あやかしのザハン 4.子犬と金の鍵

「見ろよ」
ロイは、泥だらけの手のひらに、何か光るものを載せて振り向いた。
「まあ!」
アムは白いローブが汚れるのもかまわずにその手を引き寄せた。
「金の鍵だわ」
「キャン!」
子犬は興奮したようにアムの足元を歩き回り、さかんに尻尾を振った。
「ハ!」
と思わずマアクスは笑った。
「大騒ぎしてそんなもんか。カラスみたいなやつだな。光ってるならなんでもいいんだろう」
マアクスは再び剣を抜いて、子犬に近寄った。
 そのまえに、アムがたちふさがった。
「どけよ」
だがアムはしなだれかかってきた。
「もう、どうでもいいでしょ、犬なんて」
「え?」
「がっかりしちゃったわ、わたし」
つややかな唇を軽く尖らせる。
「早く行きましょうよ。サリューの言うとおりだわ。難民のことはロイに任せましょ。急ぎの旅なんだから、早く船を出さなきゃ」
マアクスは剣を収めた。
「かわいい顔をして気まぐれだな、きみは」
「悪い?」
アムはくすりと笑った。
「いや、悪くない」
この娘が人間としては魅力的だということは、マアクスも認めざるを得なかった。そう、少しは長く生かしておいてやってもいいかもしれない。
 ねえ、とアムは言って、紅唇をそっとマアクスの顔の近くへ寄せた。
「なに?」
「ないしょの話」
指で口元をおおい、意味ありげにマアクスを見上げる。長いまつげの下の目があだっぽい光を放っていた。
 マアクスは思わず、彼女が耳打ちするに任せた。かわいらしい声でアムはささやいた。
「ラリホー」

 ロイは、意識のないサリューの体を、神殿の床へどさりと投げ出した。
「神殿を荒らすとは何事ですか!」
目を吊り上げた巫女に、ロイは言い返した。
「管理不行き届きだな!」
「何を……」
「この神殿に、魂を交換して肉体を奪う魔物が封印されていますね?」
アムが言うと巫女はぎくっとした。
「どこでそれをお聞きになりました」
「この人が、サリューがそう言いました」
「その顔じゃ、魔物のことは秘密らしいな」
巫女はわなわなと震え始めた。
「門外不出の秘事です!」
「魔物はとっくに逃げ出して、今はこいつの中にいる。あんたたちなら、追い出せるか?」
「尼さま、お助けください。サリューは人が変わってしまったんです」
巫女は壁へ駆け寄ると、そこに設置してある小さな鐘を打ち鳴らした。
「みなさま、一大事です。早く、早く!」
奥の方から巫女姿の女たちがわらわらと集まってきた。
「この方をこちらへ!」

 神殿の奥の広い部屋には、魔方陣が描かれ、その中に不思議な模様を描いた宝箱ほどの大きさの櫃が置いてあった。
 同じ魔方陣の中にサリューはうつぶせに寝かされた。巫女たちが、細長い布で、眠るサリューの目をさらに覆った。
 一人の巫女が、銀の浅い皿をサリューの口元へあてがった。
「この人の体を抑えていてください」
そう言われてロイは、サリューの腕を背中に交差させて押えつけた。
 最初の巫女を中心にして、巫女たちが左右に居並ぶ。その唇からいっせいに祈りの声が流れ出した。
「慈悲深き精霊女神、ルビス様、なにとぞ、お力を貸してくださいませ」
アムは心配そうにサリューを見守った。すぐ後ろに、白い子犬が後ろ足ですわってじっとしている。
「古の魔物、形無きマアクスが、ザハンの封印神殿を破らんとしております。偉大なる精霊よ、再び封じ込めますゆえ、お力添えを賜りませ」
きっと巫女は顔を上げた。
「魔物よ、形無きマアクスよ、この者の体を離れよ、ニフラム!」
 それはもう、使い手はいなくなったとされる、古代の呪文だった。二フラムが発動した瞬間、ロイはサリューの体の下から、虹色の光の幕が噴きあがり、サリューの体を包みこむのを見た。サリューの唇がかすかに開いた。とろりとした、まるで透明なスライムのようなものが、サリューの唇から流れ出して銀の皿へたまった。
「早く!」
一人の巫女が、封印の櫃に近寄った。
「封印が弱っています!」
若い巫女は悲鳴のような口調で叫んだ。巫女たちは色めきたった。
「とにかく、それを先に」
最年長の巫女に指示で、若い巫女がほんのわずか蓋をずらした。銀の皿をもった巫女がかけよって、櫃の中へ中身を注ぎ込んだ。すべて入ったとたん、重そうな蓋は大急ぎで閉じられた。
「たいへんですわ」
「どうしましょう、また出てきてしまう」
そのとき、うっとうめいて、サリューがみじろぎした。
「ロイ、どこ?」
ロイはあわててサリューの腕を放し、上半身を抱き起こした。
「気がついたのか?」
目隠しをずらしてやる。サリューは半眼に開いて、あわただしく言った。
「きみの血が一番濃い。一滴でいいよ、血を」
「血ぃ?」
アムが横合いから、野宿に使うナイフを差し出した。
「封印に要るのね?」
「わかった」
ロイは思い切りよく、ナイフを親指のはらへ滑らせた。
「出たぞ、どうするんだ?」
「かけて、封印の上に!」
サリューをアムに預けて、ロイは櫃へ駆け寄った。巫女たちは必死で押えつけているが、櫃は小刻みに震えていた。
「封印てどれだ?」
巫女は振り向いてとがめた。
「この忙しいときに、なにを!」
その瞬間、まだ立ち上がれないサリューが叫んだ。
「彼はローレシアの王子です、早く!」
顔色を変えて巫女たちは引き下がった。蓋の中央に、翼を広げたラーミアが彫ってあった。
「これか!」
親指を紋章図形の上にかざして血を絞り出す。真紅の一滴がラーミアにかかった。中央の宝玉が、一瞬輝いた。
 櫃は大きく鳴動した。地鳴りに似た音が響く。ロイは身構えた。
 が、ゆっくりと鳴動は小さくなっていき、やがて、完全に沈黙した。
「ふう」
ようやくロイは肩の力を抜き、親指の切り傷をぺろ、と舐めた。

 白い子犬はタシスンの息子を見ると駆け寄っていき、元気よくワンと鳴いた。
「シロ、シロ、どこへ行ってたんだ?」
少年と子犬は仲良く帰っていく。宿からその姿を見送って、アムはためいきをついた。
「危なかったわね」
「誰も気がついてくれなかったらどうしようかと思ったよ」
サリューはそう言って微笑んだ。テーブルの上には、泥を洗い落とした金の鍵が載っていた。
「特にロイは鈍感だから」
ロイはおもしろくなさそうな顔になった。
「なんで”特に”鈍感なんだよ」
「だって、夕べ一晩、同じベッドで寝たのに、わからなかったじゃないか」
ロイは返事に詰まり、ちょっと赤くなった。
「あ、その……おまえ、どうして金の鍵のあるところがわかったんだ?」
「ぼくの宿主だった子犬が他の犬が埋めていたところから掘り出して、あの場所へ大事に隠してたんだ。あの子犬の記憶はよく見えたよ。タシスンさんの男の子が大好きみたいだね」
「じゃあ、どうして封印にロイの血を使ったの?」
アムが聞くとサリューはう~んと言った。
「どうしてか、わかったんだ。あいつ、マアクスが魂を交換したときに、ちょっとだけあいつの記憶がぼくの中へ入ってきたんだと思うよ」
「そういうものなの?」
「それに、あの神殿はたぶん、ぼくたちの御先祖が建てたんじゃないかっていうのはわかってたし」
 封印神殿の巫女たちは、ロイがローレシア王家の者と知ったとたんに態度が突然丁重になった。彼女たちはローレシアの教会から派遣されてきているらしかった。故国との行き来には、あの旅の扉を使っているらしい。
「ばあやさんたち、準備はいいのか?」
「ええ。でも、サリューの具合が悪いなら待ってるって」
「ぼくなら、大丈夫だよ」
じゃ行くかと言ってロイは先に外へ出た。

 狭い封印の櫃のなかで、マアクスは今、とぐろを巻いていた。暴れるのはやめにした。強まった封印のせいで、ただでさえ少ない体力がどんどん減っていくのだ。
 あの若者を見くびっていた。マアクスはそう認めざるを得なかった。何百年に一度と言うチャンスを逃す結果になったのは、すべてあの、白い子犬になったサマと言う若者を甘く見ていたからだった。
 まさか、あんな肉体に閉じ込められた状態で、まだ仲間たちと連携するとは。そう、彼の魂は常人よりも澄明で強靭だった。彼の外見は、昔マアクスを封印したあの男に似ていた。それでもマアクスは彼を見くびるという愚を冒したのだ。
 マアクスを誘ったあの波動は、かすかにまだ感じ取れる。だが、そこへたどりつくことはできそうにない。飢えて滅びるまで、マアクスは、この櫃の中で、長い退屈な生を我慢しなくてはならないようだった。
 そう思ったとき、マアクスの脳裏に感情の断片がひらめいた。あの若者、サマが、魂の交換の際にマアクスの側に取り残していった記憶らしい。
 それは、つぶやきだった。
“ロイのことが好きだ……”
ロイと呼ばれていたあの黒髪の若者の姿が、いっぱいに広がった。好意よりも憧れに近い。サマは、英雄を崇拝するように、彼に傾倒しているようだった。
 “でもアムも大好き……”
今度は、あの美しい、いまいましい、気品のある少女の姿が現れた。その感情は甘いピンク色に縁取られている。
 “どっちがいいかなぁ~”
「一生やってろ、アホ!」
マアクスは存在しない声でわめくと、ぐるりと寝返りを打ち、再び百年の眠りに入っていった。