関所の兵士 

 それは最後の朝だった。
 ボルダ川の上に朝もやが流れ、国境地帯の森から鳥の鳴き声がかすかに聞こえていた。
「整列」
 ラインハット王国辺境警備隊は、その日をもって辞任する警備隊長オレストのもとに集合した。警備隊員の一人、トムは、眠れなくて赤くなった目を隠そうとうつむいた。
 オレスト隊長は、もともとラインハット城警備にあたっていたエリートだった。はじめて兵士に採用されたときから、トムにとって憧れの人だった。
「なあ、トム、あのころはよかったな」
 夕べ、トムと隊長がささやかな送別の酒盛りをしていたとき、隊長は酔いのまわった顔でそう言った。トムにはオレストの言いたいことがすぐわかった。
「お城にいたころですか。俺が兵士に採用されたばかりで、隊長は若くてかっこよくて、先代の王様がご健在で」
思い出はトムとオレストを、酒よりも熱いものでしみじみと浸した。
「アデル様もまだ、妙な宗教にかぶれていなくて、ラインハットの町は活気があって、威勢がよくて、酒がうまくて」
「いけ好かないゴーネンの野郎が、宰相にもオラクルベリー公爵にもなってなくて、祭りになれば若い娘たちが着飾って、踊って」
「世界中から人が集まってきて、ラインハットのすごさにぶったまげて、俺たちも休暇になりゃあ、ちょっとオラクルベリーに足を伸ばしてカジノに行って」
「全部すって!」
「美人にふられて!」
「あのころはよかったなよあ」
トムと隊長は声をそろえていった。
「あのクソガキさえいなきゃ!」
二人の酔っぱらいは笑いころげた。
「俺が何回あいつの落書きを消してやったと思う?モップとバケツを持って、なんで俺が消さなきゃならないんだ、ッてぶつぶつ言ってたら、あのガキ、いきなり俺の頭にインクをぶちまけやがったんだぜ」
「隊長はまだいいじゃないですか。俺なんかカエルですよ、大っ嫌いなカエル。台所の壷の中にまるまる肥えたやつが入ってたんですよ。俺がびっくりしてシリモチついたのをあのガキが見て喜びやがって。それ以来、廊下を歩くとカエルが背中へもぐりこむ、中庭へ出ようとするとカエルが降ってくる、寝ようとするとベッドのなかに入ってんですよ」
トムは一気にしゃべって息をついた。
「しかも、十ッ匹ぐらい!」
 あのクソガキとは、エリオス六世とヘレナ王妃の間に生まれた第一王子、ヘンリーのことだった。産まれてすぐ母王妃が死亡し、父王の後妻であるアデル王妃を継母に持ったわりには、元気と過激ではちきれそうな、七歳にしてすでに筋金入りのいたずら小僧だった。
「今思うと、あのクソガキのいる城でよく暮らしましたよね」
「まったくだ。お城ライフは一寸先が闇だった」
「意見したやついたんですか?」
「陛下が甘やかしたからなあ」
「あのおばさんだけでしたよね」
オレストはくすっと笑った。
「メルダだったかな。城の厨房のおばさんだろ?いきなりクソガキを逆さに抱えて、けつをぶったたいてた」
「笑えましたよね。クソガキが手ぇばたばたして、うわ~、やめろ~、もうしないよ~って」
オレストは手を打って大笑いしたが、やがて笑いすぎの涙をふいて言った。
「今ごろ、どうしておられるか」
そのヘンリー王子は、七歳のときに行方不明となった。
父王は大掛かりな捜索網を敷き、自分自身が病に倒れるまで、息子を捜し求めてやまなかった。
「ムリですよね。アデル様が十年以上も邪魔者の王子を生かしておくわけがない」
おい、とオレストが言ったが、トムは首を振った。
「もういいじゃないですか。誰でも知ってることですから。デール様かわいさに、アデル王妃がヘンリー様をさらわせたってことですよ」
確かに遺体はいまだに見つかっていないが、トムも含めて人々は、まず生きてはいまいと思っている。
 国王エリオス六世崩御のあと、王位継承はもめにもめた。王位継承権第一位所持者のヘンリー王子が不在なのだ。
 黒い噂はあるがとにかく王妃であるアデルが産んだ、デール王子か。エリオス六世の次の弟、ディントン大公アドリアン、または末弟グレイブルグ大公オーリンか。
 結局デール王子が即位すると、グレイブルグ大公は急な病死をとげ、ディントン大公は謀反の罪に問われて刑死した。アデル摂政太后の手はどこまでも届くのだった。
「あのあとでしたね、こっちへ来たのは」
そのころオレストは明確な理由もなく、王城から辺境へ左遷された。
「めずらしかないさ。ディントンの乱に関係あると思われたら、誰でも飛ばされたんだあのころは。おまえさん、俺についてくることはなかったんだぜ」
オレストが左遷されたとき、トムは自分から願い出て、ボルダ川の関所に転属したのだった。
「城にいたくなかったんです。あそこは腐ってた」
強いほうへ、強いほうへと目の色を変える。なりふりかまわずに取り入り、人の裏をかき、裏切り、たれこみ、弱者を踏みつける。ラインハット城は、たちまちそんな人間があふれるようになった。
「こっちだって、似たようなもんだ」
 トムはふと我に返った。オレストは言葉すくなに兵士たちを整列させると、後ろにいた人間に場を譲った。
「ああ、兵士諸君」
禿げ上がった頭はピンク色、ぷよぷよ揺れるほほは真っ白、丸い目玉は腐った魚、話す言葉は耳障りな上ずり声。トムやオレストの上司、辺境将軍ジャールだった。トムは身震いした。
「国王陛下にあだなす極悪人が、国土に入ろうとしておる。君らはこれを、この水際で食い止めなくてはならない。君らの忠誠はどこに置くべきか?それは間違いなく……」
妙に赤い唇を捲り上げ、泡を飛ばしてジャールはしゃべりつづけた。だいたいが、兵士は上からの命令に盲目的に従うようにと言う脅迫で、トムは聞きとばすようにしていた。
「以上である。ああ、なお、この悪人を発見した場合は、報告書を書く前に、私に直接連絡するように」
ジャールの後ろで、オレストが眉をひそめるのをトムは見ていた。
 要注意人物を報告書なしで確保しろと言う命令は、これが軍の正規の任務ではなく、ジャールの個人的なボスから出た要請だという事だった。
 今のラインハットは、どれだけ強いボスに、どれだけ取り入ることができるか、に、すべてがかかっている。そのために倫理も職務もそっちのけになっていく。
 誠実であろうとすれば締めつけられ、蹴落とされるだけだから、ただ生きていくためだけでも、自分より弱いものからいやでも巻き上げなくてはならない。
 もし、世の中をうまく渡っていこうと思ったら、次々と強いボスを見つけて鞍替えし、自分も派閥を作っていくしかない。たとえそのために前のボスを売ることになっても、である。
 実際、オレストさえ二、三のボスから誘われたことがあるといっていた。一番熱心だったのが、ある種の荷物の密輸入に手を染めている中級以上の貴族だったが、オレストはきっぱりと断り、そして辞職することにしたのだった。
 辺境将軍をてなずけられるのは、そうとう大物の貴族に違いなかった。ラインハットは腐っている、とトムは思った。こんな辺境まで腐りきっている。
 ジャールが解散命令を出した。同僚の兵士が、出入国管理の最初の当番につき、トムは兵士の待機所へ入った。
 しばらくすると、ジャールのオフィスからオレストが出てきた。オレストはもう制服を脱いで私服だった。オレストの肩先が、なにやら寒々しく見えた。
「これからどうするんですか?」
「妹の亭主がラインハットで宿屋をやっていてな。そこでしばらく手伝いをするつもりだ。女房子供のない分気楽だよ」
トムはなんと言っていいかわからなかった。
「市場の立つ広場の裏側だ。ひまがあったら寄ってくれ」
トムの目頭が熱くなった。
「隊長、おれ」
「おいおい、まだ酔ってるのか?夕べは驚いたな。あんな泣き上戸だと知らなかったぞ」
実は夕べのことを、トムは覚えていなかった。
「お、おれ、そんなに」
そう言いかけたとたん、表が騒がしくなった。
「トム、き、来てくれ、おい、早く」
兵士仲間があわてた声で呼んでいた。
「ちょっと見てきます」
 辺境警備隊の兵士は、近くの農村の次男三男が多く、トムは実は剣の腕前は、隊長を除けば警備隊一だった。乱暴者を取り押さえたり、剣を振りまわす犯人を逮捕するときは、必ずトムが呼ばれた。
「あいつだ。頼む」
関所の前で武器を構えているのは、二人の旅人だった。
 二人の旅人はその後ろに、どこかの学者のような風貌のやせた中年男をかばっていた。
「後ろの親父が、朝ジャール様が言われた極悪人だ」
「逮捕しようとしたら、あいつら邪魔しやがって」
「トム、頼りにしてるぜ」
「ご褒美ものだ」
こういうときだけちやほやする。口々に言う同僚にトムはうんざりした。
「さがっててくれ」
トムは剣を抜いて構えると、まず呼びかけた。
「われわれはラインハット辺境警備隊だ。その男を引き渡せ」
二人のうち、緑の髪をした若い男が即座に答えた。
「やだね」
「なぜこの人を逮捕するのか、理由を言ってください」
紫のターバンを髪に巻いた若者が双眸をまっすぐこちらへ向けてそう言った。トムは返答に詰まった。
「理由は言えない。刃にかけても渡してもらうが、いいか?」
「そうこなくちゃ」
緑の髪の若者は上機嫌にそう言うと一歩前に出た。
「ルークは守る役な?」
「だいじょうぶ?」
視線をこちらへ向けたまま、若い剣士は背後へ応えた。
「こいつはおれにまかせてくれ」
甘く見られたものだ、とトムは思った。トムの剣はオレスト隊長じこみの、正式なラインハットスタイルの剣法だった。
「いくぞ」
トムは気合を発し、一気に間合いを詰めた。烈しい金属音を上げて二振りの剣が打ち合った。トムが押しきろうとすると、いきなり引かれた。次の瞬間、低くかいくぐった剣がすりあげるように襲ってきた。
「!」
トムは飛び退った。
「やるじゃん?」
敵は息も乱していなかった。トムは再び打ちこんだがかわされた。もう一度。さらにもう一度。
 トムは剣を構えたまま、奇妙な感触にとらわれていた。たいそう、しっくりくるのだった。この旅慣れたようすの若い男は、どこでどう覚えたものか、実にまっとうなラインハットスタイルを使いこなしていた。
火花を散らして刃が会った。
「また偉くなったものだな、トム」
笑い声さえたてて若者が言った。一度飛び離れてからトムは鋭く突き上げた。
「なんで俺の名前を知っている!」
にやっと若者は笑い、真っ向からうなりを上げて剣を打ち下ろした。
「昔はカエル一匹に大騒ぎしたくせに!」
トムは剣を取り落としそうになった。
剣を交えてすぐ近くに、緑の前髪が揺れ、明るい青緑の瞳がきらめいていた。時は止まった。
「帰ってきたぞ」
彼はささやいた。トムの声がひきつれた。
「この……クソガキ……いったいどこほっつき歩いていやがった……」
「許せ」
ゆっくり重心を戻しながら、ヘンリーは言った。
「派手にやるぞ、いいな?」
大きく右へ振りかぶり、ヘンリーは斜めに切り下ろした。トムは下から跳ね上げた。
「うわっ」
にぎやかな悲鳴を上げて、ヘンリーは剣を放り出した。トムはすぐにヘンリーの襟首をつかんだ。
「もうおしまいか?」
言いながらがくがく揺さぶった。
「ふてぇガキだ。そっちのやつも、抵抗しないでさっさと来い!」
トムは同僚の兵士に怒鳴った。
「報告書をもって来い!」
辺境将軍があわてて駆けつけた。
「待ちなさい、報告書は」
「不届き者を逮捕いたしましたッ」
トムは大声を上げた。
「のちほど正式な書面をもって報告申し上げますッ」
ジャールは泣きそうな顔になった。ジャールは、敵も野心も豊富な男だった。辺境警備隊を私用で動かしたことは、首都にいるライバルにつけこまれるタネになる。
「いや、違うのだ。かんちがいだ」
「と、おっしゃいますと、今朝の指名手配は、この人物ではないのでしょうか」
ジャールの片目がひきつった。
「そうだ」
「では、入国を許可してよろしいですか?」
ジャールはもの欲しそうな顔をしたが、結局うなずいた。
「たいへん失礼しました」
トムは大まじめに一礼すると、ヘンリーの剣を拾い上げて彼に渡した。
「ありがとう」
ヘンリーは指で襟元をくつろげて、まっすぐにトムの眼を見ていった。トムは敬礼した。
 三人の旅人は、無事に関所を出て、ラインハットへ向かう街道をたどっていった。ヘンリーとルークは歩きながらなにか話し合っていた。街道が曲がるところで、ルークが振りかえって一礼した。
 トムはぼうっとする頭をぶんぶん振った。
「そうだ、隊長は」
「オレストさんなら、宿舎で荷物をまとめてましたよ」
トムは踊りあがるようにして宿舎へ走った。
「隊長、どこですか、隊長!」
トムの胸は膨らみ、目に熱い涙が溜まっていた。同僚を突き飛ばすように廊下を走りぬけ、階段を駆け上がる。
 なんと言おう、なんと言えばいいだろう。オレストにはどうしても話さなくてはならない。
 たった今、正統の王が、ラインハットへ帰還した、と。