背水の覚悟 1.見張りの兵士

 暗い雲の下を強い風が吹き過ぎた。草原の草を吹き倒し、歩哨の兵士のマントを翻し、かがり火の炎を揺らして、風は通り過ぎた。嵐の前のような心の落ち着かない静寂が空気をどす黒く染めていた。
 兵士の後ろには最後の砦の入り口があった。砦は、逆茂木……先端を削って尖らせた丸太を組んだ柵を周囲にめぐらせ防壁としている。唯一の入り口は上からやはり逆茂木を吊って、敵襲があればいつでも切って落とせるようにしてある。この厳重な備えは、この大陸の最後の希望を守るためにあった。
 兵士がいるのは入り口のすぐ前だった。砦に背を向け、暗く陰鬱な草地と、その向こうにある岩山を見つめていた。岩山の下には入り口がある。大岩をくりぬいたような自然のトンネルの出入り口であり、そこを抜けるとデルカダール地方へつながっていた。
――グレイグさま、遅いな。
と、兵士はつぶやいた。
 英雄グレイグは、国王と国民の生き残りをこの砦へ連れてきたあとも、部下を率いて王国を見回っている。見張りの兵士はグレイグの長身が見えはしないかと正面前方をずっと眺めていた。
 ようやく諦めて視線を左右へ振った。視界の隅で、何かが動いた。兵士はよく見ようと目を眇めた。旅人が一人こちらへ向かってきた。
 最近では、一人旅は珍しかった。昔ならばいざ知らず命の大樹が地に落ちたあの日から世界は大混乱に陥っていた。魔物が、昔とは比べ物にならないほど強く、邪になっている。しかも黒雲が太陽を隠し続けているために視界が狭くて暗い。少なくともデルカダール地方は昔とは全く違っていた。
 その旅人は若い男のようだった。紫の袖なしコートを着て肩から鞄をかけていた。草を踏み分け、石を踏んで、こちらへ向かってきた。かなりの長旅だったようすで、衣服はだいぶくたびれていた。
 若者はふと眉をひそめた。斜め後ろの地面から、むっくりと起き上がったものがあった。腐りかけの死体に見えるそれは、モンスターだった。首だけ回して若者は敵を確認した。グールは大きく伸びあがり、両手をのっそりと上げ、虚ろな眼で笑った。
 片手を左の腰に、もう片方の手を背中に伸ばし、若者は素早くグールに向き直った。左右の手から光の軌道が走った。
 見張りの兵士は焦った。砦の前にモンスターが出現して旅行者が襲われたときは、急いで援軍を呼ばなくてはならないことになっていた。あわてて腰の物入れから呼子を取りだし、吹き鳴らそうとした瞬間、兵士は驚きのあまり固まった。
 若者は見事な踏み込みで力強い一撃をグールに見舞った。が、グールの強みはその頑丈さだった。一度はのけぞったが、グールは再度攻撃を仕掛けた。その胸をもう一振りの剣が切り裂いた。グールが膝をついた。
 若者は半歩下がって左右の腕を伸ばし、双剣の刃からグールの体液を振り飛ばした。事実、それ以上の攻撃は必要なかった。若者の足もとでグールは倒れ伏し、紫の霞と化して消えた。
 あれは対アンデッド特化武器、ゾンビキラー、並びにゾンビバスター。そう気が付いて見張りの兵士はつばを呑みこんだ。二刀流の若者はこのモンスターの弱点とHPの量を正確に見極めていた。
「きみ、ケガは」
話しかけようとした。若者が初めてこちらを見た。
 強風が若者の、さらさらした頭髪を吹き分けた。歩哨のいるところが坂の上だったために、若者は上目遣いになった。
……怖い。見上げてくる視線の強さ、表情の刺々しさに見張りの兵士は本能的に身をすくめた。これでも最前線に立ったこともあれば、モンスター討伐に参加したこともある。だが兵士は未経験の恐怖に声も出せず、ただすくみ上った。
 慣れたしぐさで二刀を左腰と背中の鞘に次々と収め、ざくざくと草を踏んで若者が坂をのぼってきた。
「ま、待て」
兵士は上官から、人間の旅人なら国籍を問わず迎え入れ保護するように命令を受けていた。だが兵士は、彼を素通りさせることができなかった。それはまるで羊の群れの中に狼を投じるようなものだった。職業意識から来る勇気を振り絞って兵士は声をかけた。
「ここは最後の砦だ……」
「ちがう」
旅人は言下に否定した。
「ここはぼくの故郷、イシの村だ」
またあの、強い目でにらまれた。
「デルカダール兵がイシで何をしている。失せろ」
デルカダールはホメロス将軍麾下の部隊をイシへ送り、村を焼いて一度は住民を拉致してきた。それを恨まれれば言い訳のしようもない。
「住人とは知らなかった。失礼した」
まだ肝を冷やしながら、できるだけ冷静に兵士は言った。
「だが、大樹が落ちた日からこちら、ここはこの地方の大切な避難所になっている。ご理解いただきたい」
答えはなかった。
 若者は長旅の疲れが顔に出て表情も険しかった。が、子供のように若いのだと、やっと兵士は気付いた。
「失礼だが、どちらから?」
「海の底」
ぶっきらぼうに若者は答えた。
「え?」
と聞き返すと、面倒くさそうにデルカコスタ、と言いなおした。
「もういいだろう。ぼくは自宅へ帰る。そこをどいてくれ!」
兵士は、若者の右手が左腰の剣の方へ動くのを血の気が引くような思いで見ていた。
「ワン!ワンワン!」
いきなり犬が走ってきて、鳴いた。村の中を走り回っている犬だ、と兵士は思った。若者はふと殺気を納めた。
「おまえ、ルキじゃないか」
ルキは砦の中に入り、中に向かって吼えた。
「ルキっ!もうっ、どこに行ってたの!?」
少女の声が話しかけた。
 それを聞いた若者は、顔色を変えた。物も言わずに兵士を押しのけて前に出た。朱色のスカーフで髪を抑えたエプロン姿の少女がルキと一緒にやってきた。
「ワンワン!」
彼女は顔を上げた。若者と目が合った。少女の手から、集めた薪が転がり落ちた。
「イレブン……イレブンなのねっ!……私よ。幼なじみのエマよ!」
エマは両手を握り合わせ、声を絞り出した。エマは泣きだしそうだった。
「おかえり、イレブン……無事だったのね。……ひどいウワサばかり聞いて……私……わたしっ……」
 イレブンと呼ばれた若者は、エマに近寄った。先ほどグールを屠ったときの攻撃的な表情をやわらげ、小柄な少女を、壊れ物を扱うようにそっと抱いた。
「ただいま、エマ」
「イレブン……」
 その少女エマは、明るい笑顔と気立てのよさで、最後の砦のアイドルと目されている娘だった。だが、イレブンと言う若者に涙目ですがりつく姿を見て、兵士は肩を落とした。ファンがみんながっかりするな……。
「あの、この人、私の幼馴染なんです。砦に入ってもいいですよね?」
嬉しそうに恥ずかしそうにエマが言った。
「どうぞ」
と答えるほか、仕方がなかった。

 川の近くに熾した焚き火の周りに、最後の砦の女たちが集まっていた。このあいだ口伝えで針仕事の出来る女を募る知らせがあったのだ。夫のデクと相談してミランダは裁縫をしに行くことにした。
 命の大樹の落ちたあの日、デルカダール城下は大混乱に陥った。命令を下すべきトップ3、国王と二人の将軍がすべて不在という状態だった。しかたなくデクは店を諦め、背負えるだけの荷物を持って妻のミランダと二人で城下町を逃げ出した。行きついた先はこの最後の砦だった。
「ミランダさん、あんた針が早いねえ」
「ええ、まあ」
焚き火の周りに座って布を縫い合わせながらミランダは答えた。
「母がお針子だったんです。裁縫は見よう見真似ですけど」
実はお針子になるのが嫌で、女の子たちとつるんでデルカダールの下層地区で美人局まがいのことをミランダはやっていた。が、やはり盗賊上がりのデクと知り合い、夫婦になった。
――いいとこの奥さん、お嬢さんがねばってるのに、底辺育ちの私が先に音をあげるわけにはいかないって。
 今焚き火のまわりで裁縫をしているのは、デルカダールはじめこの大陸のいろいろなところから着の身着のままで逃げてきた女たちだった。
「ここまでできましたよ。続きがあったら、縫いましょうか?」
元は踊り子だったという女が微笑んだ。
「ここは私がやるわ。私ってこう見えてじつはダンスの次にお裁縫が得意なの。死んだおばあちゃんが、お嫁に行く時のためにって、いちから仕込んでくれたのよ」
踊り子としてはもうだめかもしれない、と彼女は言う。大事な足にけがをしているのだ。それでも少しは立ち直ってきたらしいと思ってミランダはちょっと笑顔になった。
「さぁみんな!チャッチャカ手を動かして!」
切り株に座っている中年女が明るい声でそう言った。この最後の砦の元からの住人で、デルカダール城に監禁されていた村人といっしょにここへ戻ってきたペルラというひとだった。
「チャンバラは男どもにまかせな!私たちの戦場はここだよ!!」
言葉は威勢がいいが、ペルラは包容力と気配りをあわせもつ女だった。輪になって縫物をすることで、一人でくよくよする時間が減る。それだけで、どれほどの女が助かっていることか。デクとミランダがここへ逃げてきた時、道具屋をやりたいという話を村長やデルカダール兵たちに交渉してくれたのもペルラだった。
 ペルラの後ろから朱色のスカーフの少女が走ってきた。彼女、エマは辛抱強く、笑顔を絶やさない、イシの村のアイドル、村長の孫娘だった。
「いたいた!おばさまーー!大ニュース!大ニュースよっ!!」
ペルラは振り向いた。
「あらエマちゃんじゃない。そんなにあわててどうしたんだい?」
いつも明るいエマが、一段と嬉しそうに笑い、背後を指した。
「ふふふ、おどろかないでね、おばさま。ほら、あそこを見て」
たいていの物に動じないペルラが、呆然とした顔になり、縫い物を置いて立ち上がった。
 エマが連れてきたのは若い男だった。まだひげもなく、女にしたいようなつるりとした顔をしている。だが、身に着けたコートやブーツは旅のほこりにまみれ、長旅をしてきたことがうかがえた。
 ペルラが、聞いたことのないような声を喉から絞り出した。
「…………イレブンっ!」

 ペルラは手巾でさかんに目をぬぐった。
「イレブン、よく無事でいてくれたね。それはもう恐ろしいことばかり起きて……わたしはてっきり……ウウッ」
 ミランダたちは針仕事を続けながら、少し離れたところでそのようすをうかがっていた。
「ペルラさんの坊ちゃんだって」
「あら、いい男」
楽しみの少ない避難所生活では、親子の再会は見ているだけでもうれしくなるものだった。
「エマちゃんもまんざらじゃなさそうだね」
と老女が言った。
「幼馴染どうしって、いいわよねえ」
誰かがそう言って、ひそやかな笑い声があがった。
 イレブンというらしい若者は、疲労の見える顔に穏やかな表情を浮かべた。
「母さんが無事でよかった。エマも」
 ふとミランダは気付いた。『イレブン』という名前に聞き覚えがあった。興奮したデクがさんざん言っていたではないか、“カミュのアニキの連れの人は、伝説の勇者だったんだよー。さすがはアニキ!”と。
「私たちの村、ずいぶん変わってしまったでしょ?」
とエマが言った。
「あの爆発で大勢の人が亡くなったの。次に朝が来なくなりおそろしい魔物が大陸中にあふれかえったわ。生き残った人たちもだんだんと生きる力をなくしていったの……」
ペルラはやっと手巾を放した。
「そんな時だ。あの方がわたしらの前に現れた。彼は身分も国も関係なくこまった人をみーんな助けてくれてね。わたしらを魔物から守りながらこの村に連れてきてくれたんだ。あの方がいなかったら、どうなっていたか……。いまじゃこの村は最後の砦なんて呼ばれて大陸中の人々が集まっているのさ。……それになんとっ!あのデルカダール王もいらしてるんだよ!」
 ぴく、とイレブンの眉が動いた。ミランダは意外な気がした。あどけない少年のような勇者にはあまり似つかわしくない表情だった。やんちゃを繰り返した時代に肌で感じたことのある、その、心の冷えるような視線……殺気を確かにミランダは感じ取った。
「……あらあら。そんな顔するもんじゃないよ。村を焼かれたことは忘れられないさ。でもね、人を恨んだって仕方ない」
とペルラは言った。人を恨むなというのは、ペルラの口癖だった。
「まぁすぐにとは言わないけどあんたは王さまに会いに行くべきだ。……おじいちゃんならきっとそう言うさ」
「そうかな?」
ペルラは大きくうなずいた。
「そうだともさ。あんただって、また冒険に行くんだろう?後ろにわだかまりを残しちゃいけないよ」
イレブンは首を振った。
「ぼくはもう、どこにも行かない」
かたくなな口調だった。
「母さんやエマを置いて、どこにも行かれないよ」
ペルラはちょっと笑って首を振った。
「男の子はいつもそう言うのさ。そしてやっぱり、行っちまう。まあ、いいさ。お腹すいてないかい?あとでご飯をつくるから待っておいで」
イレブンは鞄を抱えた。
「うん。それに今日は着いたばかりで疲れてるんだ。荷物を置いてくるよ」
ペルラは肩を落とした。
「あのね、うちは焼けちゃったんだよ」
イレブンはうなずいた。
「見たよ」
エマが声をかけた。
「よかったらそこのテントで休んでいってね。私たちも使ってるテントだからキレイじゃないし、すこしせまいけどゆっくり眠れば疲れがとれるわ」
イレブンは少女に薄く微笑みかけた。
「ありがとう」
 エマは人懐こい笑顔になった。
「あら、手にけがをしてるの?薬草もあるわよ?」
イレブンの左手の甲には汚れた包帯が巻き付けてあった。
「イレブン?」
一瞬顔をこわばらせたが、イレブンは答えた。
「大丈夫。薬はつけてあるんだ。うっかりぶつけるとまだ痛いから、こうやって守ってるだけ」
「そう。無理しないでね」
イレブンは右手で左手の甲に巻いた包帯をさらに包んで歩き出した。宿代わりのテントは裁縫をしている女たちのそばにあった。イレブンが通りかかった時、ミランダと目が合った。
「もしやあなたはイレブンさま?こんな所でお会いできるなんて信じられない幸運ですわ」
 イレブンは立ち止まった。思い出せないという表情だった。
「私はデクの妻のミランダと申します。夫からあなたとそのお友達の話は耳にタコができるほど聞いておりますわ」
「デク……、そうだ、カミュの」
やっと気づいたようだった。ミランダは道具屋の女房になったときに覚えた営業スマイルを披露した。
「夫は居住区の西で道具屋を営んでおります。あなた方の身をずっと案じておりましたから一度顔を見せてあげてくださいね」
イレブンは複雑な表情になった。何か聞きたいらしい。ためらったあげく、ようやく口にした。
「カミュも、ここへ避難しているんですか?」
「いえ、こちらではお見かけしていません」
そう答えたとたん、イレブンは奇妙な表情を浮かべた。
「でも、あちらこちらから避難民がここへ集まっていますから、そのうちカミュさんはじめ、お仲間のみなさんも見えるかもしれませんね」
「ああ、そうですね」
そう言って一礼して、イレブンは宿へ荷物を置きに行ってしまった。
 ミランダは針を取り、縫物に戻った。ちくちくと針を動かしながら、先ほど見たイレブンの表情について考えていた。
――カミュさんがここにいないと知って、どうして伝説の勇者様は……ほっとしたのかしら?

 紫の袖なしコートを着た若者が、砦の居住区の方からやってきた。デルカダール王のテントの前で警備をしている兵士の目は、自動的にその若者に惹きつけられた。
 この砦に集まってくるのは大陸中の生き残りだった。命の大樹の落ちたときにひどい目にあった者が多く、疑り深い顔、警戒している目つきの人間も数多くいた。その若者は一見そういう人種に見えたが、それにしてはどこか変わっていた。
 猫背になってうつむいている者が多い中、彼は姿勢を正し、大股に歩いてくる。よく言えば物怖じしない、悪く言えば傍若無人な態度だった。
 若者の視線が何かを捕らえた。ふいに若者の顔色が変わった。縄で引かれたかのようにぐいっと首を回し、いきなり小走りになった。
 彼が駆け寄ったのは、道端にすわっていた幼い少女とその母親のところだった。
「あ、あの!」
まず母親が、そして少女が振り向いた。母親は、やつれてはいるがなかなかの美人、その娘らしい7~8歳の少女は母親似のかわいい子だった。二人とも金髪で、母親は緑のヘアバンドで長い髪を抑え、女の子は髪をふた筋の三つ編みにして、さらに赤い毛糸編みの長い三角帽子をかぶっていた。
 若者は立ち止まった。
「なにかご用ですか?」
女が静かに尋ねた。
 血相変えて走ってきた若者は親子の顔を見て、目を見開いたまま、しばらく肩で息をしていた。急に熱意を失ったらしく、うつむき、小声で言った。
「いや、人違いだった」
女は会釈して娘の手を引き、行ってしまった。
 兵士はそのようすをじっと見ていた。
――後ろ姿を見て自分の知り合いだと思ったんだろうな。
この砦ではよくあることだった。各地からの避難民は、砦にかくまわれるとほとんどすぐに、家族、友達、知り合いを探そうとする。命の大樹の落ちたときの混乱で生存がほぼ絶望的だと思っても、探さずにはいられない。それが人情だった。
 コートの若者は親子連れをじっと見送っていたが、踵を返してまたこちらへやってきた。感情のない平板な口調で若者は尋ねた。
「ここはデルカダール王のテントか?」
 王の御座所に見えないのは仕方がない。最後の砦、というか、廃墟となったイシの村の中央にテントを建て、その前にデルカダール王国の戦旗を立てただけなのだから。
 テントの内部もシンプルだった。玉座すらなく、寝台を代わりに置いている。かつてのデルカダール王宮の栄華を知る者にとっては悲しいほどそこは簡素な宮廷だった。
 兵士は咳払いをした。
「デルカダール王に会いたいのかい?王さまは砦に来てからずっとふせっておられるんだ。そうとう大事な用事でなければお会いすることは難しいと思うぞ」
「では、聞いてみてくれ」
若さからくる怖いもの知らずの態度で若者は言った。
「イシのイレブンが会いに来た、と」