天主物語 2.第二話

 城の台所では、飯を炊くにおいが漂っている。今朝は味噌もつくらしい。田島は、ほっと息を吐いた。
 天守をあけ渡したので、田島一家は下の階の武者溜まりの一画で寝起きすることになった。表の部屋は田島の用部屋も兼ねる。
「お館様」
家老の小橋が用部屋へやってきた。田島は薄く笑った。
「お館様は、天守におられる。わしは、夕べからおぬしと同じ家老じゃ」
「はあ、そうでございましたな。では、城代家老様」
「城代はよいな。なんだ?」
「新しいお館様には、朝餉に何をさしあげましょうか」
「それが、邪見殿の言うには、人間の食べるものは、あの方のお口にはあわぬらしい。気遣い無用ということであった」
「さようでござりますか」
田島はふと気付いて言った。
「だが、あの小さなお方様は、我らと同じものでよかろうよ」
「かしこまりました」
「女中どもは、天守へあがるのを怖がるのではないか?」
小橋はにやりとした。
「それが、台所で大騒ぎでござる。新入りから古参まで、われが朝餉をおもちするのだ、と順番を争いまして」
「なんと」
「妖怪の御曹司ではあれ、あのように雅やかな若殿でいらっしゃいますから、わずかなりとも、お姿を拝見したいらしく」
田島は頭を抱えた。
「婦女子は、かしましい。小姓に持たせよ」
「は」
田島は首をもんだ。
「さてと、あれは、いつごろ来るかの?」
小橋は、意を汲んで薄く笑った。田島とは、もう長年この領地を守り立てて苦労してきた仲である。だいたいのことは説明抜きで察した。
「おっつけまいりましょう。いつものことです」
「こたびは、ようすがちがうぞ」
「楽しみでございますなぁ」
田島は口元がほころぶのを感じた。

 最初に顔を出したのは、一番近いところに領土を持つ坂井家の家臣たちだった。狐につままれたような顔で、あたりを見回している。
 小橋が見つけて、出迎えた。
「これは坂井の御家中。何か御用で」
「いや、その」
小橋はにやにやしていた。用向きは、尋ねるまでもなく、とっくに知っている。この天神城が落ちたかどうかを見に来たのだった。戦の後には、こういう“火事場泥棒”が大勢現れる。
「こちらのお城に大変あり、と聞いて我が殿が様子見に、な?」
「おお、そのことでしたら、無事に片付いてございます」
「さ、さようか。あのサルの妖怪の群れを、首尾よく?」
「はい」
坂井の家臣はきょろきょろした。
「それはけっこう。もしや、どこからか武者でも借りられたか?そのような金子があるのなら、坂井の殿にも……」
小橋は、待ってました、と微笑んだ。
「いや、もう、他の段ではございませぬ。この天神城は、これより坂井殿には貢ぎ申さぬ。そのようにお伝えくだされ」
坂井の臣は、あっけにとられていた。
「されば、大田へつく、と?」
「太田殿へも、貢ぎませぬ」
「ならば、村上か」
「なんの、なんの」
小橋は満面に笑みを浮かべた。
「天神城は夕べより、殺生丸様と申上げる新しいご城主をお迎えいたしました。独立独歩、いずこへもつきませぬ。坂井の殿には、そうお伝えくだされ」

 その殺生丸に、田島は天守閣で向かい合っていた。
「きさま、人間の分際で、この殺生丸をこき使うか」
あいかわらず、腹に響くような低い声音である。
「めっそうもない」
「あれは、なんだ」
天守の窓からは、家老の小橋が坂井の家臣と問答している様子が良く見えた。田島はなにをしゃべっているか知っているのだが、さすがに声は聞こえなかった。が、城主の耳は特別らしい。隠すだけ無駄ということだった。
「小橋は、あたりまえのことを、あたりまえに申しております」
ふん、とつぶやいて、城主は視線を田島へ戻した。
「坂井、大田、村上。あとは?」
「やや遠くなり申すが、国枝、本木、と」
「すべてやってくると、いつごろになる」
「今宵のうちにはまいりましょう」
殺生丸はそれだけ聞くと、脇息にもたれた。
 天守は貴人の居所らしくなってきていた。もともと広い板張りのワンフロアだが一部がロフト状になっている。夕べ、りんが休んだところだった。
 夕べは板敷きだったが、今はそこに薄縁を敷き、机帳台をたてまわしてあった。田島は、その帳の内部で今、領主の前に膝をそろえている。
 殺生丸は立ち上がった。
「出る」
田島は黙って平伏した。その前をとおり、片手で帳をひきあけた。りんが見つけて、寄ってきた。
 天守の一部の壁は田島が大工に言いつけて、大きな扉にしてあった。邪見がその扉を開くと、すぐに双頭の飛竜がやってきた。阿吽、と言う名だとは、夕べ邪見から聞いたばかりである。
 すぐに騎乗の人となると、城主は空へ駆け上がって行ってしまった。
「田島様、黙っていてよろしいので?」
小姓が心配そうに聞いた。
「夜にはお帰りになるさ」

 近隣六カ国の大名は、数の差はあれ武装した足軽に将をつけて、天神城へ差し向けたようだった。日没にはすべて出揃い、天神城を取り囲むように布陣した。
「まるで、戦じゃ」
天神城の周囲には、かがり火がいくつもたかれ、夜空を焦がしている。
「よほど、小面憎く思われたのであろう」
田島と小橋は城の表門の前に立っていた。馬蹄の音がする。まもなく、近隣諸侯の使いが、くつわを並べて現れた。いずれもいかめしい戦装束の鎧武者だった。
「どういうつもりか、田島殿」
ふ、と田島は微笑んだ。
「つもりも何も田島はしがない城代家老にてあれば。主の意向にそむくわけにはいきませぬ」
「笑止」
「その主殿は、どこにおわす」
「聞けば、犬の妖怪、と名乗ったとか」
「信用なされたのか、田島殿」
田島は動じなかった。
「まさしく信じ申した。主は、他行中につき」
いつお戻りやら、と言いかけて、田島は空を仰いだ。
「おお、お帰りのようだ」
夜空を流れる雲の間から、満月がのぞいている。その表面をかすめる飛竜の姿があった。
「みなのもの、お館さまがお帰りじゃ。お出迎えせよ」
小橋が呼ぶと、天神城の住人たちがこぞって城門前に出てきた。近隣から来た将兵は、ざわめきながら飛来する影を目で追った。
 飛竜の騎手は、右手で手綱をつかみ、鞍壷に立ち上がった。次の瞬間、手を放し、ふわりと宙に舞った。
 あたりから、ひっと息を呑む音が響いた。
 人影は落下しながら形を変え、大きさを変え、みるみるうちに変化して行く。
「お、お館様」
“わたしの本性は、獣だ”。田島の耳に、殺生丸の低い声がよみがえった。目の前のそれが、獣以外の何だろう。天神城の表門の前には、純白の巨大な犬が姿を現した。
 化け犬は地面に足をついてはいなかった。空中三尺あたりを、雲のようなものを踏まえて浮いている。その左の前足が無残に断ち切られているのを田島は見た。
「何用あってまいった」
真紅の瞳が、諸侯の使いを見下ろした。天神城を取り囲む兵の間から、悲鳴のようなざわめきが立ち上った。馬などは、手のつけようもないほど暴れている。
「田島殿、たじま、どのっ」
坂井家の武者の一人が、すがりついてきた。
「あ、あれが」
「当城の主、殺生丸様にておわす」
田島もまた、なんとか声が震えるのを抑えている状態である。
「ご下問があったようですが」
「いや、用などは」
後の言葉は、口がぱくぱくと動くだけで出てこなかった。その男の上に、化け犬の巨大な顔が覆い被さった。シュウシュウという息の音が恐ろしさに拍車をかける。田島は至近距離で柱ほどもある牙が煌めくのを見た。
「ならば、去れ」
陰陰と声が響く。坂井の使いは、白目をむいて昏倒した。すでに足軽たちは逃げ腰になっていた。
「ま、待たれ」
村上家の使いは、百戦錬磨と名高い武将だった。村上家の主の親戚にあたる男である。
「村上家とこの城は、ながらくよしみを通じてまいった。この後は……」
滑らかな動作で大犬はその男のほうをふりむいた。瞳があやしく輝いた。
「よしみだと?人間風情が、この殺生丸にか?」
村上家の武将は震え上がった。ぎりりと大犬は牙をむいた。
「お、おゆるし」
村上家の男は、ぺたりと膝をついた。
 その瞬間、大犬の右前足があがり、空間を横に薙いだ。耳の痛くなるような、シャァッという音が鳴り響いた。思わず首を縮めた田島は、一瞬のち、信じられない光景を見た。
 天神城の前の森が、みるみるうちに褐色に変じていく。きつい臭気が漂った。
「毒か!」
「次は、そこな身の程知らず……」
わああ、とどよめきがおこった。将も兵も、天神城を冒しに来た者がみな、算を乱して逃げ去っていく音だった。
 田島はしばらくの間、呆然としていた。ふと気付くと、残っているのは、天神城の家中だけだった。小橋などは、両腕で自分の体を抱いて、震えをおさえていた。
「城代様……」
「あ、ああ」
とんでもないものを主に据えてしまった、と、お互い目で言いあった。が、田島には責任があった。
 雲が切れたらしい。満月の光が淡くその場を染め上げた。白い大犬の、小山のような背が、かすかに青みがかって見えた。
 田島は小橋を連れてその近くへ歩み寄り、一礼した。
「お帰りなされませ」
巨大な頭が田島たちのほうへ向けられた。
「他に言うことはないのか?」
人間の姿をしているときよりも、なぜか表情が豊かだった。今、白い大犬は、“恐ろしくはないか”とからかいまじりに聞いているようだった。田島は、意地で、知らぬ顔を作った。
「あの者どもを追い払ってくださりまして、ありがとう存知まする」
ふん、と声がした。主の口癖のようだった。青い光の中に、化け犬の姿が一度揺らめいた。次の瞬間、田島たちの目の前には、艶やかに装った公達がふわりと降り立っていた。
「こやつは、坂井の者か」
浅靴の先で、気絶している男を殺生丸は突いた。
「さようで」
「妙な匂いがする」
人間の鼻には何も感じない。田島は主の考えを邪魔しないように黙っていた。
「このあたりの地図はあるか」
「用部屋にございます」
殺生丸はそのままきびすを返した。
「小橋、坂井の御家来を、お送りしてくれ」
「よろしいのでしょうか?」
主人に黙って返してしまっていいのか、と小橋は言外に聞いていた。
「何かまだ聞くことがおありなら、たたきおこしておられるだろう」
「そういうお方でしたなぁ」

 翌日の昼頃、天守との連絡係をつとめる小姓がやってきたとき、田島は、奉公を辞めたいのならかまわない、と言ってやるつもりだった。
「昨夜は、よほど恐ろしかったであろう?」
小姓の若者、藤谷の顔がひきつった。
「それは、もう」
「おぬし、老いた父母があったはずだな。無理をせずともよいぞ」
藤谷は首を振った。
「いえ、化け物ですが、お美しいお館様ですから」
「はぁ?」
「いえ、その。お館様から、天守へ坂井領の詳しい絵図を持ってまいるようにと仰せがございました」
「そうか。すぐにご用意しよう。それと、藤谷」
「はい」
「その、お館様は、ああいうお方だ。鼻もそうだが、おそろしく耳もいいらしい。めったなことを口にするなよ」
藤谷の顔が、なぜか真っ赤になった。

 数日後、田島が天守にあがったとき、主は窓の一つの前に立って、風を受けていた。いつも彼が居る机帳の中には、りんというあの少女がいるらしかった。
りんは、主の言うことに逆らわぬ子だった。どのような関係なのか、いまだに田島は、殺生丸から聞き出してはいない。ただ、りんは、賢い少女だった。
 最初のうちは、言いつけられたのか、天守から一歩も出なかった。が、このごろ邪見という妖怪といっしょに城の中を歩いているのを見かけることがあった。邪見が主の用を足すために城へ降りるのにくっついてくるのだ。天神城のなかで、りんが入ってはいけない場所などなかった。りんは中庭へ出たり、奥向きへもぐりこんだり、とあちこちで楽しんでいるようだった。
 城の者たちにとって、りんは小さい下女と区別がつかないような者だった。実際、殺生丸の連れとは気付かなくて、りんに言いつけて井戸に水を汲みにやらせた女中もいる。あとから小橋が青くなった。
「りんも、お手伝いしたかっただけです」
「お方様にそんなことをしていただいたと、万が一お館様に知れましたら……」
続くセリフを、言わなくてもお方様は察したらしい、と後で小橋は、田島に言った。それ以来、りんは城の仕事に手を出すことはしなくなり、城の者も、この少女を黙って遊ばせている。頭のいいりんは、誰の迷惑にもならないようにすることを知っており、まもなく奉公する者たちは、りんに慣れた。
 ただ、りんにとって、一番居心地がいいのは、田島の目の前に居る恐ろしい妖怪の傍ら、であるらしかった。
 殺生丸は、そばで平伏する田島に、もの問いたげな視線を向けた。
「よい、季節でござります」
殺生丸は視線を外へ流した。天神城の立つ山の斜面には、このあたりで“ククリ”と呼ぶ木が花をつけ、薄紅色になっていた。
「花見時分になりますと遊芸の者や歩き巫女などが集まってまいります。また、旅の武芸者、修行僧など、など」
殺生丸は、振り向いた。
「りん」
「はいっ」
すぐに帳が開き、少女の裸足の足が、漆塗りの階を踏んでおりてきた。
「城下で花見があるそうだ。見たいか」
りんの顔が、ぱっと輝いた。
「はいっ、りんは、見たいです」
邪見があわてた。
「殺生丸様、本気でおっしゃってますので?」
殺生丸は、とりあわなかった。
「席を用意しろ」
「旅芸人をりんに見せるおつもりですか。りんに、甘すぎます」
「逆だ」
ぽつりと言ったきり、殺生丸はまた外へ視線を向けた。ぽかんとしている邪見に田島はそっと声をかけた。
「邪見どの、邪見どの」
「お、なんじゃ?」
田島は咳払いをした。
「旅の芸人のなかには、先日寄せてきた近隣六カ国の忍びが、必ずおります」
「なんと?」
「お館様は、そやつらに、ひいては近隣諸国に、お方様をご披露なさるおつもりか、と推察いたしまする」
そう、逆、なのだった。“りんに芸を見せる”のではなく、“近隣の者にりんを見せる”ための見物なのだ。
「おおう」
「お館様の女君としてのご披露ならば、それなりのおこしらえが必要かと存じますが、どのようなお召し物をご用意いたしましょう?」
「はて、女の着る物など、見当もつかん」
「僭越でございますが、田島が娘、綾におまかせいただいてもよろしうございましょうか」
「そりゃ助かる。まかせたぞ」
そのとき、りんが、田島の袂を引いた。
「あの、綾さまって、田島さんの娘さんだったんですか?」
「綾、でよろしうございます。そのとおりですが」
「あたし、あの方から、お部屋を取ってしまったみたいなんですけど」
たしかに、天守のこのあたりは、城で行事があるときは城主の妻と娘が入るための一番よい部屋だった。
「お気になさらず、お使いください」
りんは、黙って田島を見上げていた。謝ってはいけないことを、この幼い娘は悟っているようだった。
「綾を、お方様のおそばへあげましょうか。おなごゆえ、お方様の御用をおうかがいするにはよろしいかと存じます」
りんは首をかしげた。
「おそば?」
殺生丸が、低い声でつぶやいた。
「元の姫か」
「それがしの娘でございますから」
「ここへよこすなら、りんのはした女にするぞ」
そのくらいの反応は予測していたので、田島は何も言わなかった。
「殺生丸様、はした女って何?」
「召使だ」
「りんは、召使なんていりません。何でも自分でできます」
 田島の娘、綾は、父親の贔屓目からばかりでなくなかなか美しい娘だった。今年、十七になる。このような状況では、娘を新しい領主の妾に献じるのが相場というものだったのだが、田島も人の親、娘をこの恐ろしい男に添わせたいか、というと、そこはためらいもある。何よりも、殺生丸はそのもくろみを完璧に拒絶した。
「りん、綾に会ったのか」
「このあいだ、お話しました。きれいなお姫様でした」
殺生丸は、少し間をおいていた。
「田島、綾をこの天守へ入れることは許さん。が、りんを遣わそう。手習いなどさせてやれ」
かしこまりました、と平伏して、田島は心の中で笑いが動くのを感じた。よほどこの小さなお方様がお大事なようで……