいことがあるんでございます」
仲間と騒いでいた兵士長は、げっぷをひとつした。
「あとにしてくれねぇか」
「そこをなんとか。おためになるお話ですので」
兵士長はじろじろと女を眺めた。
「あんたのせがれか」
「ええ。まあ」
「話してみな」
女は、座っている兵士長にかがみこむようにして何かささやいた。しばらくして、兵士長はけっとつぶやいた。
「まさか。人違いだろうぜ」
「でも、せがれが間違いないと申しますので。あの子はラインハットにいたころ、捜索のお手伝いをいたしましたのです」
「ふうん」
「町はずれにせがれを待たせております。話を聞いてやってくださいまし」

 チェスは足が震えていた。あの猫の前足がないせいだ、と思った。何もかも、悪いほうへ悪いほうへと流れていくのだった。
 母親から問い詰められたとき、しらをきってしまえばよかった。だが、昔から母親は、チェスがウソをつくと必ず見破ってしまうのだった。
 チェスがぼそぼそと白状し、懸賞金の出る行方不明を見つけたと知ると、とたんに母親は顔を輝かせて、あの怖い兵士に知らせると言い出した。
 とめればよかったのだった。
「何を言ってるの、これはチャンスなのよ。しっかりつかまくちゃぁ!」
チェスは、どうあっても今夜だけは家から外へ出たくなかった。だが、母親に、おまえがこなくてどうするの、と言われてしかたなく、本当にいやいやながら、ついてきたのだった。
 チェスは池のほとり、五、六本まとめてメリメの樹のあるところで、からだを縮めるようにして立っていた。そこへ、母親が兵士長を連れてくることになっていた。
こんなところを、ヘンリーに見つかりでもしたら。そう思った瞬間、声がふってきた。
「よう、おしゃべりのチェス」
ひいいっ、とチェスは息を呑み込んだ。暗がりの中からヘンリーが姿を現した。
「いいにおいがすると思ったら、メリメか。もう熟れてるみたいだな」
チェスはあえいだ。ヘンリーは、世間話をしながら、片手をマントの外に出していた。
「ママを待ってるんだろう?」
チェスは必死で首を振った。
「待って、助けてくれ」
「さて、お待ちかね」
どこかめんどうくさそうにヘンリーは笑った。
「昼間の鉄の塊のかわりに、スペシャルをご用意した。期待してくれよ」
「うわぁぁ」
チェスは走り出した。どうしても家の中に入らなければ、と思った。そのとき、目の前の樹に、嫌な音を立てて鎖鎌がめりこんだ。チェスの鼻先に触れるような距離に、青光りする刃があった。チェスの足から力が抜けていく。
「た、たすけて」
 びん、と空気の振るえるような音がした。鎖鎌が樹の幹からぬけて、再びきれいな軌道を描いて空中を飛んでいた。
 今は中指の輪だけではなく、片手で鎖の一端を握り、遠心力を使って軌道を調節しているようだった。
「さようなら、おしゃべり」
軌道が変わった。チェスは思わず両手を挙げて、顔をおおった。そのときだった。指の間から、こちらへ転がるように走ってくる人影を見た。母だった。
「チェスッ!」
「母ちゃん」
チェスはあえいだ。母が、昼間見たあの兵士を連れてきたのだった。兵士は鎖鎌を見て顔色を変え、あとずさった。チェスの母は、逆にチェスの方へむかって走ってきた。
「来んな、だめだ!」
だがチェスは、頭の片隅で、母親が自分の制止など聞かないと知っていた。
 チェスの足が動いた。どうして、と思うまもなく、チェスは母親のほうへ向かっていた。
 頭の後ろのほうから、刃が風を切る恐ろしい音が追いかけてくる。
 チェス、という形に口をあけたまま、すごい形相の母親が走ってくる。
 自分の腕で小柄な母のからだを捕らえ、昼間ヒューがやったように、つきとばすようにして地面に伏せた。
 殺される、とチェスは思った。
 きれいに伸びた鎖。
 月明かりに輝く刃。
 狙い、あやまたず。
 誰かが遠くで叫んでいた。
「ヘンリー!」
何かがぶつかるような金属音がした。そのまま静かになった。体の下で、母ががたがたと震えているのがわかった。
 チェスはそっと顔をあげ、ようすをうかがった。
 ヘンリーはそこにいた。もう鎖はまわっていなかった。
「こんなへまをやるなんて」
と、ヘンリーはつぶやいた。その手の中にあるのは、切れて短くなった鎖だった。チェスは思わず、先端の鎖鎌を探し、そして、ぞっとした。
 鎖鎌は、チェスと母親のうずくまっている場所のすぐ近くで、鎖の輪が数個ついたまま、地面に突き刺さっていた。
 ヘンリーは、怒りのあまり、息を吸い込むような音を立てた。
「ちくしょう、“奇跡“かよ」
ルークがそのそばについた。
「ヘンリー、話は後で。まだ片付いてないのがいる」
チェスは思わず首を回した。ラインハットの兵士が立ち直り、こちらへ近づいてくるところだった。酔いはさめたらしい。腰の鞘から、両手持ちの剣を引き抜いてかまえていた。
 ルークが身構えた。ヘンリーは、切れた鎖を持ったまま、じっと兵士の近寄るのを見守った。
「鎖鎌は、もうないようだな?」
ヘンリーは無言で両手を広げて見せた。
「よし。無駄な抵抗するなよ?武器はないんだからな」
「そりゃ、かんちがいだよ、兵隊さん」
ヘンリーが言った。
「あの鎖は、もともと荒事に使うんじゃなくて、食料を手に入れるための便利グッズだったんだ。どうか」
そう言うとヘンリーは1歩、兵士に近寄った。少なくともチェスにはそう見えた。
「お気遣いなく!」
夜目にも白い光がほとばしったように見えた。ぐぅ、と兵士の喉が音をたてた。ヘンリーの左手には、逆手に剣が握られている。喉にぴたりとつけたその鋼鉄の刃に、喉仏の動くさまが映っていた。チェスは目を見はった。そういえば、昼間会った時、ヘンリーがベルトに剣を吊っていたのを、ようやく思い出した。
兵士長がうめくように言った。
「……居合!」
「おお、知ってるねえ。さすが、正規兵だ」
チェスの記憶がよみがえった。はるか昔ラインハットで兵士に採用されたとき、オレストとかいう先輩兵士が新兵たちを訓練してくれたのだった。
 “いいか、ラインハットスタイルの剣は、迅速を尊ぶ。その極端な形が、居合抜刀術だ。難しいが、これは先手必勝の剣だ。練習次第で習得できるぞ。がんばってくれ。”
「居合を、どこで習った?」
「おれの詮索より、自分の心配をしな。返答次第によっちゃ、クビと胴体がさようならってことになるからな」
血走った目を動かして、兵士長はヘンリーの顔を見ようとしていた。
「待って、ヘンリー」
「またかよ。おまえが口出すと調子くるうんだぞ」
「いちど、奇跡が起きたんだ。試してみてもいいだろう?」
「すっぱりやっちゃった方があとくされがないと思うけどね」
ルークは首を振った。
「もし殺したら、これがきみにとって、自分の利益のためにやった最初の殺しってことになる」
「バカ言え、おれは今まで」
「ごまかされないよ。きみは自分の手を、ぼくや、ほかの奴隷たちのために汚してきたんじゃないか」
ぐぐっと音を立てて、兵士長がうめいた。苦しい姿勢をとっているので、つらいらしい。ルークが話し掛けた。
「ごめんなさい。あなたの命をどうしてもほしいわけじゃない。お願いだから、彼が、ヘンリーが生きているっていうことを、ほかの人に言わないで下さい」
「ルーク、むだだよ。おれはラインハット人ってやつをよく知ってる。大枚の懸賞金がからんだら、こいつら親だって売るぞ。今どんな返事をしても、宿舎にもどったらすぐにおれたちを追わせるだろうよ」
「そうなんですか?」
ルークが心配そうに聞いたとき、兵士長は、まだ片手にさげていた剣を取り直そうとした。そのとたん、ルークの杖が動き、指から剣の柄を叩き落した。杖はそのまま、ぴたりとみぞおちについた。
「待ってくれ!」
兵士長が叫んだ。
「今見逃してやったら、何をくれる?」
「ほんとに計算高いな、おまえ。取引できる立場かよ?」
「あんたが……」
兵士長は、一生懸命首を回してヘンリーの顔を見上げた。
「本物なら、頼みがある。おれたちがラインハットへ帰れるようにしてくれ」
「ああ?お前の隊は、島流しか?」
「故郷へ帰りたいんだ。おれの知ってる、元のラインハットへ、帰してくれ。そうしてくれるなら、あんたのことは、誰にも言わない」
「目の前のお宝あきらめてまで、か」
一瞬兵士長は迷ったが、うなずいた。
 くっくっとヘンリーは笑った。
「無欲なラインハット人かよ。今夜は奇跡のてんこもりだ」
ヘンリーは静かに刃を退いた。
「話はついた。ルーク、放してやってくれよ」
「いいんだね?」
「おれはこいつに、正常な状態のラインハットを与える。こいつはおれに、当面の行動の自由を与える。いい取引だ」
ルークは杖をおろした。兵士長は、手で首の回りに触れ、安堵のため息をついた。
「おれは……10回のうち9回まで、カンをはずさない自信がある」
ヘンリーは目を上げて、友達の顔を見た。
「けど、最後の一回は、必ずおまえが勝つんだな」
「ヘンリー、ぼくはっ」
ヘンリーは、わずかに口元をゆるめた。
「そんな顔、するなよ」
「怒ってるのは、君だろう?」
心配そうにルークが言った。
「怒ってない」
「本当に?」
「本当だよ」
いきなりヘンリーは、まだ右手にからめていた鎖を高く振り上げた。チェスは腰を抜かしたまま、首をすくめた。鎖はチェスたちの頭の上の木の枝にあたったらしかった。メリメのかぐわしい実が、ばらばらと振ってきた。
「悪かったな。詫びを受けとってくれ。じゃあな、おしゃべり」
チェスは口が聞けなかった。熟れた実の芳香が、夜の空気の中にたちこめている。
 ヘンリーは鉄色の鎖をあやつって、空中で手のひらにおさめた。それから中指の輪をはずし、池の上に腕を伸ばした。
 ヘンリーの手のひらから、鎖がはみ出して、下へこぼれていく。小さな音を立てて一端が水面に触れたと思うと、鎖はするすると水の中へ吸い込まれていった。最後に細かい水しぶきがあがった。
「いいの?」
「ああ。使いもんにならないし、もう、いらない」
そう言って、照れくさそうな顔で笑った。
「奇跡が起きたからな」
ヘンリーは、兵士長のほうを向いた。
「じゃあな。アルカパの衆にあんまり迷惑かけんなよ」
ひらりと手を振って、ヘンリーは歩きはじめた。すぐにルークも、その横へ立つように歩いていった。
 兵士長はちょっとためらい、だがヘンリーが闇の中へ消える前に声をかけた。
「お気をつけて、殿下」
夏の夜風が、吹きすぎた。
「よせよ」
ためいきのような声だけが、夜の向こうから聞こえてきた。

 起きてたのか、ルーク。いや、ちょっと、お城のことを思い出していてね。やっぱりいっぺん、帰らなきゃだめみたいだな。まったく、デールのヤツ、なにやってんだか。どこ行っても悪いウワサしか聞かないなんてな。
 あのさ、さっきの鎖だけど、あれ、奇跡なんかじゃないぞ?おれはたぶん、最後の最後ってときに、自分で鎖鎌をそらしちまったんだと思う。理由か?チェスの母親が、飛び込んできたじゃないか。あのとき、母親ってああいうもんかなって思ったら、そのう……。ま、こんなこと、お前に言ってもしょうがないよな。お互い、母親ナシで育ってんだから。
 あの鎖細かったし、使い始めて10年もたってたし、ムリな軌道変更で限界こえちまったんだ。それだけ。あの兵隊が気持ちを変えたのはとにかく、鎖の方は奇跡じゃないんだからなっ。ほんとだぞ?いちおう言っとかないと、親分のメンツってものがな……
 おい、ルーク?なんとか言えよ。
 なんだ、寝てんのかよ、人にしゃべらせといて、てめえ……。