10年目の奇跡 3.第三話

 かつて天空の勇者がエスなんたら、とかいうのを倒した、だが、そのあとはわからない……子孫はいるかもしれない……
「あまり参考にならなかったんじゃない?ごめんなさいね、お客さん」
人のいい酒場の女将が言った。
「いえ、おもしろかったです。お代は、これで」
「まあ、どうも。またいらしてね」
「お父さんに、よろしくおっしゃってください」
ルークは酒場を後にした。すっかり暗くなっている。ヘンリーの姿が見えなかった。先に宿へ戻ったらしい。
「あの」
ルークは振り向いた。昼間池のところであった、ヒューだった。
「こんばんは」
ヒューは口を開きかけ、それからもじもじした。
「何かぼくに、用があるのかな?」
「あのう、ヘンリーっていうやつ、鎖鎌で枝に止まってる鳥を落とせるって言ってたんだけど、本当か?」
ルークはちょっと驚いた。
「そんなことを言ったの?」
「ああ」
ヒューはヘンリーとした話を繰り返した。
「あいつ、チェスをどうにかする気なのかな。あんた、友達なんだろ?なんとか、ひとつ」
ルークは、だいたい察しがついた。
「ぼくが聞いてみるよ。大丈夫」
ヒューはほっとしたようだった。
「念のため、君の言っていたラインハットの兵隊って、どこにいる?」
「宿舎だけどよくうちの酒場で飲んでるよ。今日は昼間も来てたみたいだけど、たぶん夜、もうちょっとおそくなってからも」
「ありがとう」
 ルークは、ヒューと別れて宿へ戻った。ルークたちの部屋は、宿屋の一番上の階にあったが、そのなかに友達の姿はなかった。ルークは屋上へ出た。思ったとおり、屋上の端にヘンリーがいた。
「ヘンリー?」
「ああ。おかえり」
ルークに背を向けて、ヘンリーはあぐらをかいてすわっていた。片手が頭上へあがり、研ぎあがった刃が鋭く風を切る音がした。
「説教しに来たんだろ?」
「ここから見てたんだね」
ふふ、とヘンリーが笑った。
「枝にとまった鳥を落とせる、だって?」
アルカパの夜の市街を見下ろしたまま、ヘンリーは短く答えた。
「ああ」
「ずいぶん謙遜したじゃないか。ぼくは君が、飛んでる鳥をしとめるのを見たことあるよ」
「腹が減ってたんでね」
「今はそうじゃないだろ?」
ヘンリーは無言だった。
「飢えてもいない。命を脅かされているわけでもない。どうして殺すの」
ヘンリーの指が微妙に角度を変えた。
「すわったほうがいいぞ」
立っているルークの頭のすぐそばを、鋭い刃がうなりをあげて飛んでいく。ルークはその場に腰を下ろした。
「機嫌が悪いね、ヘンリー」
ヘンリーは、小さく声を立てて笑った。
「どうもシャバへもどってから、昔のことを思い出していけない。いらいらするんだ」
「どうして?」
ひときわ鋭い風斬り音がして、刃がルークの顔すれすれをかすめていった。
「おれさ、おまえに言わなかったことがある」
軽い打ち明け話のような口調でヘンリーは言った。
「10年前、あそこへ連れて行かれたときのことさ。おまえは、苦しんでいた。無理もないや。パパスさんが亡くなったばかりだったんだから」
ルークは一度口を開き、何も言えずに、閉じた。涙も出ないほどの苦しみとくやしさ。絶望。
「でも、君がいてくれたね」
「ばあか」
とヘンリーは言った。
「あのときおれはね、うれしかったんだ」
「ヘンリー?」
「ラインハットを出るのが夢だったんだぞ。いつもいつも物陰から見られて、聞き耳たてられて、ささやかれて、のぞかれて。そんな暮らしが終わったと思ったらうれしくてさ。たまらなかったよ!」
そびやかす肩。広い背中。少年期を終えた彼の腕は長く、たくましく、しゃべりながら鎖を高く回し続け、疲れたようすもなかった。
「ひいたろ」
「いや」
「うそつけ」
「だって、君はそれがうれしくて当然だったんだから。信じるよ」
「てめぇ」
「君は、うれしかったのかどうかはとにかく、ずっとぼくを見捨てないでいてくれた。食べ物を運び、ぼくをかばい、助けてくれた」
あたりは暗闇だった。そばの酒場からもれる灯火が、わずかに明るく見えるだけだった。ときどき鎖鎌の先の刃が通り過ぎるときに、きら、と輝いた。
「さっきから落ち着いてるけどな。そのうちあたるぞ、これ」
「背中にも目がついてるんだろ、君は?」
「おれのはったりを、いちいち真に受けるなよ」
「チェスとお母さんを殺さないって約束してくれたら、部屋に帰るよ」
ヘンリーはまた黙ってしまった。それから、ささやいた。
「ラインハットの懸賞金はまだ生きてる。チェスが母親に、おれを、行方不明中の第一王子を見つけた、としゃべれば、母親はラインハットの兵士に密告に行くはずだ。脱走を見逃してもらい、懸賞金を手に入れるためにな」
「見つかりたくない?」
「今、つかまるわけにはいかない。おれは、“ラインハットをこのままにしてはおかない”、とあの人に誓った」
「ヘンリー」
「生きている人間とした約束なら取り消しようもあるが、死人とした約束は破れない。今のラインハットは、変なんだ。絶対なにかあったんだと思う。それを探り出すためにも、“ヘンリー王子”が生きてちゃ都合が悪いんだ」
しばらく黙り込んだ。刃うなりが激しくなった。
「見ちゃいけないものを見たチェス。密告しかねないその母親。そしてもし、もうしゃべっていたとしたら、ラインハットの兵士。隊に報告していたら、アルカパにいる兵士全員。始末する」
「だめだよ。殺さないで」
「どうしてだ」
ヘンリーはつぶやいた。いまだにルークのほうを見ようとしなかった。
「おれは今まで、手を汚さないできたか?」
ルークは深く息を吸った。人の生き死には、なんともありふれたものだった、あの場所では。
 ヘンリーにとって、空を飛ぶ鳥をしとめるくらいは、子どもの遊びに等しいとルークは知っていた。おおぜいの奴隷やむち男、兵士のいる大神殿の地下で、誰にも気付かれることなく、一人の奴隷監督の首を切り飛ばし、そのまま手首に鎖を巻きつけ(奴隷の手に鎖が巻いてあって、何が不思議だろう)、大きな石を転がして、ヘンリーは脱出したことがある。返り血さえ、浴びなかったのだ。
「特に、密告者を許したことはないね」
「君の手がなにをしてきたか、ぼくは全部知ってる」
ヘンリーは人前ではめったに鎖を使わなかったので、マリアもたぶん、鎖鎌の技は見たことがない。手のひらの鎖と同じように、ヘンリーの記憶にはいくつもの死がたたみこまれているはずだった。
「恩に着せてるわけじゃない」
「わかってるさ。でも、ぼくは君の手が好きだよ」
「ふざけんな」
「ふざけてなんかないよ。ここは、アルカパだよ、“あの場所“じゃない」
ヘンリーは黙っていた。
「今はもう心を鎧でおおって生きなくてもいいんだ。ぼくたちは自由になった。こうは考えられない?チェスは、言わないかもしれない、って」
あははっ、とヘンリーは笑った。
「言うね、あいつは!根拠はおれのカンだよ。10のうち9までは、はずれたことがないな。言わなかったとしたら、奇跡だよ」
「奇跡が起こるかもしれないよ?」
「奇跡だって?」
おもしろくもなさそうにヘンリーが言った。
「あの場所にいたころ、いつも願ってたよな。ひょっとして足かせについている鎖がぽっきり切れないもんか、って。監督が見てない時につるはしやのみの先でたたいてみたりもした。でも、だめだった。鎖っていうのは切れないものさ」
はっ、とヘンリーはつぶやいた。
「10年間願い続けてきたのに、いまさら奇跡が起きてたまるかよ」
「それじゃ、見に行こうよ」
熟練した指先が、一瞬、動揺した。ルークは、まさに自分の鼻先を研ぎ澄ました刃が通っていくのを、目をしっかりあけたまま凝視していた。
「何を言い出すかと思ったら」
そう言って、同時に拳の角度を変えた。ときどき光りながら、鎖はヘンリーの指に巻きついていく。人差し指と中指をかるくのばし、ヘンリーは凶器をはさんで受け止めた。
「じゃ、いいんだな。密告してたら、あいつら、殺っちゃうぞ、おれ」
「君は、やらないよ」
がんこにルークは言い返した。