天主物語 3.第三話

 ククリの花は、梅に似た香りの薄紅色の小さな花だった。しばらくすると花が落ちて、あとになかなか美味い実がなるのだった。
 宿の庭には眺めのため、と、その実を取るためにククリが何本か植えられていた。
「この金子は、お返しいたします」
若い旅の法師はそう言って、銭を入れた袋を、その宿の板敷きの上にすべらせた。
「弥勒殿」
年齢に似合わぬ落ち着きの、墨染めの衣をまとった法師だった。諸国を行脚して、妖怪退治にかけては一流の腕、と聞き及んでいた。
「足りませんでしたか?」
弥勒は、その名をとった仏のように、かすかに微笑んだ。
「足りぬと言えば、足りませぬなぁ。命の代償になるわけですから」
弥勒の傍らに居た娘が、口をはさんだ。
「ちゃんと事情を説明してあげなよ、法師様」
彼女は、名を珊瑚。名高い妖怪退治の一族の生き残りであるらしい。
 村上家の用人はためいきをついた。弥勒と珊瑚、この二人の実力をみこんで仕事を依頼したのは、先日のことだった。
「先日のお話では、とある山城を妖怪が乗っ取ってしまい、あたりの村人を脅かしている、ということでしたな?」
「いかにも」
「それは、左の前足のない、巨大な白い犬で?」
「真っ赤な目をしていて、肩から背にかけてふわふわもこもこのある?」
「えっらそうなしゃべり方で、毒を吐き、妖力甚大、ど迫力の?」
「で、人の形になったときは、振袖の似合う色若衆?」
「銀の総髪に黄金色の目の?」
口々に言うことに、用人はいちいちうなずいた。
「よくご存知で」
妖怪退治が専門の二人は、そろってためいきをついた。
「最初にそれをうかがっていたら、そもそもお受けいたしませんでした」
「そんなに凶悪な妖しなのですか?」
そのときだった。宿の一室をへだてる障子が、勢いよく開いた。
「凶悪もいいところだぜ!」
用人は目をむいた。それは、若い男だった。身なりはあげ首に着付けた紅の水干で、身分ある一族の子弟らしい。だが、その目は人外の黄金色、頭部には畜生の耳がふたつ、そして、問題の凶悪妖怪と同じ、銀色の長い髪をもっていた。
「お、おまえは、あいつの眷属か!」
けっ、と妖しの若者ははき捨てた。
「眷属、ってことになるのか。その凶悪野郎とは、腹違いの兄弟だからな、おれは」

 りんは、仕立てあがったばかりの細長に身をつつみ、緋毛氈の上にすわっていた。こんな美しい衣装を身につけるのは初めてだった。
「おかわいいですわ」
綾は、りんの着付けをすませると、にっこりしてそう言った。
「ありがとうございます、綾さま」
「さま、はいりませんのよ」
あたりに控えていた腰元たちが、ざわめいた。
 りんは、そのざわめきを知っていた。
“馬の骨の小娘が、姫様を呼び捨てにするつもりかしら”
“お館さまの御寵愛をかさにきているのよ”
“こどものくせに”
“今からこうなら、さきはどうなるのかしら、おそろしいわ”
綾の顔が、こわばった。
 綾、と、その母である田島の妻を、りんは信頼していた。根拠はないのだが殺生丸のことを話題に出すときの、敬虔とさえいえる口調が、安心できた。だが、綾の周辺にいる女たちは、りんに独特の憎しみのこもった視線を向けてくるのが常だった。
 綾を困らせたくはなかった。
「では、姉様とお呼びしていいですか?」
綾は、ちょっと笑った。
「では、二人だけの時には、綾がお方様のあね様になりましょうね」
「はい」
高価な漆の櫛で髪をとかしてもらい、りんは綾に手を引かれて、桟敷へ出た。
 その桟敷は、城の前のククリの林を見通せる場所にこしらえられていた。急造だがきちんと屋根を葺き、柱の間に机帳をたててある。りんは、机帳の前に置いた緋毛氈の上にすわっていた。目の前は一種の広場になり、旅の芸人が次々とおもしろおかしい芸を披露してくれる。
 何よりもうれしいのは、殺生丸といっしょにいることだった。りんのうしろの机帳の中に、くつろいだ姿で、彼がいる。りんと同じく花を愛でているらしかった。
 お隣に来て欲しい、などとりんは願ってもみない。ただ、桟敷に入ったとき、ちらりと殺生丸がりんを見たその視線が、まるで話に聞く仙人のお酒のように、りんの胸を熱く焦がしていた。うれしさと誇りでいっぱいになって、りんは上気していた。
 どこやらの芸人たちが、きれいな踊りを見せてくれたあとだった。今度は何かな、と思ったとき、見物の群衆の中に、見覚えのある姿をりんは見つけた。
「犬夜叉さんだ!邪見様、犬夜叉さんが来てる」
「な、なに?」
邪見があわてた顔で帳から出てきた。
 見物していた城下の衆からどよめきの声があがった。赤い水干姿の若者が、広場をつっきって堂々とこちらへやってくるのだった。髪も目の色も殺生丸と同じだし、実は顔立ちもかなり似ていることをりんは知っていた。
 そしてその能力。
 犬夜叉は無造作に大地を蹴って舞い上がった。あたりが大きくどよめいた。犬夜叉はりんの目の前の桟敷の手すりの上の、ごく狭い不安定な場所に正確に着地した。
 両足を開いてうずくまり、片手を刀の柄にかけている。そよかぜに唐紅の水干の袖がふわりとふくらんだ。その目がりんの向こうの机帳の奥へ向けられた。
「てめぇ、何を気取ってやがる。出て来い、殺生丸」
足音が響いた。天神城の侍たちが、手に手に刀や槍をかまえてかけつけてきたのだった。
「怪しいやつ!」
「お館様に何用だ!」
犬夜叉は、獣じみた姿勢のまま、侍たちをじろりと見た。
「すっこんでろ」
「なにを!」
いくつもの穂先が、犬夜叉をとりかこんだ。
「お方様は、こちらへ」
小姓の藤谷が血相変えてやってきた。
「いいの。あの、この人は」
奥の帳の中で、何か動く気配がした。
「りん」
りんは肩の力を抜いた。はい、と言って、後ろへ下がった。
 足音など、しない。風が動く。犬夜叉の表情が険しくなった。
 扇の先端が、机帳のあわせめからのぞき、ゆっくり横へ開いた。
 天神城の女たち、さきほどりんに憎しみの目を向けた者たちも、今は陶然としているにちがいない。その姿を見慣れているりんでさえ、どきどきするほど、彼は美しかった。
「騒々しいやつだ」
と、殺生丸は言った。
 くつろいだ時とあって、胴鎧はつけていない。たもとのふりと肩口に花紫の亀甲を染めた白綸子の振袖に、青磁色の指貫という姿だった。
「ずいぶんと余裕じゃねえか。昼間から酒くらってよ」
りんは、すぐ後ろにいる藤谷がひくっと喉を鳴らすのを聞いた。殺生丸にこんな口の利き方をする者を、初めて見たらしい。
「自分の城の中だ。酒ぐらい勝手に飲ませよ」
「自分の城?おまえ、乗っ取ったんだろうが。なんとかいう家の家老が、妖怪を退治してくれと泣きついてきやがったぞ」
殺生丸の目が、すっと細められた。
「おもしろい。成敗してみるか」
「のぞむところだ。出て来いよ。邪魔者なしでやろうぜ」
「お待ちを!」
板張りを踏み鳴らすようにして、田島が走ってきた。
「殺生丸様、お鎮まりくださいませ!」
「なんだ、こいつ?」
肩で息をしながら、田島が言った。
「当城の城代、田島と申します。お館さま、こちらは」
「腹違いの弟だ」
「なるほど」
納得した顔で田島は言った。
「あんた、乗っ取られたほうか?」
「いえ、この城は、献上いたしました」
ふん、と殺生丸がつぶやいた。
「世にもまれな物好きよ」
「おれもそう思うぜ。邪見と同じくらいの物好きだよな。あんた、こいつの本性を知ってつきあってんのか?」
「本性とおっしゃいますと、あの大きな白い犬のことでございましょうか?」
「見たことあるのか!へえぇ。怖くなかったか?」
「恐ろしぅございました」
「正直だな。実の弟でもあれにはびびるんだからよ」
「ほざけ。びびりながら兄の腕を斬っていれば、世話はない」
田島はあえいだ。
「あの腕は、こなたさまが!」
「おう。ちょっとわけありでな。今のところ、二勝二敗一引き分けだ」
田島はためいきをついた。
「おまえたち、下がりなさい。人間の手におえる領域ではないらしいからな」
侍たちが武器を引いて退いた。

未完