あやかしのザハン 3.王子と子犬

 マアクスは、運がないな、とつぶやいた。あわよくば今のうちに船を盗もうと思って浜へ来たのだが、海は大荒れだった。やっと夕暮れの時分だが、夜のように暗い。
 漁師たちが網をしまっておく小屋のひさしの下で雨を凌ぎながら、マアクスは考えた。
「やはり、計画通り、明日」
他の二人と海へ出た時点で、ゆっくりと彼らを始末し、船を奪えばいい。
「あの若い男、ロイは、海へでも突き落とす。あとは女だ」
名前は、と考えてマアクスは宿主の記憶を探った。アマランス、略してアム、と答えが出た。
 マアクスはふと、不審に思った。記憶がずいぶんぼやけている。先ほどまで宿主にしていた子犬なら、記憶の隅々まで見渡せたというのに、このサマという若者は魂を交換したときに記憶を残らず与えることを拒んだというのか。
「なまいきな」
だが、マアクスがサマのふりをするのも、明日までのことだ。変装も何も、マアクスは今、サマそのもの、疑われるはずもない。
 浜に沿った通りから、誰かが豪雨をついて叫んでいた。
「サリュー、そこにいるの、サリューなの?」
関係ない。マアクスは無視して、小屋の壁にもたれ、足を組替えた。いきなり肩をつかまれた。ぎくっとして振り向き、思わず身構える。
「誰だ!」
それは、あのアムという女だった。
「ああ、アムか」
アムは、ええ、とつぶやいた。
「どうしたの?聞こえなかった、呼んだの?」
マアクスは記憶を探った。そう、“サリュー”というのも、この若者の略称のひとつなのだ。マアクスは仕方なく言い訳をした。
「雨風が、うるさくて」
「そう」
アムはまだ、驚いたような顔をしている。マアクスは眉をひそめた。
「何か、用」
「いえ、あの、あたしやっぱりばあやの家へ泊まることにしたわ。いいところで会ったから、ロイにも伝えてもらえるかしらと思って」
「わかったよ、言っとく」
じゃ、と手をふって、マアクスは宿へ向かって雨の中を歩いていった。

 宿の地下にある酒場で、さんざんむだな聞き込みをした後、ロイはもう寝ようと思った。
「アムはばあやさんのところだろうが、サマのやつ、どこで油売ってるんだ」
そうつぶやいたとき、突然宿屋の扉が開いた。
「お、やっと帰ってきたのか」
ずぶぬれのサリューだった。
「どこまで行ったんだ、何かわかったか?」
サリューは口もきかず、二階へあがろうとする。
「おい!」
ロイは思わずサリューの腕をつかんだ。サリューは舌打ちをして振り返った。
「別に何も。服が濡れてるんだ。手を離してくれないか?」
「あ、ああ」
サリューはとっとと階段を上がっていく。そして、一番上の段から声をかけてきた。
「明日、この島を出るんだろ?」
「ああ。難民を隣の島の祠へ届けて、それからデルコンダルへ戻るか」
「難民?ほっとけよ、そんなの!」
とげとげしいような口調でそう言い、サリューは自分の部屋へ姿をけした。
「なんだってんだ、あいつ?」
ぱたん、と音がして、雨交じりの風が吹き込んだ。
「ちゃんと閉めなかったな」
ロイはやれやれとつぶやき、扉を閉めにいった。ふと外をのぞくと、村全体が、濃い灰色の幕の中にあるように見えた。
「明日は晴れりゃいいが」
 そのとき、ふと気配を感じて、ロイは視線を下げた。村の酒場兼宿屋の、絵看板を立てている粗末な柱の陰に、何かいた。灰色の、小さな生き物。昼間の子犬だった。
 子犬は小走りにやってきた。沛然たる豪雨が、汚れて見る影もない毛皮を容赦なく打ちのめす。子犬はロイの真正面で足をとめた。
 ひどく焦がれている、が、受け入れてもらえるかどうか自信がない、そんなようすだった。無力で寄る辺ない身をさらし、すがりつくようにロイを見上げる。細い四肢が、泣き出す直前の子どもように震えていた。
 ロイは、思わず子犬の方へ腕を伸ばした。キュウ、と子犬は鳴いた。“信じてもいいの?”と聞かれたような気がした。
「来いよ」
ロイが言ったとたん、子犬は跳んだ。ひととびでロイの足元へやってきた。びしょぬれの小さな体を、ロイは抱き上げた。

 子犬はおとなしかった。ありあわせの布で体をよく拭いてやり、暖炉の前の敷物に寝かせると、子犬は気持ちよさそうに四本の足を伸ばした。
「腹、へってるか?」
干し肉をむしってやると、子犬は夢中でかじりついた。
「おまえ、飯にあぶれたんでおれのとこへ来たんじゃないか?」
思わずそういうと、子犬は食いかけの干し肉を離してロイの膝の上へあがりこんだ。
「キャン、キャン」
「ああ、わかったよ。おまえ、なんか言いたいのか」
「ク~ン」
子犬は前足をロイの胸にかけ、肩や首筋にしきりに鼻をこすりつけた。
「この甘ったれ」
ふりふりと尻尾を振る。
「おまえ、おれの犬になりたい?前は飼ってたんだ。死んじまったけど」
前の飼い犬が喜んだのを思い出して、ロイは子犬の顔をうにうにといじってやった。子犬はピンク色の舌を出してロイの指をちろちろと舐め、ときどきちゅぱ、と吸った。
「母ちゃん犬のおっぱいじゃないぞ。くすぐったいって」
ロイは寝床に横になり、脇を空けてやった。
「ほら、寝ようぜ?おまえ、ノミなんかいないんだろうな」
 子犬はいそいそとロイのそばへ這いこんだ。抱え込むと、ぴったりと腕の中へおさまった。ぽんぽんと尻をやさしくたたいてやると、子犬は安心したかのように目を閉じた。
 眠り込む直前に、すごく暖かい、とロイは思った。

 アムは、怒りで口も利けないような形相だったが、絞りだすように叫んだ。
「何を言ってるの、サリュー!」
 翌日のことである。雨は、あがっていた。宿屋からロイがでてきた。
「おい、何もめてんだ?」
マアクスは肩をすくめた。
「急ぎの旅だと言っただけだ」
「だからって!難民の群れをほうっておけるわけないでしょう、それを」
「ムーンブルグのだろ?ぼくは関係ない」
「サリュー!」
ロイはまごついたようだった。
「サマ、急ぐったって、隣の祠の島まで三往復もすれば終わるんだぞ?」
「早く沖へ出たいんだ」
ロイはむっとしたような表情を浮かべた。
「おまえ、昨日からなんなんだ?いいかげんにしないと」
そのロイのすぐ後ろで、何か動いた。マアクスは、はっとして、それからふんとつぶやいた。
「おまえ、まだこんなとこにいたのか」
なんだ、と身構えるロイを手で押しのけて、マアクスはそれにつかつかと近寄った。以前の宿主の、白い子犬だった。
「また蹴りを入れてほしいのかよ」
逃げるかと思えば、子犬は姿勢を低くし歯をむき出してうなった。四肢は震え、今にも尻尾を後ろ足の間に挟みたそうにしていたが、それでも踏ん張った。
「目障りだな」
マアクスは剣を抜いた。
「待って!その子、殺さないで」
叫んだのは、アムだった。
「たかが犬一匹、いいだろ?」
「ただの犬じゃないわ、その子」
アムは言い張った。
「あたしは、専門家よ。忘れたの?」
「え、犬でも飼ってたっけ」
そう言ったとたん、アムは絶句した。ロイは何か言いかけた形のまま口を開けっ放しだった。
「とにかく、待って。この子、普通の犬じゃない。犬なら、もっと、こう、違うの。この子まるで」
ふとマアクスはいたずら心を起こした。
「ただの犬じゃないなら、こいつ、ザハンの魔物かもしれないな」
「なんだ、それ?」
マアクスはロイにむかってにやりと笑ってみせた。
「その魔物はね、生き物の目を見つめては魂を交換して、体を乗っ取ってしまうんだよ。でも数百年前、ザハンの封印神殿に閉じ込められてしまったんだ」
「……そんなこと、どこで聞いたんだ?」
「ん?あ、昨日、神殿でね。聞き込みに行ったとき」
マアクスは、細身の剣を一振りした。
「その犬をよこしてくれないか、アム?念のため、目をつぶしてやるよ」
アムは思い迷ったような顔でマアクスと子犬を見比べた。
突然、キャンと 子犬が鳴いた。ロイに駆け寄り、ズボンのはしをくわえて強く引っ張った。
「なんだ、おまえ」
「キャン、キャン!」
一定の方向へ、子犬は引き続けた。
「ほら、何か変だ。殺るか」
「待てよサマ、こいつ、おれをどこかへ連れて行きたいらしい」
思わずマアクスは舌打ちをした。
「わかった、わかった。どこへ行きゃいいんだ?」
子犬はロイの服を放すと、数歩走ってから振り向いて鳴いた。
「キャ、キャ、キャ」
「そっちか?」
 子犬はどんどん進んだ。マアクスはうっとおしくてたまらなかったが、サマのふりをしているので無理にとどめを刺すことができなかった。
 宿屋を離れ、店の前を過ぎ、子犬はロイを連れていった。そのあとからアムが続き、少し遅れてマアクスがついていく。
 やしの木からしずくが滴る。その一滴一滴が陽光に輝く。雨上がりのザハンの村は、家々も、街路も、洗われたようにすがすがしかった。
 奇妙な行進は、ついに一軒の廃屋の裏手へたどりついた。
「キャン!」
子犬は一箇所に立ち止まると、前足で地面をかくようなしぐさをした。
「ここか?ん?掘るのか?」
ロイが膝をつき、手袋を脱いで、その場所を掘り始めた。地面は湿り気を帯びて柔らかいらしかった。
「よせよ。きっとこいつはかじりかけの骨でも埋めたんだ。さあ、もういいよな?」
マアクスがそう言ったときだった。ロイがあっとつぶやき、両手で激しく土をかき出した。