あやかしのザハン 1.金の鍵と魔物

 白く波立つ海面に向かって、かもめの群れが次々と襲い掛かる。アオスジイワシの大群が潮流に乗って移動しているのだ。
 空は東の方角から鉛色を帯びて嵐の予感をはらんでいる。風が強く、船から見る光景は、上へ、下へ、大きくゆれた。
 デルコンダルの水先案内人は、この潮にまかせれば目をつむっていてもザハンに着くと言った。
「あれか!」
見渡す限りの海の中、島がひとつぽつんと浮かんでいた。その隣に、潮が満ちれば沈んでしまいそうな小島が、お供のようにくっついている。
 ロイは、その小島を見て思い当たることがあった。
「ここ、おれんちの近所じゃないか!」
並んで手すりにもたれていたサリューが目を丸くした。
「ここが?」
 ロイことロイアルのふるさと、ローレシアは、はるか北の大陸の南部平野一帯に広がる王国である。そして、サリューの故国サマルトリアは同じ大陸のさらに北方、森の国だった。
 彼ら二人と、そしてやや西にあるムーンブルグ出身のアマランス(アム)の三人は、デルコンダルで聞いた話を頼りに、今、ザハンを訪ねようとしていた。
ロイは、小島を指差した。
「うちに旅の扉があって、このまえ迷い込んだらあそこにあるほこらへ出たんだ」
「旅の扉があんなところへ?どうして?」
「わからねぇ。他へつながっている扉もなかった。昔はこのあたりとローレシアが何か関係があったんだろうな」
「まあいいや。船、着けるよ」

 マアクスは、強烈な存在が近づいてくるのを感じた。
「大魔王か?」
答えはない。マアクスはみじろぎした。そのとき、封印が動いた。マアクスは、はっとした。
 数え切れないほどの歳月、マアクスをこのザハンの封印神殿に抑えつけてきたその強力な封印が、衰えてきているのだった。
 マアクスの敏感な神経は、かつてマアクスがコバンザメのように貼りついていた大魔王に似た何か強烈な存在がこの世に近づいてくるのを感じ取っていた。
「どなたかは知らんが、おかげで封印が緩んだか」
マアクスは体の一部をそっと切り離した。人間の小指ほどの部分が、封印のすきまをついて脱出した。床のうえをするするとはっていく。目標は隅に巣をかけているクモである。
 マアクスの透明な“手”は、クモを難なくからめとった。ちっぽけなクモの自我はたちまち消滅した。意識を本体からクモへ移すと、8本の足をあやつって、マアクスは壁のさけめをくぐった。次はねずみでも捕まえよう。その次は海鳥か。
自由になる体さえあれば、あの邪悪な存在に近づくことができる。
 マアクスの体は、はるか昔、ゾーマと名乗る大魔王が撒き散らした邪悪な波動によって成長した。だが大魔王は滅び、今のマアクスは波動の残りかすに支えられている状態 である。また封印を受けてからは、気の遠くなるほどの長い間、何も食べていなかった。
 飢え死にも時間の問題かと思っていたところへ、この世の彼方から破壊の神が呼び寄せられてきたのだ。
 一刻も早く。マアクスはあせった。

 海を見下ろす丘の上に、粗末な墓標が立っていた。
「タシスンは、ここにおります」
暮らしのつらさにやつれてはいるが、昔の美しさをとどめた婦人がそう言って墓標を指差した。
 ロイたち三人は立ち止まった。
「亡くなって……」
聞くともないサリューの言葉に、タシスンの妻はうなずいた。
「3年前の冬でございました。夫を乗せた船は嵐の海に呑みこまれて帰ってきませんでした」
 あたりには、同じような墓が点在していた。船乗りたちの墓らしい。海の藻屑と消える定めなら、納められているのは、遺品か、遺髪か。板に名前を彫っただけの墓標はすべて海を臨む。タシスンのそれの前には、草の実がそなえられていた。
 アムは、つと繊細な両手を合わせた。
「御冥福を」
「ありがとうございます、お嬢様」
タシスンの妻は、静かな笑みを浮かべた。
「おれたちは、あの」
と言いかけてロイはためらった。
「サマ、おまえ話せよ」
本名をサーリュージュ・マールゲムというサリューを、ロイは時々、省略してサマと呼ぶ。
「タシスンの奥さん、ぼくたちは実は、ペルポイの町にどうしても行かなくてはならないんです。ペルポイに出入りできるのは金の鍵を持つ人だけと聞きました。タシスンさんからお借りできないかと思ったのですが」
タシスンの妻は首をかしげた。
「ペルポイですか。私が子どものころは取引もございましたけれど、最近あの町はザハンに限らず、どこの町とも付き合いを断ってしまって。タシスンも金の鍵を預かってはいましたが、ずっと使っていませんでした」
ロイは思わず口をはさんだ。
「あんたが持ってるんじゃないのか」
アムがにらみつけた。
「なんてこと言うの。ごめんなさい、タシスンの奥さん」
「いえ」
気を悪くした風もなくタシスンの妻は言った。
「あの人が逝ってから持ち物の整理はしましたけど、金の鍵はありませんでしたわ。身に付けていていっしょに海へ沈んだのかもしれません」
「失礼を承知でうかがいますが、このお墓の中には?」
「この中には愛用していたものを少々棺に入れて収めました。でも金の鍵のようなものはありません」
「そうですか」
ロイたちは愕然とした。ここにいたって、冒険は行き詰まってしまったのである。
後ろから、男の子の声がした。
「母ちゃん!」
漁師の子らしく日焼けした、丸顔の男の子が、丘の下のほうから走ってきた。手に野菊の束をもっている。
「摘んできたよ。父ちゃんにあげてもいい?」
母親がうなずくと、タシスンの息子は墓の前にその白い花束を置いて話しかけた。
「ぼく、大きくなったら父ちゃんみたいな漁師になるからね。見ててね」
にこにこっと笑う。
「一緒に帰る?」
「母ちゃん、もう少しここにいるわ。先に帰っておばさんの手伝いをしておくれ」
男の子はこっくりとうなずくと、また走って丘を下っていこうとした。
「待って、魚のアラがあったら、シロにおやり!」
下のほうから、はあい、という返事が聞こえた。
「犬を飼っていらっしゃるんですか?」
タシスンの妻は、はにかんだ。
「いえ、村の野良犬が子犬を産みましてね。夫が、そういうのを見るといつもえさをやったりしていたものですから、つい」
「優しい人だったんですね」
「ええ、家族にも、動物にも。ずいぶんなつかれていました」

 疲れきったカモメが一羽、船着場を見下ろす岩場にとまって翼をつくろっていた。
 マアクスは、自分のふがいなさにほぞを噛む思いだった。長年の封印のおかげで、すっかりだらしなくなってしまった。せっかく鳥の体を手に入れて空へ舞い上がったというのに、陸地を見つけられないのだ。
 強烈な破壊の波動、そこへたどり着かなければ、本体が飢え死にするというこのときに!だが、ここは小さな岩を別にすれば、絶海の孤島だった。いったい、どこへいけばいいのだろう。マアクスはカモメの目を通じて、港へ羨望のまなざしを送った。あの船が、手に入れば。
 マアクスは、存在しない舌で唇をなめ回した。
 そうだ、あの船、先ほど島に着いたあの丈夫そうな船を奪えばいい。あの船に乗ってきた人間の一人と、まず入れ替わる。それから沖に出たあたりで、残りの人間たちを殺していけばいいのだ。
 カモメは、ひときわ高く不吉な声で鳴いた。