影絵の街 第一話

「金の入日に手風琴」〔by ■P 様〕二次創作

 パレエドは、もう行ってしまったようだった。
 あたりの石畳の上に色とりどりの紙吹雪が落ちていた。飾りをつけた馬も綺麗な衣装の踊り子たちもにぎやかな楽隊も、もう通り過ぎてしまったのだ。
 道の両側にひしめいて、歓声を上げ、手を叩いてパレエドを迎えた人々も、パレエドの後を追いかけていったり家や職場に帰ってしまったりして、ほとんど残っていなかった。
 わずかに貧しい少年とその妹が、初めて見たパレエドにすっかり興奮してその場にたたずんでいただけだった。
「凄かったねえ」
「舶来のサアカスだもの。凄いよねェ」
でもその子たちは、もっと裕福な他の子のようにサアカスの木戸をくぐるおあしをおっかさんから出してはもらえなかったのだ。
「ライヲンがいたよねえ」
「本物だったねェ。遠くから来たんだねェ」
「ピエロもいたねえ」
「おもしろいことをするのだよねェ」
 さきほどまでパレード見物の群衆をあてこんでキャラメルやレモナアドを売り歩いていた売り子たちも、道具をたたみ、小銭を数えているところだった。
子供たちももう家へ帰らなくてはならない。鉄道のお仕事で満州にいるお父っさんの代わりに、おっかさんが外で辛い勤めをしているのだから。家に帰ってお米をとぎ、青菜を洗うのは二人の役目だった。
 石畳の街は遠くに港を臨む。もう海上には大きな金の夕日が落ちかかっていた。
 子供たちはまだ興奮して赤いほほのまま歩き出した。歩きながら、行ってしまったサアカスの音色が聞こえはしないかと耳をそばだてるようにした。
 しゃら、しゃらと、音がした。誰かの靴が、紙吹雪の吹きだまりを踏んで歩いてきたのだった。
 子供たちは振り向いた。黒い服の若い衆がやってくる。洋装で、しかも胸に箱型の楽器を抱えていた。
「サアカスの楽隊の人だろうか」
 その胸にあるのは、美しい青い手風琴だったから。びっくりするほど大きな音の出る、亜米利加渡りの楽器だった。
 その少年は、あたりを見回してしばらくたたずんでいた。
 子供たちは手風琴弾きを見守った。白いブラウス、黒い細身のズボンにチョッキ、胸に赤いスカーフを飾っている。鳥打帽の陰になった顔は、さきほど通って行ったサアカスの踊り子たちよりもまだ端正な顔立ちだった。
 あの、と見物の少女が言った。
「こんなところに今頃一人で、どうしたの?」
少年もそう言った。
「サアカスはもうみんな、行ってしまったよ」
手風琴弾きは、ちょっと笑ってそうだねと言った。
「サアカスは行ってしまったけれど、ぼくの手風琴を聞く?」
子供たちはぱっと顔を輝かせた。
「聞く!聞くよ!」
手風琴弾きは微笑んだ。こっちへおいで、と彼は通りのはしに近寄った。
 それは、日曜日になると亜米利加人の宣教師さんが来る集会所だった。集会所は明るい色の煉瓦造り、その壁には、しゃれた日時計がかかっている。煉瓦壁に背中をつけて、手風琴弾きはちょっとの間自分の楽器をいじっていた。
 そして、両手に楽器を構え、小さな二人の聴衆の前で、弾き始めた。初めはゆっくりと、それからだんだん早く、激しく、思いを込めて。
 灰色の石畳 暮れなずむ影絵の街
 眠り込む日時計に 息吹き込む音は手風琴……

「ストップ!」
監督から声がかかった。
「それじゃさっきと同じだって。違うんだよ、わからないかなぁ!」
監督は明らかにイラついていた。まわりのスタッフがそっと首をすくめた。
「まいったね」
照明係がライトを消し、はしごを降りた。録音スタッフも機材をとめた。撮影クルーは疲れ切っていた。この同じシーンを、今日はもう10回以上撮り直しているのだ。
「ここは大事なとこなんだよ、ね、わかるぅ!?この少年が全体のキーポイントなわけ!それで!初登場のここんとこでいろいろ見せたいものがあるんですよ、ぼくとしちゃあ!!!」
手風琴弾きを演じた女優も疲れ切っていた。
「それは、わかってるつもりです」
「つもりじゃ困るの!きみはこの役欲しいわけでしょ?ね?だからさあ、ああ、もう、なんて言うのかなあ、なりきってないわけよ。ちゃんと台本読んでんの?」
「……はい」
監督は疲れ切って、苛立って、焦りまくっていた。
「まじ?それであの程度?え、ほんと?きみ、プロになりたいんでしょ?」
映画のタイトルは『金の入り日に手風琴』。物語の筋はかなり幻想的なものだった。
「まいったなあ」
髪をぐしゃぐしゃとかきむしって、監督はさらにかん高い声をあげた。
「見てくれはねえ、きみでドンぴしゃなの。でも動いてもらうと正直劣化が激しいよ、きみ。なんでできないかな、ただの男の子じゃないんだよ、この手風琴弾きはっ」
「だから……人間のようで幻想のようで」
「わかってんなら演ってよ!もう一人の子はちゃんとわかってる感じだったんだ……ああ、きみ今日はもういいよ」
え、と手風琴弾きの衣装をつけたまま女優は言った。
「帰って。もういいから」
監督の声がしわがれている。スタッフが用意の栄養ドリンクをコップにあけてもってきた。
「みんな~、ちょっと休もう」
ほあ~と声にならないざわめきがおこった。撮影のスタッフも子役二人も女優に気の毒そうな視線を向けながらも、ぞろぞろ引き上げていく。
「あの、次はいつ来ればいいんでしょうか」
監督は目もくれないで手を振った。
「こっちから連絡するから。じゃ」
ひどく気のない態度だった。若い女優は撮影現場を引き上げる以外にできることはなかった。

 細身のジーンズとハイヒールに包まれた足が大股に歩いていく。すらりとしたきれいな足だが、その持ち主は怒り狂っていた。
「もういやっ、もう十分!やめてやるっ、こんな役!」
「ちょっと、ちょっと、めーちゃーん」
後ろから追いかけてきた者がいた。
「もしもーし!あのー!」
青いマフラーを首に巻いた若い男だった。
「あのーっ!めえええええちゃあああああんんんん!」
後の方はとなりのトトロ風に叫び、やっと彼は追いついた。
「怒ってるのはわかるよ。でもさ、このままあの役あきらめたくないだろ?」
ものすごい勢いで歩いていた足がやっと遅くなった。
「そりゃ、そうよ!」
少年役のためにショートに切った髪、シンプルなセーターの胸を押し上げるスタイルの良さ。彼女は手風琴弾きの女優だった。
「ですよねー。書類審査はダメ元で出したとしても、面接通ってカメラテストしてもらって、ほとんど本決まりだったんだ。ここで投げだすって手はないよ」
「そうだけどっ」
新人女優、佐久根明子は、あらためて怒りの炎を燃やした。
「あの監督、だいっきらい!くそっ、人をなんだと思ってんのよ」
いやいやいやいや、と彼は言った。
「わかるよ。今日あそこでピアノを弾いてたのぼくだからさ」
相棒の若者は、アルバイトとして撮影現場でピアノを受け持っていたのだった。もちろん、この場面で使われる本当の楽曲は、スタジオできちんと録音されるのだが。
「けど、円満な人格者よりもあの監督はいい映画つくるんだよ」
「あたしだって篠田監督の作品は、好きよ。だから応募したんだもん」
「それも準主演じゃん。謎の少年と上品な美女の一人ふた役。人生のラッキー全部使い切るくらいのチャンスだよ」
「わかってるわ」
明子は肩にかけたトートバッグの肩ひもを背負い直し、ためいきをついた。
「ごめん、魁人。もうやめるなんて、あたしどうかしてた」
「いいよ、謝ったりしなくても」
二人は通りを並んで歩きだした。
 二人とも大学生だった。母校は異なるが両校とも学生どうしの交流が盛んで、大学の枠を越えたサークル活動も多かった。そんなサークルの一つで二人は知り合った。以来なんとなくつきあっているような、いないような状態にある。
「昼飯、食べようか。でさ。具体的にどうするか演技のプランを練ってみようよ」
「うん。そう言えば、腹減ったわ」
最終オーディションを兼ねたリハーサルは新橋の近くのスタジオで行われていた。二人は銀座8丁目方面から交差点へ向かってゆっくり移動している。
 晴れてわずかに風のある、気持ちのいい昼下がりだった。地元の人間にまじって今の時間は地方からの団体や外国人観光客が目に付いた。二人は食事のできるところを物色しながら、この昭和の香りのする由緒ある繁華街を進んでいた。ちょうど昼時でサラリーマンやOLがお昼を求めてさすらっている。二人はその流れにのった。
「ダメでもともと、で始めたんだよね、あたし」
映像の美しさで知られた若手の映画監督が日本を舞台にしたファンタジー系の作品を撮ることになったのが、そもそものはじまりだった。監督が主演男優の相手役女優を公募すると言いだし、サークル(肩の凝らない音楽系のサークルだった)全員一致の推薦で、明子はオーディションに挑戦することになった。
 そして、こんなことが本当にあっていいのか、というくらいすらすらと明子は審査を通過していき、今やもう一人の候補と準主役を争う位置にある。
「もう一人の候補って、舞台の人なんだって?」
「うん。演技もダンスも本格的に勉強して、昔から子役やってて、CMとかドラマにも出たことあって、知名度もけっこう……あるって……」
どう考えてもその子を手風琴弾き役に使った方がプロデューサーとしてはいいだろうと思えるような女優なのだ。明子が候補に残ったのは、監督がその容姿に惚れこんで強く推したからにほかならない。今日行った撮影は、監督が出資者に主張を通すための材料になるはずだった。
「演技かー。ちくしょー。アコーディオンちょっと練習したぐらいじゃだめかー」
「ほら、やけになんない。監督は脚本読めって言ったんでしょ?」
「うん。これ」
2人がいるのは屋外のテーブルだった。コーヒーとサンドイッチを安く食べさせるチェーンの喫茶店の前である。二人の収入の範囲内の銀座ランチだった。
明子がテーブルに置いた台本は風が表紙を吹き上げてぱらぱらとめくれた。
「ずいぶん読んだんだねえ」
台本はフセンだらけで、明子の台詞には大量の書き込みがいれてあった。
「全部覚えたし、監督に言われたことは全部注意して演技してるわよ」
 この映画の主役は、世界中を放浪する一人の男だった。明らかに監督自身と思われるその放浪者、シノダは、あちこちの国で数年、十数年の時を隔てて、特定の人物に遭遇する。それが謎の手風琴弾きの少年だった。
 そしていつのまにか、自分と同じようにその少年を追う女性とも出会う。クラシックなワンピースのその女性も、明子のふた役だった。
「この少年は実在するのか?シノダが別人を目撃して同じ少年と思いこんだのでは?目撃された手風琴弾きたちが親子や兄弟だとしたら?とすると謎の女性は誰?」
魁人は脚本を読みながらつぶやいた。
「難しい脚本だよねえ」
「あーもー意味わかんねー」
綺麗な指を髪の間につっこんで明子はぐじぐじとかいた。
「あたしは幻想的な雰囲気だしたいし、一生懸命その方向で演技してるのよ。それなのにさ、それなのにさぁ!」
「疲れてたんだと思うよ、監督さんも。映画が仕上がらなかったら借金だけ残ることになるし、次の仕事もかかってるんだし」
篠田監督は「金の入り日~」を海外のファンタジー系の映画祭での上映に持ち込みたい、と最初から公言している。現在の監督の名声も、そういうところの受賞から始まったのだ。
「なんかさー、魁人は監督の肩ばっか持つよね」
「ぼくもいつか映像やりたいなと思うもん。でも、めーちゃんの味方だよっ、ぼくは」
明子の表情が険悪になったのを見て、あわてて魁人は言い添えた。
「はいはい、ありがとー。あーあっ、撮影、呼んでもらえるのかな、あたし。まじで行きたいような、行きたくないような」
「いやいやいや、めーちゃん」
 タイミングが悪かったとしか言いようがない。ちょうどそのとき、アコーディオンの音が聞こえてきたのだった。
 広い道路の両側に街路樹を植えた大通りは、歩行者のためのスペースが広く取ってある。明子たちがいるのもチェーン店の前のそんなスペースだったのだが、数メートルしかはなれていないところへ軽トラックが入ってきたのだった。
「産地直送!安いよ、安いよ!」
トラックの荷台には果物が満載されている。CM曲はアコーディオンを使った明るめの雰囲気のものだった。
「お日さまいっぱい身に浴びて~おいしいジューシーヘルシーに~」
 魁人はハラハラしていた。明子の表情がどんどんどす黒くなっていく。
 運転手が降りてきて、軽トラックはすぐ簡易屋台になった。中のCDを止め、運転手はアコーディオンを持ちだして同じメロディを弾き始めた。
「うぜーっ」
明子がつぶやいた。
「そろそろ出ようか。ねっ」
返事もしない。
「めーちゃん?あの、もしもし?」
いきなり明子が立ちあがった。
「えっ、何すんの、めーちゃん?暴力はやめよう。ね?」
「どけぃ!」
 ハイヒールで歩道のタイルを踏み鳴らし、明子は軽トラックに突進した。
 まわりの歩行者が驚いて道を開けた。肩を怒らせた美女が正面から突撃してくるのを見て、アコーディオンの男は思わず手を止め、逃げ腰になった。
「それっ!」
明子は手を突き出して叫んだ。
「それ貸して!」
果物販売の男がまだ何も言わないうちに明子は実力行使でアコーディオンを取りあげた。
「ちょっ、お客さん!」
すいません、と魁人は心の中で代理で謝った。
 映画のためにアコーディオンを練習し始めて数カ月になる。明子の手つきは危なげなく、素早かった。あっというまにアコーディオンを装備してしまった。
 なんだ、なんだ、なんだ、と野次馬が遠巻きにして見物している。明子のテンションは下がらない。両側のボタンと鍵盤をほとんどわしづかみにするといきなり弾き始めた。
 あの曲だ、と魁人は思った。今日の撮影で弾き掛けて、途中でダメを出されたあのフレーズ。その前奏部分が初めはゆっくりと、しだいに熱狂的に高まっていく。
灰色の石畳 暮れなずむ影絵の街
眠り込む日時計に 息吹き込む音は手風琴……

 そのとき、世界が変転した。

 つい先ほどまで正午だったというのに、いつのまにか日没になっている。大通りは強く差し込んでくる夕日のために、真っ白に輝いていた。
 明るいところはあくまで白く、明るく、陰になったところは細部さえわからないほど黒く、闇の中にある。
「ここは……、銀座?」
明子はぼうぜんとして周りを見回した。
 目の前にあるのは、大きな建物だった。窓は細長くてっぺんがアーチ形になっている。それが延々と連なっていた。
 4丁目にこんな横に長いビルがあったかしら、と明子は思った。壁は高く黒々と風景を切り取っている。その壁に設けた無数の窓から、スリット状に明るい光が漏れているのだった。
 明子はふりむいた。日没の銀座は人通りが多かった。大都市らしく、誰ひとり明子には気づかないかのように通り過ぎていく。
「ここは……、いつの銀座?」
 帽子にステッキの紳士、丸髷に和服の婦人、着物に袴、学生帽の大学生、洋装のモダンガール……。白と黒、コントラストのはっきりした風景である。歩く人々も顔は帽子の陰だったりうつむいていたり、はっきりとは見えない。
「なにこれ。どうなってんの」
よろけるように歩いて明子は気付いた。ハイヒールを履いていたはずなのに、靴音が違う。足元は陶製のタイルではなく、石畳だった。それを踏んでいるのは先のやや狭まった黒い靴。そして黒のサブリナパンツ、ベスト、白いブラウスと、赤いスカーフ。
「これ、撮影用の衣装じゃない」
もちろん胸に抱えているのは、手風琴だった。
「魁人?魁人どこ行ったの?」
明子はぞくっとした。まわりにこれほど大勢の人がいるのに、話声が聞こえないのだ。
 明子は歩き出した。すぐそばの巨大な建物の向こうでは大きな太陽が金色に輝いて沈んで行こうとしているのだろう。立ち並ぶアーチ窓から、ギリシアの神殿のような形になって西日が漏れ出している。
「なんなの、これ。あたし、どこにいるの?」
 たったったっと足音をたてて明子は歩いていく。だが、デパートなのか劇場なのか、あまりにもその建物が巨大で、なかなか曲がり角にならないのだ。広い通りの反対側はヨーロッパ土産のクッキーの缶のイラストのような、かわいらしい三角屋根の建物や丸いドーム天井の丸ビルが次々と現れた。どれも黒い紙を切り取ったようなくっきりとしたラインだった。
「影絵だわ、まるで」
夕焼けの空の色味はまったくの金色だった。その上を行く雲さえも紙を切って張り付けたように動かない。おもちゃのような複葉機がその上を行く。明子と飛行機の距離のせいだろう、まるでとまっているように見えた。
 視界の隅を何かが遮った。はっとして明子はふりむいた。街灯のひとつに大きな鴉がとまっていた。