主ヘン十題 9.無言 前篇

 寝ている姿勢の頭の方で、窓がひとつ、開いたままぱたぱたしているらしい。風につれて蝶番のきしむ音に混じって、オラクルベリーの朝のにぎやかな物音が室内までやってきた。
 あるみら亭の主人一家は市場からもう戻ってきたようだった。大きなかまどで野菜とキノコを煮てスープを作るのだろう。女将と看板娘が素材を刻むリズミカルな音が二階まで聞こえる。
 らっ、らっ、らーと機嫌のいい鼻歌を歌いながら店の主人が中庭の大きなかまどでパンを焼いている。焼きたてのパンの清潔な香りがルークの鼻をくすぐった。
 起きて朝ごはんを食べに行こうか。それともこのまま昼まで床にもぐっていようか。今日は遅番だった。バイト先のカジノへ出勤するのは、午後も遅くていい。なにせ昨日は明け方まで、ずっと仕事だったのだ。
「ヘンリー、起きてる?」
寝ぼけた声でそう言って、ルークは昨夜の騒ぎを思い出し、一気に目がさめた。息を殺して隣のベッドのようすをうかがう。静かだった。寝息さえ聞こえない。ルークは思い切って目を開け、隣を見てみた。ヘンリーのベッドには、誰もいなかった。ベッドは使ったらしく、掛け布がめくれている。
「朝ごはんを食べに行ったのかな」
いつもは行くときに起こしてくれるのに、そうつぶやいて、なにげなくベッドの頭の方を見て、どきりとした。
 くしゃくしゃになった掛け布の上に、一匹の猫がうずくまっていた。
 子猫よりは大きいが、年寄りのデブ猫というわけではない。ほっそりとして、まだあごが細く見えた。つやつやした黒い毛並みが尻尾の先まで続いている。だが四足の内側と胸、腹の部分は、目を奪うような純白だった。
ルークがベッドから降りて近寄ると、猫は大きな目を見開いて、視線で動きを追いかけた。ルークは、ごくりとつばを飲み込んだ。
「待った。なにもしないよ」
 黒猫の目は、形容しがたい色をしていた。無関心のようで、何か誘いを掛けているようでもある。黒猫は、すきのないしぐさで身を起こした。あらためて腰を落としてすわりこみ、前足を上げてなめ、顔をこすりはじめた。そのあいだも、ちらちらと視線をむけてくる。まるで、“まだわかんないのかよ”と言われているような気がした。
 その言い方が、なんとなく、耳慣れているようである。そうだ、とルークは思った。一目見た瞬間から、猫はヘンリーを連想させたのだった。
「ヘンリー?」
ためしに呼ぶと、ごくあたりまえのような声で、みゃあと返事が返ってきた。猫の口元にピンク色の舌と、針のような牙が見えた。
「きみ、まさか」
はるか昔には、人間を動物に変えてしまうほど強力な呪いをかける呪文もあった、と聞いたことがある。ルークは手を伸ばして、猫に触ろうとした。
 黒猫は目を細めて身構えた。ルークはもう一度ぎょっとした。猫の耳の片方は、ぎざぎざにちぎれていた。
 ルークは、ヘンリーの耳の片方が、奴隷時代に受けた虐待の名残でぎざぎざになっていることも、それを長めに伸ばした髪でいつも隠していることも知っていた。
さっと猫が身を翻した。
「ヘンリー!まさか、本当に?」
黒猫はひと跳びで床に下りた。
「うそだろ?どこ行くんだい」
 猫は、尻尾を上げて歩き始めた。歩き方がなんとも猫らしい。猫だからあたりまえなのだが、肢の運びは腰が高く、尻尾でバランスをとっている。それはアルバイトでカジノのウェイターを務めるときのヘンリーの気取った風な歩き方によく似ていた。
 ドアのところで立ち止まり、前脚で軽く引っかいてルークのほうを見た。
「開けて欲しいの?」
ノブをまわしてドアを開けてやると、“ご苦労“というしぐさでうなずいた。
「待って、一階?朝ごはんを食べに行くのかい?いっしょに行くよ。着替えるから待って」
黒猫はそれを聞いて、階段の前にうずくまった。前足の上に頭を乗せて、横目でこちらをうかがった。
「早くしろよ」
というヘンリーの声が聞こえてきそうな表情だった。
 ルークが服を身につけて部屋を出てくると、黒猫はまだうずくまったままだった。視線を上げて、みゃあ、と鳴いた。
「はいはい」
しかたなく両腕を差し出すと、猫は満足そうに抱き上げられた。
「猫になっても親分なんだから」
何気なく口にしてルークはどきりとした。
「まさか、本当に君?」
黒猫は眼を閉じてあくびをもらした。
「とっとと運べっていうのかい?ああ、わかったよ」
階下へ降りてくると、あるみら亭の看板娘、デイジーがおはようございます、と声をかけてきた。
「おはよう!あの、ヘンリーはもう降りてきた?」
「いいえ?」
とデイジーは言った。
「今日はまだ、お見かけしていませんけど。あら、猫?」
「つれて来てよかったかな?部屋にいたんだ」
黒猫は頭をもたげデイジーを見ている。愛嬌のある声でみゃーんと鳴いてみせた。
「窓から入ってきちゃったのかしら。おいで。何かあげるから」
黒猫はさっとルークの腕を離れ、デイジーの足元へまとわりついた。
「おなかすいてるの?昨日の残りでいいかしら。はい、どうぞ」
 朝っぱらのことで客はまだ誰もいない。まかない料理をルークは朝食に出してもらった。黒猫はルークの足元に皿を置いてもらい、そこから満足そうに食べている。声を殺してルークは言った。
「君は猫でも女の子に親切にしてもらえるわけかい?」
「みゃあ」
当然だろ、という答えがかえってきた。
デイジーがマグカップに水を入れて持ってきてくれた。
「あの、何かあったんですか?いつも二人一緒なのに」
「え、ああ」
ルークはためいきをついた。
「夕べカジノでちょっと騒ぎがあって。実は詐欺だったんだ」
「あらやだ。このところ多いですね」
「うん……ぼくもひっかかったんだ」
「ええっ?」
「でもヘンリーが詐欺だと見破って、お金は無事だった」
「さすが」
「……ヘンリーは、『人を見たらドロボウと思え!』って言うんだよ」
「そうでしょうね」
「でもぼくは、“人を疑ってかかるくらいなら、騙されたってかまわない”って言っちゃった」
「それもルークさんらしいわ」
ルークは首を振った。
「らしい、って言うのかな。騙されかけたのが恥ずかしくて、意地になってたんだ。夕べは気まずくて、で、朝はヘンリーがいなくて」
デイジーは優しく笑った。
「大丈夫ですよ。友だちなんだから」
「そうかな」
 意見や考えが違うことは今までもあった。それでもずっと、友だちでいた。
「そうかもしれない。考えることがなにもかも同じってことはないんだ」
考え方の違う人間どうしが友だちでいようとするには、努力も必要なんだ、と改めてルークは思った。
「今晩仕事の後でヘンリーと話し合ってみるよ」
「それがいいですよ。うちなんか、父さんと母さんと、友だちどころか夫婦なのに、意見や考えがずいぶん違うんですよ」
「じゃあ、デイジーがたいへんだね」
「ええ、でも退屈はしません。今度父が、料理に香料入りのお酒を使うのはどうかって言い出したんです。母は反対したんですけど……」
ルークは食事をしながらしばらくあるみら亭のうちわ話につきあっていた。
「ごちそうさま!おいしかった」
まかない料理は、新米料理人でもあるデイジーの作品だった。デイジーはうれしそうに微笑んだ。
「バイト、午後からなんですか?」
「うん。午前中は時間があるから、ぼくが買い物に行こうか?」
「すいません。助かります」
新作料理に使う香草や酒の名前をいくつか教えられ、ルークはオラクルベリーの街中へ出てきた。
 オラクルベリーの市街では、ごくあたりまえの一日が始まっていた。あるみら亭は下町にあるので、少し歩くと職人街、その先には市場があった。ふと気がつくと、あるみら亭から黒猫がすべるように出てきてルークの先に立って歩き出した。
「どこへ行くんだい?」
「みゃあ」
別に猫のあとをついていく必要はないのだ、とルークは自分に言い聞かせた。第一、人間がいきなり猫になるわけがない。そう思ったとき、猫がこちらをふりむいた。光線の角度のせいか、緑がかって見えた。
「ああ、わかったよ。行けばいいんだろう?」
「みゃあ」
ルークの目には、どうも猫がついて来いと言ったように見えたのだが、黒猫はさっと民家の塀の下へもぐりこむとどこかへ行ってしまった。
「気まぐれなんだから」
 まさか本当にヘンリーじゃないよね、と思いながらルークは市場までやってきた。
 港町オラクルベリーの市場で一番有名なのは魚介類だった。港から続く広い街路を埋めるほどの屋台が並んでいる。樽をどんと据えるか広い木の台を置いて、その上に並べたざるの中で魚がびちびちと動いているくらい新鮮なのを売るのだった。
 売り子も漁師らしく威勢のいい掛け声をあげ、客は客で堂々と大声で値段の交渉をしている。新鮮な魚が飛ぶように売れていく屋台の横では、獲れたての魚をさばいてさっと揚げる店が出ていて、揚げ油のいい香りがつんと漂っていた。
 その香りを楽しみながら通り過ぎると青物市場になる。こちらもたいした人ごみだった。さまざまな食品食材を売る店があり、歩くだけでスパイスの香りに包まれた。ルークはメモを見ながらデイジーに頼まれた物を買い集めた。
「あとはお酒かな」
メモを見ながらルークはつぶやいた。そこは屋台店の通りと通りが交差するところだった。角店の八百屋の樽の陰に何かいる。緑の目が光った。ルークは今朝のあの黒猫がそこにいるのを見つけてしまった。
「何してるんだい?」
とルークは言った。買った品物を腕に抱えたまましゃがみこんで、黒猫にわざわざ話しかけた。
「きみ、ええと、今朝の猫だよね?」
 つやつやの毛皮、ぎざぎざの耳、たぶん、この子だ、と思ったとき、猫はじっとルークに視線をそそぎ、やおらぎゅっと眼を閉じた。印象的な瞳が線のようになる。そしてかっと見開いた。
いきなり猫は動き出した。
「どこ行くんだよ」
黒い尻尾をひらひらさせて猫は市場を小走りに通り抜けていく。
「ちょっと待ってよ」
頭では否定しても、心の中でどうしてもあの猫が実はヘンリーなのではないかと思ってしまう。
「ぼくから離れちゃダメだ。今の状態で野犬に襲われたらいくらきみでも……」
黒猫は実に気まぐれだった。人間の作った道を歩く義理はないとばかり、屋台の天幕の上に飛び乗り、店と店の細い隙間を通り抜けていく。
「ヘンリー、ヘンリー、待って」
そのわがままっぷりといい、わが道を行くプライドといい、ルークにとってその黒猫の呼び名はすでにヘンリー以外にはありえなかった。
「ぼくはそんなところは歩けないんだから……うわっ、どこまで行くんだよ」
ルークはぼやきながら後を追った。
「おい、あんた、邪魔だよ」
「ちょっとこっちへ入ってきちゃだめだ!」
すいません、を何回言ったかわからない。スパイスの樽につまづきそうになり、天幕の上からぶら下げた干し肉を顔でかきわけ、白い目でにらまれながら細工師の屋台店を通り抜け、ルークは市場の石畳を猫を追いかけて走った。
「ヘンリー、頼むから」
「みゃ」
 急にヘンリー猫は石畳にうずくまった。姿勢を低くして、前方にじっと視線を注いでいる。前足の肉球から爪が現れた。ルークも立ち止まった。ヘンリー猫がようすをうかがっているのは、市場のはずれの小さな店と店の間だった。
 どことなく影の薄い猫背の若い男がうつむいている。
「役割は飲み込んだな?」
猫背の男の前に立っているのは額の禿げ上がったやせてつり目の中年男だった。猫背の男は、口の中で何かもぐもぐとつぶやいた。
「わかったのかって聞いてんだよ!」
禿の中年は短気らしい。いきなりどなりつけた。猫背の若者はわかりました、と言った。
 ルークは思わずつぶやいた。
「あのやせた中年のほう、見覚えがある。夕べの詐欺師じゃないか!」
「み!」
と猫が短く鳴いた。それはあきらかに“しっ、静かに“だった。ルークは息を殺した。
禿の中年が向きを変えた。顔がよく見えるようになると、ルークは夕べの騒ぎをまざまざと思い出した。