オラクルベリーの仮面祭 第一話

 暖かく湿ったものが顔に触った。アイルは疲れきっていたが、手で払いのけた。それは再びアイルの鼻に触れ、ほほをやさしく突いた。
 びくっとしてアイルは飛び起きた。
「プックル」
すぐそばに、キラーパンサーの巨体があった。プックルはもう一度舌を出して、アイルの顔をなめた。猫族の表情豊かな目が、助かったのだと告げた。
 朱色のたてがみの向こうに、青く澄んだ空が広がっている。白い雲がゆっくりと動いていくのが見えた。強い磯の香りがした。波の音は深い響きを幾度となく繰り返していた。アイルが身体を起そうとすると、指がずぶずぶと湿った土にめりこんだ。
「それじゃ、ぼくたち、流れついたんだ……?」
 昨日、海は狂い、空は光り、風は吼えた。
 壁が押し寄せてくるような大波に飲まれて、船が壊れたところまで、アイルは覚えていた。
「カイは?サンチョは?ほかのみんなは?」
そう言ってから、アイルはものすごく喉が乾いていることに気がついた。
 ゆうべ、しこたま海水を呑んでしまった。口の中がひりひりしている。アイルは立ちあがった。
 アイルが寝ていたのは、砂浜の近くの荒地だった。そばに流木も転がっている。今は引き潮なのだ、とアイルは思った。
 嵐はどこへいったのだろう。海は今、無邪気を装って鏡のようになっている。空は青く透明に、風はささやき声のようだった。
「アイル」
呼ばれてアイルは振り返った。双子の妹、カイが、金物のひしゃくをを捧げ持つようにして、荒地の向こうの丘から姿を現した。
「気がついた?はい、水をもらってきたわ」
アイルは夢中でひしゃくの縁に唇をつけた。冷たい真水が喉を潤していった。
「ぷはーっ」
アイルは息をついた。こんなに美味しい水は、生まれたはじめてだと思った。
「ごめん、全部飲んじゃった」
「いいよ。わたし、井戸のところでもらったの」
「井戸があるの?」
「あの丘の向こうに、修道院があるの。シスターさんにわけを話したら、水を分けてくれたわ」
 カイの指すほうを見上げると、荒地を背景に十字架をいただいた鐘楼が見えた。こんな海辺の、ずいぶん淋しいところに修道院があるんだ、とアイルは思った。
 尼僧が一人、まばらに草の生えた荒地を越えてやってくるのが見えた。
「みなさん、来て。遭難ですよ」
尼僧は後ろを振り返って人を呼んでいるようだった。
「昨日の嵐はすごかったものね」
「まあ、子供じゃないの」
「漂着なんて、何年ぶりかしら」
口々に言いながら尼僧たちがやってきた。

 乾いて清潔な修道院の一室で、双子はゆっくりと休んだ。プックルたちは当然のように双子の足元に寝た。
 結局、プックル、スラリン、メッキーがいっしょに流れ着いたらしかった。サンチョとピエール、ホイミン、クックルは見つからなかった。
 着替え等は全部失ったが、幸いゴールドの袋はカイがサンチョと別に持っていたし、口で言えないほど貴重なアイルの荷物も無事だった。
「この島の沖には、強い海流があるんだけど、だいたいこの島と隣の島の間へ向かっているんだよ」
修道院の台所で働くおばさんが皿に熱いスープをよそいながら双子に言った。
「そのお連れさんたちも、どっちかの島に流れ着いているんじゃないかね」
「きっとそうだよ、ね、カイ」
ふーふーとスープを冷ましながらアイルは元気よく言った。
「もしそうだとしたら、あ、ありがとうございます」
おばさんから黒パンとチーズを受け取ってカイは言った。
「私たち、このへんで一番大きな村か町へ行かなくちゃ」
「あら、どして?ここにいればいいのに」
「前からの約束なんです。もしはぐれたら、そのあたりで一番大きい町の、入口にできるだけ近い宿で待つって」
「お嬢ちゃん、七つにしちゃあ、しっかりしてるねえ。お兄ちゃんが、顔負けだこりゃ」
おばさんは、はっはっと笑った。
「一番大きい町って言えば、文句なしにオラクルベリーだよ。ここから北へ行けばすぐだ。あら、でも」
おばさんはぽんと手を打った。
「宿を取るなら、急いだほうがいいわ。明日から、オラクルベリーの仮面祭だからね。宿は満員になるよ」
「たいへんだっ」
アイルがとびあがった。
「行こう、カイ、すぐ行こう」
思い立つとすぐ、という性格でアイルはばたばたと仕度を整えた。カイは修道院の院長にていねいにお礼を言って、サンチョが来たときのために伝言まで頼んでから修道院を出た。
「御世話になりました」
「気をつけておいでなさい」
修道院の人々は、元気な男の子としっかりした女の子と、そしてモンスターたちを温かく送り出した。
「いまどき珍しいような子たちでしたね」
話しかけられたシスターはちょっと黙っていた。それからとうとつに聞いた。
「あの坊やの顔、どこかで見たことない?」
「あら、あたしもそう思ってたの」
古参のシスターが答えた。
「こんなことが前にもあったって、そんな気がしてしょうがないの」

 オラクルベリーは南北それぞれに一つづつ街門を持つ、巨大な貿易都市だった。
 アイルたちは南のほうから来たので港を通りぬけることになった。どこまでも続く桟橋に大きな商船がたくさん係留されて、色鮮やかな旗を潮風になびかせていた。
 飛び交う外国語。不思議な記号や絵のついた大きな木箱。忙しそうに立ち働く人の群れ。それは長く旅をしてきた双子でさえ、胸の踊るような光景だった。
 港を抜けて街へ来れば、巨人が通るかと思うほど高くて幅広い扉の門があり、そのむこうに店がたくさん並んでいた。
 そして、人、人、人の波。
「今日からもう、お祭りなのかな」
「ううん、これが普通の状態なのよ、きっと」
口では言ったが、カイは信じられない思いだった。
 立派な店舗に華麗な武具を飾ってある店もあれば、むしろのうえに薬草を並べただけの店もある。カイは故郷の都の市場の賑わいを思い出した。
「サンチョ、来てくれるかしら」
「大丈夫に決まってるじゃん。ほら、ピエールもいっしょだし」
アイルは明るく言いきった。まったく根拠はないのだが、カイは、兄が楽天的なときいつも感じるように、なんとなく安心した。
「そうね。宿を決めましょうよ。今夜にでもサンチョに会えるかもしれない」
ここがいーかなー、あそこかなー、とアイルは騒々しくはしゃぎながら歩いていった。
 南の街門に一番近い宿は“満員御礼”だった。次の宿は、団体が入るから、といって断られた。その次は、プックルを見ると、フロントから人が逃げ去り、待っても待っても帰ってこなかった。
 さすがのアイルが、もう選り好みをする気力もなくして、一軒づつ順繰りにあたることにしたが、結果は同じようなものだった。何軒目かに訪れたのはいかにも場末の宿で、“陽気な漁師亭”といった。
「ごめんください」
それでもカイは、フロントにいた女将らしい中年の女にまじめに挨拶した。
「宿をお願いできますか」
「お嬢ちゃんたちだけかい?お母さんはどこ?」
どの宿でも、だいたい同じ反応だった。
「あの、親戚の小父さんと一緒に旅をしてるんですけど、その人と、この町で待ち合わせすることになってるんです」
「ああ、そう」
その説明はどの宿でもあまり驚かれなかった。行商人の一家にとっては、当たり前のことらしい。問題はその次だった。
「って、あんたらそれ、モンスターじゃないか!」
アイルとカイはうなだれた。
 今までは宿との交渉は全部サンチョがしてくれた。こんなに旅が大変だとは、思ってもみなかった。メッキーは申し訳なさそうに首を縮め、スラリンは溶けてしまった。プックルは大きなしなやかな体をすりよせてきた。女将の言葉がわかるようだった。
「おまえのせいじゃないよ」
アイルはそう言って、プックルの体をぽんぽんとたたいた。
「ごめんなさい。ほかをあたります」
カイとアイルは、宿を出ようとした。そのとき女将が呼びとめた。
「お待ちよ、ちょっと。他をあたるってどこだって同じだよ。そんな子供だけで、もう、親は何をやってるんだか」
人のよさそうな女将は口を尖らせ、そして意外なことを聞いた。
「あのさ、その、そいつら、リボンをしてるかい?」
「ええ?」
「オラクルベリーじゃ、領主様が妙なお触れを出してね。『リボンをつけていれば、モンスターはペットと見なす。飼主が責任を持つ場合、宿は宿泊を断ってはならない』ってんだよ。変だよねえ、誰がモンスターなんぞペットにするかと思ったんだけど、ほんとにいたんだねえ」
 アイルがカイをつついた。女将のおしゃべりの間に、カイは頭の両側からリボンをむしりとった。女将が一息入れたとき、スラリンはてっぺんに、メッキーは首に、そしてプックルはもとから、リボンをつけていた。
「見て見て!」
女将はためいきをついた。
「認めましょ。御二人様ご案内!」

 双子と“ペット”たちは、一階の奥に部屋を取った。まもなく若い女中が宿帳を持ってきた。
「かわいいお客さん方、宿帳をお願いしますね。それからお食事はどうします?ふつうは向こうの食堂でお食事をしてもらうんだけど、あら、これがペット?すっご~い、あたし近くで見たかったのよ」
ほほの赤い女中は興奮して目を輝かせた。
「みんな、いい子たちなの。でも食堂へ連れてったら慣れない人は驚くわよね。あとで何かもらえますか?ここで食べさせるから」
アイルは先に宿帳を手に取った。
「アイトヘル・オブ・グランバニア、七歳と三ヶ月、と。ぼくもう、おなかぺこぺこ。すぐ食べにいっていい?」
「ご用意できていますよ。キャ~、この毛並み。触っていいかなぁ?」
「背中をね、うん、頭からしっぽのほうへ向かってなでてやると喜ぶよ」
「きゃ~、きゃ~」
その陽気な女中のおかげで、アイルもカイも、少し気分が軽くなった。カイは飛び跳ねるような兄の字の下に、自分の名前と年齢をきちんと書き込んで宿帳を返した。
 あたし、ルイーズ、とその女中は言って、プックルたちに御飯をみつくろってくれると約束した。
「じゃ、食堂へ行ってくるね」
「お留守番お願いね」
二人とも、なんだか楽天的になっていた。まるで、食堂へ行けばすぐにでも、サンチョやピエールたちと再会できるような気がした。

 騒がしい食堂の片隅で双子は夕御飯を食べた。二人の目は自然と宿の入口に集中したが、その夜は、見なれたあの太った姿が現れることはなかった。
「サンチョ、来ないね」
「うん。でも、これ、おいしいよ、カイ!」
 メニューは一種類だけで、オラクルベリー名物の貝や魚をたっぷり入れたブイヤベースと、噛めばじわりと肉汁のしみてくるアツアツのソーセージをはさんだコッペパン。お客はみな、酒を片手に、笑ったり騒いだりしながら、うまそうに食べていた。旅の商人や職人が多いようで、みな、明日に迫った仮面祭のことを話していた。
「稼ぎ時だからな!」
「今年は、街のいいとこに場所をとったんだ」
商売目当て半分、観光半分、というところらしい。
 二人が満腹してフロントへ戻ると、女将は見知らぬ小男と話していた。
「ごちそうさま、美味しかったよ!」
「あら、旦那さん、お探しのお子さんが来たよ」
小男は驚いたようすで宿帳から目を上げてアイルを見た。あまり人相のよくない男だった。
「わ、わ、人違いしたようだ」
小男はそんな意味のことをぶつぶつ言うと、逃げるように出ていった。
「なんだい、ありゃあ。親戚の子を探しているから宿帳を見せてくれって言うんで、あたしゃてっきり……ねえ、あれ、あんたがたの小父さんじゃないよねえ」
「ぜんぜんちがうよ。サンチョはもっと太ってるもん」
女将は顔をしかめた。
「やれやれ。あたしゃ真っ正直に宿屋をやってるんだ。知らない人に宿帳見せるなんてとんでもないこった。ごめんなさいよ、小さなお客さん方」
女将は人がよく、そしてたいそうなしゃべり好きであるらしかった。
「今この町はお祭りのために、よそもんが集まってきてるからね。それでなくても下町にはスリも多いし、人さらいがあったって聞くし。坊やも嬢ちゃんも、いいとこの子みたいだね。気を付けな」
「え、ええ」
ずっと宿屋の女将をしているだけあって、女将は双子の身分を感じ取ったらしい。カイはちょっと驚いた。見た目で人をきめつけてはいけないんだと、あらためて思った。
 部屋へ戻るとルイーズが魚のあら煮を鍋ごと持ってきた。
「たくさん、おあがり~」
この人もそう、とカイは思う。潜在的にモンスター使いの素質があるのだ。
 人よりもモンスターを怖がらないというていどの素質なら、実はかなりいる、とサンチョは言っていた。が、カイやアイルのようにモンスターと一緒に暮らせる者は少ない。
「そして野生の凶暴なモンスターと心を通わせるほどの天分の持ち主となると、マーサ様と坊ちゃまのお二方だけです、今のところ」
いつだかサンチョは、鼻高々とそう言ったものだった。

 次の日、オラクルベリー仮面祭が始まった。
「アイルさんたちも見に行くでしょ?」
ルイーズは朝食の給仕をしながら、うきうきしていた。
「あたしもね、仕事終わったら踊りに行くんですぅ。今年の仮面は赤青の塗り分けにしたの」
カイはルイーズにつられて笑った。
「夕べもみんな仮面祭のことを話してたわ。おもしろいの?」
ルイーズは大きくうなずいた。
「そりゃあもう。誰だかわからない人と手を取って踊るんですもん。知り合いかどうかは、髪型とか、背の高さとか、口元で見分けるしかないの。絶対に恋人だと思って踊ってて、最後のダンスで仮面を取ったら、人違いだったりしてね」
アイルは笑い転げた。
「でも、あたし、彼には今年どんな仮面をかぶるか教えてあるから、きっと誘ってくれるわ」
「ルイーズさん、うれしそう」
えへ、とルイーズは笑った。
「見物に行くなら、仮面を貸してあげましょうか。今日から二日のあいだは、仮面がないと町を歩けないんですよ」
 お祭りの仮面は額から鼻の上までを覆うデザインで、片方が小鳥、片方がウサギの顔に似せて模様をつけてあった。大人用だから少しぶかぶかだったが、頭の後ろで紐をきつく締めてとめた。
 アイルがウサギ、カイが小鳥である。
「みんな、見て見て」
プックルたちにひとしきり見せた後、やはり外へ行きたくなった。祭りの雰囲気は特別だった。
「楽しんできてね」
ルイーズに言われて双子は、うきうきと“陽気な漁師亭”をでた。
だが、アイルもカイも、宿のそばに張りついた小男が他の男に話しかけるのは聞いていなかった。
「ウサギのほうをやれ」

 町は昨日よりもまだ華やかになっていた。町のあちこちにオラクルベリー市の紋章を描いた旗や派手な吹流しがあがり、どの家も花飾りできれいに装っていた。心を誘う音楽がそこかしこから沸きあがる。もう広場でも街角でも踊りの輪ができていた。着飾って仮面をつけた男女が次々とパートナーを代えて、テンポの速いダンスを踊っている。見るからに楽しそうだった。
「店長、お祭り見に行ってもいいでしょう?」
「バカ言っちゃいけねえ!今日は書き入れ時だぜ。おまえがいなくなったら、誰が店番をやるんだよ」
「どうせ、捨て値同然のくせに」
「あったりめえよ、一年の商売繁盛を祈るんだ。けち臭いまねができるかってんだ」
「ちっくしょ~。夜になったら、絶対踊りに行ってやる!そこのお客さん、三個で10ゴールドでいいよっ、もってけドロボー!」
 どの店でもそんなやりとりが繰り広げられている。双子は笑いながら町をそぞろ歩き、大通りへ出た。
 大通りはダンスのメイン会場になっていた。奇抜な衣装に大きな帽子をかぶったり、かつらをつけたり、仮面の下半分の顔に顔料で模様を描く者もいて、本当に猫や鹿に見える。その顔料売りや仮面売り、そしてお菓子売りや果物売りが、大通りの、いや、町のいたるところで大声ではやし立てている。
「カイ、あれ食べようよ」
アイルはひっきりなしにそう叫んで飛んで歩いた。カイもいっとき、不安を忘れた。祭りの熱狂が乗り移ってくる。ステップを踏むようにして歩いていると、ふと仮面を結んだ紐が緩んだ。
「ちょっと待って、これ、取れそうなの」
屋台の陰でカイは小鳥の仮面をはずした。
「じゃ、とりかえっこしよう」
アイルはウサギの仮面を差し出し、双子はいそいそと仮面を交換した。
「見て、パレードが来る!」
 華やかな一団が近づいてきた。楽器を演奏する一群と、肌もあらわな衣装の踊り子たちが、きらびやかな仮面をつけて軽快に踊りながら通っていく。あたりから拍手がわきおこった。
「カジノのきれいどころだ!」
「今年はすげーな!」
 ちょうど、移動舞台がごろごろとやってくるところだった。舞台の上には、華麗なステージ衣装の踊り子が一人、手の込んだステップを軽々と踏み、高々と足を上げ、そして、両手を広げて喝采に答えているところだった。バックダンサーたちを従えてソロを踊る彼女は、誇らしげな女王のようだった。
「トーモ!」
観客たちは美しいダンサーの名を呼び、口笛を吹いてはやしたてた。
 その一瞬、双子も注意を奪われていた。誰だかわからない大きな手がいきなりカイの口をふさいだ。あっと思ったとき下腹に激しい衝撃を感じ、そのままカイは無意識の中へ落ちていった。