城下町の少年 第一話

 ラインハットは湖畔の都である。
 この都で一番のめぬき通りは湖の西岸を回りこむように造られ、北上すればラインハット城に、南下すれば都の入口の大門に続いていた。
 その湖岸通りの中央に、毎月市場の立つ大きな広場があった。広場を取り囲んで間口の広い商店や立派な宿屋が並んでいる。この広場から町の中へ、道は半円の放射状に広がっていた。
 かつてラインハットを訪れた旅人たちは、石畳を敷き詰めた広大な広場を岸まで歩いて端正な鉄細工の手すりにもたれ、湖に影を映して二重となる王城の華麗に見とれ、振りかえって昼夜絶えることのない市街の活況に驚くのが常だった。
 ラインハット王国の開祖はまだ小さな村であったころのラインハットに生まれ、レヌール王国との戦いを前にしてこの同じ湖に戦勝を占ったと言われている。
 そのとき湖から精霊が現れて開祖を祝福した。それ以来、年に一度美しい飾り舟を湖に浮かべて精霊を祭り、陽気に歌い踊るのがラインハット恒例の催しだったが、ここ数年、祭りは行われていなかった。
 王国の権力をすべて握る摂政太后アデルが、光の教団と言われる教えに深く帰依し、精霊の祭りを取りやめていたのである。
 光の教団の、ラインハット地方大司教ボアレイズは、教団本部の会議に出るため、ラインハットを今、出立するところだった。
 ボアレイズは穏やかな物腰に豊かな銀白の髪と髭の、いかにも“聖者”という風貌の持ち主だった。教団の記章、“太陽と門”を大きく描いた白い長衣をまとい、身の回りに百人は下らぬ護衛を従えていた。
 見送るのはラインハット王国の摂政太后アデルの一行だった。アデルはすらりとして華奢な貴婦人だった。黒に深紅色をあしらった衣装の中にうずもれてしまいそうに見えた。十代の息子がいるとは思えないほど若若しく、艶麗である。
だが、アデルこそはラインハットの王であり、その称号を帯びる彼女の息子はただの飾りに過ぎないと、ラインハットの全国民は承知していた。
 ボアレイズは重厚な声で見送りの礼を述べた。アデルはベールの後ろに笑みを浮かべ、随員を従えて宮廷人の輪の中から進み出た。
 この日、太后のそば近くにはべることを許されたのは、亡きグレイブルグ大公の妃ユリア・オブ・グレイブルグと、その兄、ボガード・オブ・ディアラだった。ユリアは大貴族ディアラ家の出身で、先代国王が崩御し、夫であるグレイブルグ大公が病死して以来、兄ともどもアデル寄りの立場を維持していた。
「大司教様、お早い御戻りを御待ちしております」
アデルはそう言って軽くあごを動かした。ユリア大公妃は小間使いのように扱われても表情を変えず、恭しく宝石箱をささげた。
「これは太后様にはかたじけない」 
アデルはこともなげに、ラインハットの市民が十年かかっても蓄えられないほどの富を司教に与えた。アデルとボアレイズはなおも親密な言葉のやり取りを続けた。
 大きな帽子は、ラインハット貴族の成人男子の正装の一部である。貴婦人であれば髪飾りからベールを垂らす。見送りの貴族たちは太后と司教が別れを述べているあいだ、ひたすらかしこまって立っていた。帽子の羽根とベールのすそが時々辛抱しきれないように揺らいだ。
 アデルは扇の先で悠然とボガードを招き、話の輪に加えた。
「次の王様は、ボガードかね」
広場を取り巻く人々の間からそんな声が漏れた。
「デール陛下は毎日寝たきりだって言うじゃないか。結婚はどころか、もう長くはないかも」
「あの太后がなんとかするだろう」
「いやいや。あの女は自分のせがれに見切りをつけたらしいぜ」
「やりかねない女だよな」
「それで自分のいう事を聞く奴を次の王様にする気だな」
別の男が話に割り込んだ。
「前に別の候補がいなかったか?」
「ああ、あいつだよ」
訳知りの商人風の男は、貴族たちの輪の一番外側に突っ立っている男をゆびさした。
「ロクサスの伯爵、ジュリアスさま。以前は太后のお気に入りだったんだけどな」
ジュリアス・オブ・ロクサスは、現国王が即位した直後に反乱を起こして失敗したディントン大公の娘、ルシア・オブ・ディントンの婚約者だった。
「なんでも宮廷から干されてるってな」
「俺が聞いた話じゃ、ジュリアスは先祖伝来の土地を売り払って、ゴーネン宰相にすごい大金を渡したらしい」
男たちは、いやな臭いをかいだような顔をした。
「ゴーネン?あのけちのゴーネンか。どうしてまた」
「なんとかもう一度王様候補になりたい一心の賄賂だろうよ」
 ようやく見送りが終わり、ボアレイズは天蓋つきの輿に乗りこんだ。屈強な信者たちが輿を担ぎ上げ、総司教は護衛に囲まれて静々と広場から出ていった。見送りの貴族たちも、アデルを先頭に城へひき返していった。
 ページェントは終わった。人々はお互いを警戒するような目になり、二人、三人と固まって、そそくさと歩いていった。広場は空になり、風がゴミを巻き上げるだけだった。
「今の見たか」
ルークがささやいた。ヘンリーは小声で烈しく答えた。
「あの印。誰が忘れるか。大神殿のあちこちについていた」
「まちがいないね。ヘンリーを誘拐し、父さんを殺したやつらだ」
ヘンリーは広場に背を向けて歩き始めた。
「あいつら、宮廷まで入りこんで、ラインハットで何をやってるんだ」
「どこの村でも聞いたよね。あいつらは人を集めてどこかへ連れていってるらしい」
「大神殿建設のために労働力が必要なんだろう。なあルーク、あの人を覚えてるか?」
「ああ、忘れないよ」
二人は黙りこんだ。
「お師匠だったものね。あの人は本当は石工だったんだろう?」
「ラインハット訛りだった」
ヘンリーはため息をついた。
「この国から誘拐されていったんだ。無料の労働力として。たぶん、いなくなった信者はほとんどそうだ」
「それじゃ、国民がいなくなる」
「そうさ。アデルはそこをわかってるのかどうか」
「とにかく、王様に会って話をしないとね」
二人はつい先ほど城の正門で衛兵から、問答無用で門前払いをくらっていた。
「おれが七歳だったら、いくらでももぐりこむ道があったんだが、図体だけはでかくなったからな」
そのときだった。広場の向こうで、誰かが叫んだ。
「わっ、待ちやがれ、このがきっ」
人々はちらりと横目で見ただけで、騒ぎと係わり合いになろうとするものはいなかった。
 幼い少年が広場へ飛び出してきた。大きすぎるシャツにすねの出たズボンをはいた、はだしの男の子だった。追いかけているのは、最近地方から出てきた傭兵らしい、粗野な大男だった。
 みな、遠くからささやき合った。
「むちゃな子だよ。売物を持ってった傭兵に、金を払えと言ったらしいよ」
「いつも姉さんと一緒におとなしく商売してる子じゃないか。傭兵相手にやめときゃいいのに、かわいそうにさ」
真っ赤な顔の傭兵が叫んだ。
「おい、犬を連れて来い!」
居合わせた者はあわてて逃げ出した。傭兵が飼う狩猟用の犬は実に凶暴で、赤ん坊ならひと噛みで食い殺すようなあごを持っていた。
 狼のように巨大な黒犬が引き出された。犬はけしかけられると、まっすぐに少年を追い始めた。
「助けてくれぇ!」
死に物狂いの子どもの目が、まっすぐこちらを見た。子どもは迷わずにふところへ飛び込んできた。
「おっ、なんだこいつ!」
「助けて、かくまってよ」
言い終わる前に犬が迫ってきた。興奮でよだれをたらした犬は、わきめもふらず飛びかかってきた。
 がっ、と音がして、鮮血が飛び散った。心あるものは目をそむけた。子どもは身を固くしたが、いつまでも痛みはこなかった。
 狩猟犬の牙は、ルークの固く皮を巻きつけた腕に食い込んでいた。その腕を前に突き出して、ルークは膝をついていた。もう一方の腕が、子どもを守るように抱きしめた。子どもはしがみついたまま、目を見開いて彼を見上げた。
 紫のターバンの下の黒い髪。不思議な瞳がまっすぐ犬の目を見詰めていた。痛みをこらえるのか、時々口元がひきつった。
 痛まないはずがない。黒い犬の巨大なあごから赤い血が石畳に滴り落ちた。
 ヘンリーは剣を抜き放ち、犬の頭の後ろにつきつけた。
「ヘンリー、待って」
「そんなこと言ったって」
ルークはわずかに笑みさえ浮かべた。そして、犬の顔を見て静かに言った。
「もう、およし」
黒犬は牙を立てるのをやめた。若者と犬は、姿勢を崩さなかった。やがて犬のほうがゆっくり口を離し、一二歩あとずさった。
「いい子だね」
黒犬は若者を見上げ、しっぽを振った。ヘンリーは、剣を鞘へ収め、安堵のため息をついた。
「毎度のことながら、すごいな」
ルークは噛まれた個所を手で押さえてそっとたちあがった。
「けがはしなかった?」
子どもはこっくりした。だが、ヘンリーは通りの向こうを指差した。
「おい、犬は、あいつらか?」
傭兵が犬を探して追いかけて来たようだった。
「そうだよ。なあ、家まで送ってっておくれよ」
「おれたち、忙しいんだぞ」
「どうせ仕事にあぶれてんだろ?」
「やなガキだな。王様に会いにお城へ行くんだよ」
「バカじゃねぇの、いまどきただの旅人がお城へ入れるもんか」
「ルーク、こいつ助けなくていいぞ」
「あっ、待てよ、家まで送ってくれたら、お城へ入る裏口を教えやるよ」
ヘンリーは眉を上げた。
「……ガセだったらつきだすぞ?」
ルークはマントの中に子供を入れて、傭兵たちの目から隠した。
「とにかく、ここを離れよう」
「しょうがねえ、ルーク、薬草使っとけよ。ちび、家はどこだ?」
「おれ、ちびじゃねえよ、キリだよ」

 キリは二人の旅人を路地へ引っ張り込んだ。狭い上に乱雑にガラクタが置かれた路地を、キリは鼻歌まじりでさくさく抜けていった。ときどき酔っぱらいが寝ていると、ようしゃなくふんづけた。
 ルークとヘンリーは入り組んだ路地を引きずりまわされたが、いきなり行き止まりになった。
「ここ乗り越えると早いよ」
「猫か、おれたちは」
 ヘンリーは突然振り向いた。ヘンリーやルークよりやや年上に見える若者が四、五名、後ろにつけていた。
「あ、ジュストさん」
ジュストと呼ばれた若者は、キリの親しげな顔を無視した。ヘンリーはそっとルークに寄り、二人は手を武器に伸ばした。
「緑の髪のほうだ、ジュスト」
一人が声をかけた。ジュストはうなずいた。長めの髪を後ろで結んだ、血の気の多そうな背の高い若者だった。後ろにいる者の中には、娘も混じっている。全員が、右肩のあたりに光の教団の紋章をつけた白い服を着ていた。
「われわれの師がお呼びだ。いっしょに来てもらいたい」
「知るか」
「お断りする」
「なにやってんだよ、ジュストさん。変だぞ」
ジュストはキリに手を差し伸べた。
「実はね」
キリが一歩近寄った。ジュストはいきなりキリを捕らえた。
「さっきこの子を助けたな」
ヘンリーは舌打ちした。
「そのこにくたらしいガキを人質にすれば、おれたちがいう事を聞くと本気で思ってるのか」
ジュストは生真面目に言った。
「そうだ。我が師がそう言った」
「お見通しかい」
ヘンリーはやれやれ、と両手を上げた。若者の一人が後ろへ回って毒針をつきつけた。
「ヘンリー、ぼくも行く」
ジュストはキリを抱えたまま、ルークを遮った。
「寄るな」
ルークは立ちつくした。キリは首を押さえられて声も出なかった。
「ルーク、大丈夫だよ」
ヘンリーは首をすくめた。
「大したやつらじゃないさ。叩きのめしちゃ、後味が悪い。それに、おれをご指名だという人にも会ってみたいからな。後で助けに来てくれ」
ルークはうなずいた。
「必ず」
ジュストはヘンリーと仲間を先へ行かせた。
「追ってくるのが見えたら、この子どもは殺す。それでも来るなら」
あの男も殺す、と言いかけて、ジュストは口を閉じ、なんとなく、一歩下がった。
ジュストはくるりと背を向けて仲間の後を追いかけた。押さえようとしても小走りになる。
 後ろから追いかけてくる視線が、身震いが出るほど恐ろしかった。