影絵の街 第二話

「金の入日に手風琴」〔by ■P 様〕二次創作

 なんとなく明子はほっとした。自分以外に、とにかく生きているものがこの通りにいる、と思った。鴉は心を読んだかのようにじっとこちらを見た。鴉もその黒いシルエットは影絵めいた風景に溶け込んでいる。明子は立ち止った。
「目が?」
黒と白が支配する世界で、その鴉の目だけは赤く見えた。
いきなり翼を広げて鴉が飛び立った。その羽ばたきも鳴き声も聞こえない。だが沈黙のうちにその鴉の声を明子は聞いた。
「もう二度と、決して!」
決して帰れないとでも言うのだろうか。明子はまた建物に沿って歩き始めた。
 たったったっ、明子に聞こえるのは足音だけだった。曲がり角を探して永遠にこの通りを歩くのじゃないかと、明子は非常識な恐怖にとらわれかかった。
通りに沿った長大な建物から、スリット状に入り日がもれて顔に当たる。明るい-暗い-明るい-暗い、通りの向こうから明子が見えたら、光と影が交互に当たるのが見えただろう。
 何の気なしにまぶしい窓の方を明子は見て、立ちすくんだ。
 窓の向こう側、建物の中に誰かいた。
「あのっ、すいません」
まぶしいのでわかりにくいが、人間の足が二本あったのだ。
 だが、声は聞こえないようだった。しかたない、と明子は思った。なんとかしてこの建物の中に入って、中の人にここはどこなのか聞かなてくは。
再び明子は歩き始めた。まわりはあいかわらず、うっとりするほど美しい金の夕日に浸されたモノトーンの静寂の街だった。
 窓の中の部屋にいる人も、動いている。明子と同じ方向へ進んでいるらしかった。建物の黒い壁一枚をへだてて二人は同じ速さで同じ方向へ進んでいるのだった。
 羽織袴に帽子の男が前からうつむいて歩いてきた。さっとすれちがったとき、前方に明かりが見えた。
「曲がり角だわ!」
やっと建物が途切れ、大通りと交差する別の通りへ出たのだ。明子はほとんど小走りにその角を曲がった。
「うっ」
予想はしていたが、すさまじいほどの光だった。真西に向かっているに違いない。あまりにもまぶしくて、視界は真っ白だった。鳥打帽のひさしをおろして明子はあたりを見回した。
 すぐそばに小さなドアがあった。やはり劇場なのか、楽屋口、あるいは搬入口なのだろう。明子はさっとそのドアのノブを握って開いた。内部は暗黒の闇だった。
「すいません!」
明子は叫んだ。さきほど中にいるのが見えた人が気が付きはしないか。だが、答える声はなかった。
 ようやく目が慣れてきた。
 明子が立っているのは、大きな劇場のロビーかなにかだろうか。太い柱はあるが壁で区切られていない巨大なホールだった。
 壁は天地一杯の高さのアーチ形の窓が並んでいる。その外が先ほどの大通りなのだろう。反対側の壁はミュシャ風の大きな壁画が並んでいた。
 足元は柔らかいじゅうたんを敷き、古めかしい猫足のソファが整然と並んでいた。ところどころに小さな角型のテーブルが置かれ、その上にアンティークなスタイルの飾り時計や陶製の人形が飾ってある。
 ぜいたくで快適な空間だが、人っ子ひとりいなかった。
 さきほどの人は、別の部屋にでもいるのだろうか?明子はしかたなく歩き出した。窓ガラスの向こうには、さきほど歩いた街が見えている。影絵の街はアーチ形を連ねた枠に収まり、いっそう童話めいていた。
 どきりとして明子は立ち止った。
窓の向こうに誰か立っている。黒いパンツと靴の人物だった。
「……」
声をかけようとして明子は声を呑みこんだ。
「なにこれ」
アーチ窓の外にいる、黒いパンツの人物。それはさきほどまでの自分だった。では、アーチ窓の内側にいる自分は?
 明子はぎゅっと目を閉じた。パニックになりそうだ。落ち付け、と自分に言い聞かせても、こわくてたまらない。
「だいじょうぶ……よ……きっと」
しかし、自分でもわかっていた。
 急に体が軽くなったのは、胸に抱えていたアコーディオンがなくなったせい。
 急に足音が変わったのは、はいていた靴が変わったせい。
 耳のあたりの感触が変わったのは、帽子が……。
 明子は無理やり目を開けた。壁の一つにかかった等身大の鏡から自分がこちらを見ている。
 グレーのワンピース、胸に飾った赤いスカーフ、赤い細いリボンを飾ったクロッシェ型の帽子、ハイヒール。明子が演じるもう一つの役の着る衣装だった。
喉から恐怖がこみあげてくる。
「ここから出して」
 ここを出なくては。
 明子は振り向いた。心臓が激しく鳴っている。入ってきた扉が、巨大な部屋のつきあたりに小さく見えている。明子は身をひるがえしてそのドアに向かった。
ちらりと立ち並ぶ窓を見た。窓の外でも、黒いパンツの明子が並行して歩いている。二人は同時に歩くスピードを速めた。
 ドアはどんどん近づいてきた。この影絵の街にまぎれこんで以来、ずっと歩き続けている。そろそろ明子の息もあがってきたが、帽子を両手で押さえ目をほとんど閉じて明子は小走りになった。
 たどりついたドアを思い切り引き開け、明子は通りへ飛び出した。
 さきほどまでの光の洪水はなかった。日没が進んで角度がかわったのだろうか。ドアの外の道は、半ば光、半ば陰の中にあった。
 ちょうど光と影の境目に、街灯が立っていた。街灯の基礎は大きくしっかりしていて、ちょうどいい高さになっている。明子は疲れた体を引きずって街灯に向かい、街灯の柱に背をつけてその基礎へ座った。
 外にいるはずの“明子”の姿は見えなかったが、その瞬間だけはそれも忘れるほど疲れた気分だった。
 街灯の柱に頭の後ろをつけると、釣鐘型の帽子のふちがおされて少しだけひさしが前に出る。ひさしのふちから見上げる夕焼けは美しかった。
 ひそやかな足音がした。
 誰かがやってくる。
 明子が座っている街灯の礎石の反対側にすわった。
「誰」
その人が何も答えなくても、明子は自分でその答えを知っていた。
「ここがどこだか知ってる?」
少年のような、だがやはり自分の声が、そう問いかけるのを明子は聞いた。
「わからないわ」
と明子が答えた。
「でも昔からあるんだよ」
「昔って?」
「覚えてないの?」
「何を?」
「ぼくたちがおいかけっこをしていることさ」
ああそうだ、と明子は思った。この影絵の街に降り立ったときから、明子はもうひとりの明子を追い、また、追われていた。
「今は?お休み?」
「まあね。この街はぼくたちが追いかけっこを始めたときから存在するんだよ」
「私たち……」
振り向きたい。振り向いて相手の顔を見たい。明子はそのかわりに手を伸ばして、背後に背中合わせで座っている人物の手を探った。
 あたたかい指が触れた。
「だめなのかな」
「だめなんだ。ぼくたちは出会っちゃいけない」
「ずっと追ってるのに」
「ぼくも。追い掛けて、追いつけない」
「追い掛けてるけど、追われてもいる」
「それでいい」
諦めたような口調に明子は無性に苛立ちをおぼえた。
「それじゃあ、永久に会えない!」
「……うん」
背後の少年は認めた。
「でも、ぼくは追うことをやめない」
 相手の指が自分の指を握り返した。明子はなぜか涙があふれてきた。
 光と影はわずかづつ勢力範囲を変えている。光の領域に明子は座っていた。 影の領域に少年が座っていた。光と影は、けして交わることはない。一日に二度、夜明けと日没のときをのぞいて。
「だからこの街は入り日なのね」
「綺麗だろ」
「綺麗だわ」
降り注ぐ黄金の日差しの中に箱型の大きな建物が立っている。あまりにまぶしてくてそれは真っ白に見えた。石畳に落とす影は対照的に漆黒だった。アーチ形の窓の形に整然と白い部分が並んでいる。
 明子は目を閉じた。あまりにも美しくて目を開けていられなかったのだ。

 顔に当たる風が急に冷たくなった。明子は目を開いた。
「めーちゃん!」
目の前に魁人がいた。
「えっ?」
えっ、じゃなくてさ~、と泣き笑いのような顔で魁人は言った。
「心配したんだよ、アコーディオンの鬼独演会のあとはふらふら歩いてここまで来て、すわりこむなり話しかけても答えなくなっちゃって」
「ええっ?」
明子はきょろきょろした。あたりは夏の長い日没の終わりごろだった。完全に夜になりきっていない、透明感のある夕方である。
 ふと真上が明るくなった。銀座名物のシンプルモダンな街灯が点灯したのだと明子は上を見上げて知った。明子は、街灯の基礎に腰かけていたのだった。
「あら……」
「アコーディオンなら、おじさんに返しといたよ。お礼はいいからね」
「あ、やだわ、もちろん、ありがとう、魁人。ごめんね」
魁人はやや機嫌を直したようだった。
「大丈夫ならいいよ。でももう帰ろうよ。そろそろ涼しくなってきたし」
明子は立ちあがった。ワンピースも黒のパンツもあとかたもない。もちろん、明子以外にそこに座っている人物などいない。明子はきょろきょろした。おもしろいことに、あの影絵の街の建物の面影をその街は遺していた。それに、今あのビルから見下ろしているのは、あの鴉ではないかしら。明子は微笑んだ。
「めーちゃん、どしたの?」
「あたしね。あたし、なんか、わかった。足りないものが」
「足りないもの?演技のこと?」
「そうよ。あの手風琴弾きはね……」

 撮影用のセットは前回と変わっていないが撮影現場の雰囲気は微妙だった。篠田監督のほかにプロデューサーや出資元などが現場を見に来ていたのである。
 そして、まだ出番はないのだが、主人公である放浪者シノダ役に決まっている壮年の俳優も現場に顔をのぞかせていた。舞台も映画もやるが仕事は選びぬくといううわさで、その彼が主役をやるというのだからこの映画はいけるらしいよというハク付けにさえなっている。
 そして、マネージャーらしい女性といっしょにもう一人の準主役候補の女優が衣装をつけてスタンバイしていた。主役の男に挨拶しているところも業界人らしかった。
 この女優さん見たことあるかも、と魁人は思った。コマーシャルだったか、ドラマだったか。なんとなくスターのオーラみたいなもんもある……かもしれない。
 こほん、と魁人は咳ばらいをした。魁人がいるのはピアノのところだった。アコーディオンにつける伴奏が仕事である。曲は仕上がっているのだが、音源が気に入らないと監督が言うのでこうしてライブで聞かせることになっていた。ピアノのそばに、その女優と同じ衣装をつけた明子がいた。
「気にしない方がいいよ。スターっぽさってことは業界ズレしてるってことかもしれないし、どっかで見たことあると思うってことは、何に出たか覚えてもらえないってことなんだから」
「無理しなくていいって」
と明子は言った。
「佐久根さん、お願いします」
撮影助手が声をかけた。はい、と答えて明子はふりむいた。
「伴奏、よろ」
「おk」
 あのとき銀座で意識を失った事故があってから、なんとなく明子の雰囲気がかわったかな、と魁人は思う。あのあと、普通の小説を読むように台本を読みふけり、うっすら涙を浮かべたり、何時間もアコーディオンを練習したり、明子のやることがどうにも魁人にはわからない。だがひとつ言えることは、それまでの焦りが消え、何か心ひそかにすてきな秘密を抱えているかのような表情をするようになったことだった。
「いい女だよ」
魁人はつぶやき、ピアノの前に座り直した。
 シーンはこのあいだと同じように始まった。貧しい少年と妹がパレードのあとの公園にたたずんでいるときに、手風琴弾きの少年がやってくる。ちなみにこの貧しい少年が映画の主人公シノダの伯父で、いっしょにいる妹がシノダの母になる女性、という設定だ。
 兄妹が目撃し、のちのち主人公に語ることになる不思議な手風琴弾きの少年の初登場である。
 明子は気負わないようすで登場した。もう何度も練習を重ねたシーンだった。短いセリフのやり取りのあと、アコーディオンを弾く情景になった。手風琴弾きは煉瓦塀にかかった日時計のそばに立ち、胸のアコーディオンを用意する。子役二人はなかなかいい芝居でわくわくした期待感をよく見せてくれていた。
 明子がアコーディオンに手をかけた。

灰色の石畳 暮れなずむ影絵の街
眠り込む日時計に 息吹き込む音は手風琴
玻璃窓の煌きに 鳴りわたる異国の鐘
ゆらり踊る影法師 誘われ灯る幻燈五色

紅色の頬を染め走り出した 無邪気な迷子のふりをして
雪色に光る剃刀のような 密かな秘め事を忍ばせて

金の入日に手風琴 失くしたものは見つからない
金の入日に手風琴 失くしたものは見つからない

明子はすばらしかった。肩幅に開いた足、優雅にかつ力強くあやつる手風琴。鳥打帽の陰になった表情は歌に熱中しているようすだった。何か、遠いものを見つめている瞳。ピアノで伴奏をつけながら魁人はぞくぞくしていた。

終わりへと落ちてゆく 燃え朽ちる夕日に手風琴
きりきりと舞い続く 風見鶏 風にから回る
追いかけて追いつけない 遠く香る金木犀
紅玉の瞳細め 大鴉 風にから笑う

菫色のはかない夢 腕に抱いて 全てを振り捨て往く先に
闇色に深い罪 体染めて もう戻れないのを知りながら

金の入日に手風琴 失くしたものは見つからない
金の入日に手風琴 失くしたものは見つからない

 今日は監督もダメ出しをしない。それどころか、見学のプロデューサーたちもじっと聞いている。向こう側にいるもう一人の候補女優までさきほどまでの余裕ありげな表情が変わってきている。最初驚き、それからくやしくなり、でもどうしても聞きいってしまってまたくやしい、そんなあけっぴろげな顔だった。
 明子のアコーディオン、いや、手風琴は冴えに冴えていた。ここから大サビとなる。魁人のピアノも快調だった。何故だか今日はおもしろいように指がまわった。

金の入日に手風琴 ついてはならぬ嘘をつき
金の入日に手風琴 忘れてならぬ名を忘れ
金の入日に手風琴 夢見てならぬ夢を見て
金の入日に手風琴 憧れさまよう影絵の街

そこはもう、ただの撮影セットではなかった。不思議な少年が現れた港の近くの夕日の街になりきっている。子役たちは息を詰めて明子を見上げていた。

金の入日に手風琴 失くしたものを見つけるまで 
失くしたことも忘れるまで

アコーディオンが響かせる余韻にピアノで寄り添い、歯切れよく曲が終わった。
 このシーンはここで終わる。監督助手がおそるおそる監督の顔を見た。ここで切り上げて、女優を交代させることになっていたのだろう。
「監督?」
「篠田(しの)さん?」
助手や主役の俳優が両側から声をかけた。監督はまだ、無言だった。無言のまま、肩をふるわせていた。
「おい」
ようやく監督が言った。絞り出したような声だった。
「今の撮ったか?撮ったよな?」
ほとんど吠えるようにそう言うと、監督はいきなり椅子から立ち上がった。
「ちょっと見せろ!」
スタッフがあわてて動き出した。
監督の目が涙で赤くなっている。魁人は心の中でぐっと指をつきあげた。
「これだ……うん、これだ!な、わかるだろ?わかるでしょ?」
最後のはどれどれと見に来た主役の男に言った言葉だった。
「ああ、わかる。これだろう、しのさんが撮りたかったの。へえ。やけるねえ」
 ぱし、と軽い音がした。待機していたもう一人の女優がいまいましげに鳥打帽を脱いでマネージャーの手にたたきつけるようにしたのだった。マネージャーも首を振っている。もう誰の目にも、この仕事を誰が取ったか明らかだった。
肝心の明子は、胸からアコーディオンをおろしてやっと魁人のところへ来た。
「やったね」
明子は笑った。
「やったかも」
このあいだの大失敗だった撮影で足りなかったかものを明子はつかんだのだから。
「あの手風琴弾きはね、絶対に手に入れられないものに憧れ続けているの」
魁人はピアノの椅子を明子に譲った。明子はそこに腰かけ、ちょっとうつむき、片手を背後へのばした。手を後ろに伸ばし何か探るようにした。指は空をつかむだけだったのだが、なぜか明子はそっと微笑んだ。